宵闇眩燈草紙・私家版〜よもつしこめ〜

「木下? 木下じゃないか! 久しぶりだなあ!」

「うん?・・・・・・沼淵か。確かに久しぶりだ。先生の葬式以来か。元気にしてたか?」

「ああ、見ての通り、至って健康さ。そう言うお前も……ははははっ、相変わらずみたいだなぁ!」

 近頃気がついたのだが、厄介事というのはほんの些細な事から始まり、巻き込まれたと思った時には既に泥沼にはまり込み、にっちもさっちもいかなくなることをいうらしい。

 今回の騒動の発端も、旧友との再会という些細な返事から始まった。

 沼淵と私は同じ師の下で共に医術を学んだ仲である。とりたてて親しかったわけではないが、人間古い知り合いに会うと話が弾んでしまうものらしく、書生時代の莫迦話から自分達の近状と、四方山話が尽きることはなかった。そこで立ち話ばかりというのもなんなので、沼淵が自分の家に寄っていかないかと言い出した。往診からの帰りであるし、家に帰ったところで居候二人の相手をするくらいのこと。特に断る理由も無いわけで、彼の言葉に甘えることにした。

 沼淵の病院は、話からある程度の規模は想像はしていたが、実物はそれ以上だった。私と違い真面目に医術を学んだ沼淵は、先生の下を離れ海外に遊学していたという。三年ほど外国で学び帰国すると、沼淵は彼の父が開業していた病院で見習い医師として働き始めた。その父も五年前に他界すると、この病院は二度の増築・改修を受けて沼淵の物となったらしい。

 その沼淵医院であるが、国が経営しているものではないかと見まごう程の立派なものだった。そんじょそこらの町医者の持つものではない。確かに沼淵の家は資産家だったと聞いた記憶があるが、ここまでとは思いもしなかった。

「流石のお前でもこれには驚いたようだな」

 私の何処をさして流石と言うのか分からないが、沼淵は私が目を瞠っていることが嬉しいらしく、得意げに笑って見せた。

「まあ、僕が威張れるものではないんだけどな。実際ここまで大きく出来たのも、ひとえに環の奴の御蔭だからな」

 大の大人のはにかんだ笑顔なんぞ、そうそう見れるものではない。ただしあまり見たいものでもないが。

「環の御蔭って、奥さん資産家かなんかの御嬢さんか?」

 羨ましい、と付け足すことはしなかった。案の定、沼淵の奥方は、どこぞの御大臣の御令嬢だという話である。何でも貿易商を営んでいるそうな。

「先に言っておくが財産目当てじゃないぞ! あれとは二年越しの付合いだったんだからな」

「そんなことができるとは思っちゃおらんよ。三つ子の魂百まで。昔からの一本気は相変わらずか」

 沼淵という男は昔からこうだった。要領が悪いというか、不器用というか、これと決めれば梃でも動かない頑固さと一途さを持っていた。それが同じ師についていながら名医として大成したものと、闇医者と言えば聞えはいいいいが、その実今更基本に返って医学を学んでいる歯牙いない藪医者とを分けたものだろう。いや、私だって真面目に勉強しなかったわけではないんだ、唯人には得手不得手というものがあって・・・・・・、などとウダウダ考えている間に、沼淵は何か私に話しかけながら病院の中に入って行く。どうやら彼が暮らす住居も病院内部に造られているらしい。

 沼淵医院の受付を通る。その時何か違和感を感じた。得体の知れない感覚。何かが違う、しかしそれを明確な言葉として表現できない、そんなむず痒い感覚をだ。鈍い私が気がつく位だから、かなりおかしなことのはずだ。そうなれば無論ここで暮らしている沼淵もとっくに気づいているはずだろう。しかし奴は何も言わなかった。

 だから私は、その事を尋ねずにおいた。厄介事を相談されたりしたらたまったものではない。蛇のいそうな藪は突かないに限る。
「今日は学会があってね、休診にしてたんだ。決して流行ってないわけじゃないからな」

 その苦しい言い訳は、ほとんど答えのようなものだ。私が気づいたことは、つまり待合室と思しき空間に、人っ子一人いなかったことだったのだ。否、一人もいないわけではない。待合室の窓から小さな人影が見えた。どうやら老人らしい。その海老のように背が曲った老いた男は、鈍く光る瞳で室内を窺っていた。あの目は良くない

。あの薄ら暗い瞳の色は、碌な者じゃない。

「沼淵、あの老人は?」

「彼はうちの技師さ」

「技師?」

「ああ、うちは外国から最新の医療設備を買ったものでね。それを整備できる、専門の技師を雇う必要があったのさ」

「ふぅん。最新技術とは縁遠そうに見えるが、人は見かけによらないものだな」

 単なる偏見かもしれないが、それでも、これでもある種の者たちを見抜く目は持っているつもりだ。あんな男を雇うのは、後ろ暗いことをさせるためとしか思えない。しかし最新医療設備とは良く言ったものだ。やはり嘘が苦手なのは、相変わらずのようだった。

 そんなあまりよろしくないモノを感じたせいか、私はその日は沼淵と呑んだ舶来の酒の味も良く分からぬまま、二日酔のような気持ち悪さだけを持ち帰ることになった。


 それから何日かたった、ある日のことである。私がいつものように往診に行こうとすると、これまたいつもの如く支度を整え、椎名さんがついて来た。もうこれは既に彼女の中で決定していることらしく、私が何を言っても無駄なので黙って認めていることだった。それに確かに助手が居るかいないかで、患者の受けが良いことも真実だったからだ。その椎名さんが、玄関を出る時に言った。

「そういえば京太郎。ここの所物騒ですから、虎蔵から段平の一本でも借りてはどうでしょう?」

 玄関を潜りながら、私は呆れた顔をこの褐色の美少女に向けた。私がそんなものを扱えると本気で思っているわけでもあるまい。だが特に考えもなく物を言うから、時々それがとっぴに聞こえる。因みに今の服装は、何時か来ていた白衣ではなく、私同様普段着に近い動きやすいものだ。流石に往診の度に客から奇異の目を向けられるのは不本意なので、頼み込んで普段通りの服にしてもらった。何故か美津里がえらく渋ったが、当事者ではない者の意見など関係ない。

 何時ぞやの教訓とその教訓の代償で受けた怪我の性で、一時は馬車など用立てていたのだが、どうにも私の貧乏性に合わず結局今までどおり歩いて相手の家を回っている。だからこの日も、私たちは並んで道を行きながら、道すがら私は椎名さんがまたどうしてそんな妙なことを言い出したのか尋ねた。

「最近買物に言くお店の人に、物騒だから早く帰りなさいと、よく言われるのです。何でも女性だけを狙った人攫いが出るんだとか。もう十何人もいなくなっているという話ですよ。知らなかったんですか?」

 黙って彼女の話を聞きながら、私はちょっとした感慨に耽っていた。少し前まではこの国では珍しい黄金色の髪と褐色の肌を持つということで、不躾な視線を向けられ肩身を狭そうにしていた椎名さんが、世間話が出来るまでになっていたことにである。

 勿論、そんなことおくびにも出さない。私は尤もらしい顔で、神妙に頷いているわけである。

「それならなおのこと、私は安心だ」

「けれど私は安心じゃありません」

「まさか守れと言うんじゃあるまいな?」

「これで結構頼りにしてるんですよ、京太郎?」

 これは困った。私の家に来た頃ならまだしも、今でも、しかもボコボコにやられた所を見ていたはずなのに頼るというのは、私の値段も存外値崩れていないらしい。しかしこうまで高値をつけられては、わずかなりともそれに見合うことをせねばという、妙な義務感なんぞが生まれてくるから厄介だ。自分の身すら儘ならぬのに、何と面倒なことだろう。

「……あまりあてにはしないでくれ」

 だから結局の所、私にはそう言うのが関の山なのだ。

 この日、ちょっとしたことがあった。否、後々のことを考えるとちょっとしたことではなく、ほとんどむき出しの本質と言っていいのだが、起こった事実はちょっとした邂逅でしかない。

 要は往診の帰りで沼淵と会ったというだけのことである。確かにただ道で行き会ったというだけのことであれば、何も問題ない。どんな聖人君子だって道くらい歩くだろう、驚くことはない。気になったのは、その時の沼淵の様子とそこでかわされたやり取りである。

 辺りに夕闇が満ちるにはまだ少々早いそんな刻限。周囲は人生のどこかで一山当てた金持ちたちが住まう豪邸を取り巻く背の高い塀に囲まれ、こういう場所に特有の厭人的な閑静で包まれている。そんなのっぺりと続く白壁に溶け込むような明るい鼠色のスーツを着た沼淵が、往来を何処行くともなくフラフラとそぞろ歩いていた。彼を知らぬ者が見れば、どこかのお大尽の家の者が少し遅い散歩に出ていると思えなくもない。ただ彼を知る私としては、こんな場所を自分の城まで持つ医者が出歩くのはとても不自然に思えた。加えて彼の病院からここまで、ちょっとした散歩という距離ではない。

 それだけではなかった。沼淵の様子は、明らかにおかしかった。身にまとう雰囲気は医者というより、盗人がどの家に仕事に入ろうかと下見しているような、そんな剣呑なものだったのだ。だがそれ以上に異様だったのは、沼淵の目だった。橙を煮詰めたようなドロリトした残照の影絵の中で、沼淵の双眸は妙な具合に爛々と輝いていた。それは人間というよりも動物や化物に近い。それも人をとって喰うような狼や鬼のそれだ。

 有難いことに、先に友人の姿をした鬼に気がついたのは私のほうだった。魑魅魍魎に馴れているとはいえ、こんなモノに人気の少ない所で突然声などかけられたくはない。逃げ場もないのであれば、こちらから声をかけるに限る。流石に沼淵といえども、話している途中におかしなことをしたりはしないはずだと、そう思ったのだ。

 私の声に、影法師は鬼から沼淵へと戻ったようだった。瞳に宿る剣呑な光が和らぎ、人間らしい理性がわずかだが戻った。そして今ようやく目の前の男が私であると理解したように、呆けた顔を向けた。

「……ああ、木下か。どうした、こんな所で?」

 それは私のセリフだと思ったが、沼淵の様子にそんなことは詮無いと考え、「往診の帰りだよ」とだけ言い、「そういうお前は、ここで何をしているんだ?」という問を飲み込んだ。もっと正確に言うなら、息を飲んだ時に一緒に嚥下したというべきだろう。というのも、沼淵だった影法師がまたあの鬼の目で、私の隣を見ていたからだ。

「……木下、その人は?」

 椎名さんが私の背に隠れた。私の腕を掴む手が微かに震えている。異能を持っているといえど、椎名さんは私の知る化物どものような面の厚さがあるわけではない。あんな風に爪先から頭の先まで、まるで料理人が食材の色艶を見るような目で見られれば、誰だって心穏やかでいられるはずがない。

「ああ、往診を手伝ってもらってる、知り合いの娘さんだよ」

 私は沼淵の視線から椎名さんを庇うようにそれとなく体を動かして答えた。それに沼淵は気づかぬらしく、しかし私の体越しに椎名さんをジッと見ていたが、ポツリと呟いてようやく私の方に視線を戻した。

「……美しいが、異人ではな……」

 それは正しく不意に口をついて出た言葉だったようで、沼淵本人も何か言ったという自覚はないようだった。それに私たちが不審を抱いていることにも一向無頓着で、今からでも自分の家に遊びに来ないかと言うのだった。

「ほら、木下。前に来てくれた時は、環に会わせられなかったじゃないか。ここの所、あいつの調子も良くてな、一度お前に会わせたいと思ってたんだ。環もお前に会いたがっててな……」

「否、悪い。今日は先客があってな、またにしてもらえると助かるんだが……」

「そうか。それじゃあ仕方ないな……」

 私が答えると、沼淵は存外あっさりと引き下がり、残念そうな顔をした。私たちはこれ幸いと鬼に気づかれないように家路を急ぎ、沼淵はまた何処へともなくフラフラと歩き出した。

 その日、私の往診先の辺りの家から女が一人、消えた。嫌なことだけ当たる私の勘の通りに。


「それはあれだな、ちょっと前に花街にも来てた奴だな」

 卓袱台で管を巻きながら手酌で酒を呑んでいるゴロツキ、長谷川虎蔵が言った。相変わらず遠慮なく人の家で飲み食いする奴だ。とりあえずコイツの手の届く範囲にある酒を取り上げ、自分の分を確保する。持っていかれる徳利を未練たらしく見ながら、虎蔵は話の先を続けた。

「あっちこっちの置屋やら女郎屋回って、水揚げ前の新造やら禿やらを買い上げてるお大尽がいるってんで噂になってたな。何でも何処かの医者先生なんだとか」

 一服つけぷぅと煙を輪にして吐き出すと、煙と一緒にさらに何かを思い出したらしく、また滔々と言葉を紡ぎ始めた。

「そう言えば……」

「何だ。まだ何かあるのか?」

「いやな、その話と同じ頃にもう一つ妙な話があってな。それによると、夜半に黒い鎧が出るんだと」

「黒い鎧?」

 惚けた顔で煙草をふかす虎蔵に、私はあからさまに顔をしかめてみせた。「そんな嫌そうな顔をすんなや」と、虎蔵も同じような顔をした。

「まあ、俺もようは知らんのだが、何でも真っ黒な鎧を着た奴がウロウロしてるんだとか、その鎧が空を飛んでくる来るとか、そんな馬鹿馬鹿しい話さ」

「どうせ酔っ払って、烏や何かと見間違えたんと違うんか?」

 これには流石に私も呆れる外なかった。いくらトンデモ話に馴れているとはいえ、こんな流言飛語まで信じてしまう程私は毒されていない。話をしている虎蔵も私と同様らしく、煙管をくわえた口元を苦々しく歪めた。

「鳥と鎧をどう見間違えと言うんだ。それより、その黒い鎧が出るとな、店から女が消えるんだそうだ。俺も本当に女が消えたって店を知ってるから、単なる噂じゃないようだな」

「しかし花街で人がいなくなるなんぞ珍しくあるまい」

 肴を抓み、杯を干して言う。花街は私の得意先の一つでもある。入り浸っているこのヤクザほどでないにしても、全く知らぬ場所というわけでもない。元々、行き場のない者が最後に行き着くドン詰まりだ。そこに生きる者の腰も随分と軽い。だから昨日来た女が今日いない、などということは良くある話だ。しかしこれはそんな話ではないと虎の字が言う。

「確かにそうだが、だからと言って態々こんな妙な尾鰭をつけることもないだろう?」

「……そう言われてみれば、確かにお前の言うとおりだ。これじゃ噂じゃなくて、只の面白くもない怪談だ」

 そうなのだ。誰と誰が廓抜けをしただの、借金で首が回らなくなっただのという話なら、それこそ掃いて捨てる程ある。そんな話に実はどこぞの組の偉いさんのお手つきだったというような噂がつくことはあれど、黒い鎧が女を攫うなんぞという話は聞いた事がない。だからといって、本当に黒い鎧が夜毎に花街を闊歩しているなんぞと信じられるはずもない。

 そんな風にこの妙な話を酒の肴にしていると、黙々と箸を動かしていた美津里がその手を止め、ついと艶めいた視線を私に向けた。

「……京の字よ」

「なんだ?」

「沼淵医師の専門が何か、お前は知ってるか?」

「……確か免疫系だったと思うが、それがどうした?」

 沼淵の口からハッキリと聞いたわけではないのだが、なんとはなしにそんなことを聞いたような気がする。何だって美津里はそんなことを尋ねるのか。しかしこの底意地の悪い傍観者は、例の人を小馬鹿にした笑みを口の端に浮べるだけで、私の質問に対して明言を避けた。あからさまに何かに気がついたことは知らせる癖に、答えをはぐらかして私を悔しがらせようという魂胆なのだろう。だがそれが分かっていてその手に乗ってしまう己が少々情けなくもある。とはいえ相手が相手だ。それも仕方がない。何しろ嫌がらせの年季が違うのだから。

「いやいや、聞いてみただけさ。成程成程、そうかそうか。ところでお前さんは沼淵医師の奥さんに会ったことはないんだったね?」

「ああ。奥方には会ったことはないな」

「それでお披露目に呼ばれているんだろう?」

「……そうだが、何を考えてる?」

 美津里の言霊が話を不穏な方向へ押し流していく。「これは不味い」と今までの経験と直感が警鐘を鳴らしているが、時は既に遅いようだった。私の顔色を読み、美津里がグニャリと口元を半月の形に開いた。

「何、大きな病院だ。一人や二人、客が増えたところで問題なかろう? その最新設備とやらも見てみたいし」

 こういう時、私は自分の勘がもう少し鋭かったならと、思わずにはいられないのである。


 日もとっぷりと暮れた頃、往診の帰り際のような唐突さで、なおかつ彼の見知らぬ女も連れてきた私を、沼淵は迷惑そうな顔一つすることなく、否、むしろ嬉しそうな顔で迎え入れた。

 その日の沼淵医院も、やはり沼淵とあの老人だけで他に人はいなかった。老人は以前見た時と変らぬ薄汚れた作業着で、待合室のソファに座っていた。仕事の合間の休憩なのだろうか、手を離してきた仕事が少々気にかかるようなそんな風情でぼうっと虚空に視線を彷徨わせていた。だが私たちの姿を見つけると、お義理程度に小さく会釈してそのまま俯いて何処かへ行ってしまった。しかしこんな遅くまで仕事とは、彼は一体何をしているのだろう。私の想像を超えているし、どうせ超えていない範囲だったとしても、あまり想像したくない類のことなのだろう。

 美津里は私の友人で薬問屋の娘だということにした。猫を被ってしおらしく一礼した美津里を、沼淵はいつかの往診の時に見たのと同じ、値踏みするような視線を向けていたが、前と違って今日は満足そうだった。美津里は彼の眼鏡に適ったらしい。

「歓迎しますよ、お二人とも。今日は家内も体調がいいので、一つご挨拶させてください」

 おかしな話である。私なら兎も角、見ず知らずの美津里にまで病床に伏せる奥方を紹介しようというのだ。とはいえ、今日の、というか美津里の狙いはこれであるようだったので、私たちは沼淵の言葉に素直に従うことにした。

 沼淵の後について、明度を落とした廊下を歩く。足音は妙な具合に反響し、私たちを遠巻きに取り囲む。矢張り、と私は思う。ここは病院ではない。何故ならここには生の呼気が感じられないからだ。何物かが生きているという感じがしない。場所が、人を生かそうとしているように感じられないのだ。寧ろこの場所の静寂は、その反対の死に向かって傾斜しているようにさえ感じられた。言わば私たちは冥府に向かっているようなもの。そう、丁度ここはかの大神が根の国に赴いた折に通ったという、黄泉津平坂なのではないか。

「さぁ、ここだ。ここが環の部屋だ」

 幾つかの階段を下り右に左にと廊下を曲ること数度、私たちの足は重々しく冷たい鉄の扉の前で止まった。ここが沼淵環なるモノがいる場所であり、この病院に蔓延る死と闇の中心部なのだろう。

「ほぅほぅ。これは大したものだ」

 溜息をつく私の隣で、この突起物一つないツルリとした鉄塊を見上げ、美津里が感心したようなことを言った。これをどうやって開けるのだろうかと思っていると、沼淵が壁から生えているレバーを下ろした。ゴトンと何か巨大な物が壁の中で落ちたような音がし軽い振動が起こると、扉は室内に向かってゆっくりと開いていった。空気の流れさえも、この扉は押し止めていたらしい。骨の髄まで凍りつかせるような鋭い冷気が、不吉な白い靄となって床を這い、私たちの足元に絡みついてきた。だがそんなことは瑣末なことに過ぎなかった、少なくとも私にとっては。私は誘われるようにフラリと、その一切の温かみを持たない光に満たされた室内へと歩みを進めていた。

 そこは私が想像していたよりもずっと綺麗で清潔で、それ故に何もなかった。生きている間の、そして死んでいく間の、あの不快で息詰まる臭いがなかった。そこに存在していたのは、部屋そのものと化している無数の機械とコード、壁には埋め込まれたガラス管の中の、オブジェの如く飾られた女のものらしいバラバラの人体パーツ。そしてそれらに囲まれるようにして眠る、一人の女だけだった。

「紹介しましょう。これが僕の妻、環です。ほら、環。こいつがお前の話したがっていた木下だ」

 私の側をスッと通り過ぎベッド脇に立つと、沼淵が眠る女の額にかかった髪を払いのけ、私を紹介した。その声が聞こえたのだろうか、死んだように眠る女が瞼を開けた。そこから覗く瞳は右が黒で左が焦げ茶色。二つの色の違う瞳が、まるでそれぞれが意志を持つようにギョロギョロと動き回ったかと思うと、唐突にピタリと私の顔に焦点を合わせた。そうしてそのままジッと私の顔を見つめていたが、何の前触れもなく静かさを湛えていたはずの頬がピクピクと引き攣り始めた。その痙攣は漣のように彼女の顔中に広がって行き、その青白い唇に伝染する段になって、私はようやく彼女が何かを言おうとしているらしいと気がついた。だが顔の筋肉が彼女の物ではないかのように、その意思を言葉にすることを拒んでいた。結局、彼女は「アウアウ」という生まれたばかりの赤ん坊の泣き声じみたものを発することで精一杯で、私には彼女が何を言ったのか分からなかった。

 達者に話せない自分の妻の様子を愛おしそうに見つめ、沼淵が穏やかに笑った。

「すまんな木下。環の奴、まだ新しい体に馴れていなくてね。上手く動かすことができないんだ」

「……そうか、新しい体ね……」

 私は機械の中に納まっている、元は別の誰かのものだったはずの手や足、皮膚や臓器を見回した。沼淵がそれに気づき、私のために得意気に説明する。

「そうさ。他人のものは他人のものに過ぎないからな。こうやって環の体に合うように、色々と準備をする必要があるのさ」

「こいつぁとんだ魍魎の函だ」

 沼淵の言葉を聞いて今まで黙っていた美津里が、いつもの嘲笑を浮かべた。しかし沼淵は既に自分の世界に沈んでいるようで、美津里の嘲笑には気づかない。沼淵はベッドから離れると自分の収集品を愛でるように、幾つもの臓器の浮ぶガラス管に手を当てそれを優しく愛撫していた。

「でもこうしていても中々環の体には合わなくてね、すぐに痛んで腐ってしまう。……全く、環の我侭にも困ったものさ」

「そう言いながら、幸せそうじゃないか」

 私が言うと、沼淵は全く困ったように見えない、嬉しそうな笑みを浮かべた。そうやって世話を焼くのが嬉しくて堪らないというような、そんな至福の笑み。それを見て私は溜息を吐かざるを得なかった。あちら側に逝ってしまったと確信したからだが、それだけではない。そんなモノに関わると、面倒事に巻き込まれてしまうこと必死だったからだ。

 そんな私の内心など気づくことなく、沼淵は次々とガラス管に手を這わせながら、矢張りというか当然というか、自分勝手なことをペラペラと喋り続ける。

「ああ。幸せじゃなかったといえば嘘になる。行ったこともなかった娼館にまで出向き、環に会うような健康な部品を探すのも大変だったよ。しかも苦労に見合うような

良い部品には終ぞ巡り合えなかった。それに部品を買い上げるのに金もかかる。ただでさえ環を生かしておくのに金がかかるというのに、これじゃ採算が合わない。だから……」

「だから女を攫うことにしたのか?」

 私が続けると、沼淵は一瞬驚いた顔をしたがすぐに破顔した。悪戯を見つかった子供のような無邪気な顔。奴の話すこととのあまりのギャップに、私は沼淵が既に遠くにあることをまざまざと見せつけられ、思わず額を強く押さえてしまった。そうしている間も、沼淵の嬉々とした手柄話は続く。

「ああ。最初からこうしておけばよかったんだ。そうすれば金もいらないし、何より何処からでも部品を調達できる。それに環のリハビリにもなるからね」

「ほう? それがどうして奥方のリハビリになるんだい?」

 美津里の声はベッドの傍から聞こえた。さっきから其処にいたかのような平然とした様子で、横たわる女の顔をマジマジと観察していた。思わぬ場所から声が聞こえたからだろう、沼淵がギョッとしてベッドに駆け寄ったが、その時には既に美津里は壁の機器類の傍に立っていた。沼淵は得体の知れない相手から妻の身を守ったと安心したらしく、ホッと一つ溜息を吐くと落ち着きを取り戻すと、つらつらと機械を眺める妖女の問に答えた。

「何、単に夫婦の共同作業というだけのことですよ、麻倉さん。今、それをお見せしましょう」

 そう言うと、沼淵は壁の機器を操作した。するとまたあの低く静かな音がし、壁の一部が襖のように開いていった。その奥には薄闇が凝るばかりだったが、次第に闇に目が慣れてくると、何かが立っているのが見えてきた。それが何かを知ると、美津里は細く細く息を吐いた。それは蛍火に照らされた、一領の漆黒の西洋鎧だった

。沼淵はその傍らに立ち、鎧の面頬に頬ずりせんばかりに顔を近づけて、うっとりとした声で言った。

「紹介しましょう。これがもう一人の、元気な環です。そこで眠っている環の体の部品を集める手伝いをしてもらっているのですよ」

 その声に反応したのか硬質の鈍い音を立てて面頬が上がり、その下から真赤な唇と整えられた尖った顎を冷光の下に晒した。眠っている環嬢とは違い、鉄の鎧に身を包んだ環嬢は、艶やかに唇を歪めてみせると、薄闇の閨から彼女は身を起して自らの足で歩いてみせた。それを見て美津里の口から「ほぅ」と感嘆の溜息が漏れた。

「その機械人形は自立運動するのかい、中々の代物だ。……とはいえ、機械の体が欲しいの、とは正しくこんなことを言うんだろうねぇ」

「機械の体ではありませんよ。こちらは彼女の訪問着みたいなもので、彼女は彼女でしかありません。なに、貴女にもすぐに分かりますよ。貴女のその美しい部品が、彼女の一部になればね」

 誘うように両手を広げると、沼淵は陰鬱な笑みを浮かべた。その傍を、鉄の棺から起き上がった死人、否、怨霊にすら成り切れない半成りの機械仕掛けの人形が、美津里に向かって真直ぐに歩いてくる。

 とはいえ私に直接被害はなさそうなので、私はそれほど焦っていなかった。何せこいつらは人外の化物なのだ。これくらいの修羅場でどうなるものとも思えない。

 予想していた通り、美津里は一向慌てた様子もなく、サッと片手を上げた。まるで何物かに合図をするような仕草だ。

「いやいや。アンタの相手は私ではないんだなぁ」

 と、どこかで聞いた事のあることを呟くと、その細い指であまり上手くない湿った音を鳴らした。それと同時に私の背後で、「キィイン」と力一杯鉄と鉄をぶつけたような甲高い音がした。振り返ると、最前まで確かにあった鉄の扉が、バラバラの幾つかの塊になっているところだった。

「女を殴るなぁ趣味じゃねぇが、これも仕事とあっちゃあ仕方がねぇ」

 鉄の塊が床を凹ませる轟音を囃子に、この何処にも救いのない狂言舞台の花道に、ゴロツキが一匹、我が物顔で現れいでた。両手に剣呑な段平を構えた眼帯をした黒尽くめ、我が家の居候こと長谷川虎蔵である。しかし歯を剥いて今にも噛みつかんばかりの狂犬のような顔で「女を殴るのは趣味じゃない」と言われても、誰が信じられるだろう。

 この突然の闖入者に沼淵は驚き、その凶悪な相貌に射抜かれ身を竦ませたが、彼の妻はこの黒尽くめの凶刃を見ても怯む素振すら見せなかった。それどころか、美津里や私のことなど眼中にないように、先ほどまでとは比べ物にならない速さで虎蔵へと突進した。それは私の目には黒い弾丸のようにしか映らなかったが、どうして彼女が虎蔵へと向かったことが分かったかといえば、何か重いものが鉄の壁に衝突する大音響と、それに続く虎蔵の呻き声、そして何か大質量の物体が私たちの間を駆け抜けていったという突風に煽られたからだった。

「ちぃぃぃぃっ!!」

 虎蔵の舌打ちのような呻き声が長く尾を引き、壁にぶつかり、それを突き破る音に紛れて聞こえなくなってしまった。

「……はは……ははははっ……はははははははっ!!」

 土煙の向こうに二つの黒い人型が消えると、金縛りが解けたかのように沼淵の口から哄笑が溢れ出た。笑いが笑いを引き起こし、それが奴の心中に安堵と自分の圧倒的な優位を確信させ、その笑いをますます狂ったものにさせていく。

 彼方に目をやれば、二つの黒い閃光は壁をぶち抜き天井を打ち砕き、時に交差し火花を散らし、時に互いを押し潰すように拮抗しているのが見える。

「硬いわ、早いわで、攻撃がよう通らん! お前らも! 見てないで何とかしろよ!」

 先に根を上げたのは言わずもがなの虎蔵である。短気なこの男にとって、埒が明かない状況というのは、どうにも我慢がならないらしい。確かに暴力を以て生業とする虎蔵が遅れをとるのは珍しい。虎蔵の刃と環嬢の鉄の細腕が打ち合う度に、雷のような閃光と雷鼓の如き音が轟き渡る。だが虎蔵の刃はその堅牢な鎧に阻まれ、その細腕を断つことができずにいた。

「それはそうさ、強化某をふんだんに使用した豪華特別ボディだからね! 速く、強く、美しい! 君は完璧だよ! 環!」

 虎蔵の渋面に、沼淵の喜色と興奮が最高潮に達する。口角泡を飛ばし、血走った瞳は現実に焦点を結ぶことなく、己の狂気しか映していないのだろう。とはいえそれも無理からぬことだ。あの虎蔵が手をこまねいているのだから、確かに暴力装置としては十分に及第点に達していると考えていいだろう。

 とはいえ「人を殴ってナンボ」の商売のモノが相手に殴られていれば世話はない。どうやら美津里も見かねたらしい。微苦笑を浮かべ、頭を掻いた。

「やれやれ、仕方ないねぇ」

 そう呟くと、再び音もなくベッドに近づくと、未だにギョロギョロと双眸を蠢かせている環嬢の耳元に顔をよせ、何事かを囁いた。するとどうだろう。今まで無秩序に蠢くだけだった彼女の瞳が、ピタリと止まった。そしてハッキリと体の支配権が混沌から彼女の意思の元に戻った証に、彼女は辛そうに首を曲げ、もう一人の自分の奮戦に魅入る自らの夫を見て、
「……あなた……」

 

 呟いた。それは蚊の鳴き声よりも小さいものだったにも関わらず、沼淵の高笑いはピタリと止んだ。そして恐る恐ると振り向くと、沼淵はこれ以上ないというくらいに目を見開き、まるで信じられないものを見るように何度も何度も瞬きを繰り返した。何かを言おうとして唇を動かすが、緊張で乾いた舌が上手く動かないらしい。何度も不器用に唾を飲み込んで、

「……た、環……」

 ようやくそれだけ呟くとそれで全身の力を使い果たしたように、膝から崩れてその場にへたりこんでしまった。環嬢がシーツの舌から腕を伸ばした。その指先は既に壊死が始まっているようで、赤黒い肉の塊へと変じつつあった。

「……あなた」

「……た、環っ! 環ぃっ!」

 環嬢が再び沼淵を呼んだ。沼淵は少し怯えた顔を強張らせ、しかし必死に這いずって、力なく伸ばされた妻の手を取った。グズリと湿った音がし、沼淵の手を膿が汚した。環嬢はゆっくりと複雑な色を帯びた夫の瞳を見つめ、蒼褪めた顔にどこか悲愴な表情を浮かべて言い募った。

「……どうして……どうして、私を蘇らせたのですか……あのまま、死んだままにしてくれなかったのです……こんな醜い姿を晒させて……お恨みしますわ」

「……そ、そんな……環……私は、そんなつもりじゃ……」

 その言に、沼淵は握っていた環嬢の手を取り落とした。そして妻の言葉に押されるように、ズルズルと後ずさった。逃げる夫を追い詰めるように、黄泉から帰ってきた彼の妻は左右で色の違う瞳をジッと沼淵に向け、いまや顕わとなった怨嗟と怒気をこめた凄絶な顔で、はっきりと自らの意志を言葉にした。

「あなたにまだ私を哀れと思う心がおありなら、どうか今すぐ私を殺して下さい。楽にして下さい」

「……そんな……そんな……環……環ぃぃぃっ!」

 枯れた沼淵の喉から割れた絶叫が迸った。それは当たりに響き渡る二つの黒い影の激闘の轟音をも圧し、決闘者たちの耳にも届いた。その声に反応した機械仕掛けの人形は、ピタリと動きを止めると主の安否を確かめるように首を巡らせた。それは従者としては忠実な行動だったが、戦いの最中にあっては致命的だった。

「気ぃ逸らしたなぁ!!」

 無論、虎蔵がそれを見逃すはずがない。伸ばした腕から彼奴愛用の巨大数珠が飛びだし西洋鎧に絡みついてその動きを封じると、奥の手とばかり一際禍々しく巨大な太刀を取り出した。そして床を踏み抜かんばかりに勢いで彼我の間合いを詰めると、大太刀を真一文字に振り抜いて、黒い鎧を腰の辺りから上下に断ち切った。

「一刀ぉぉぉっ!! 両断っっ!!」

「助けてもらって見得切ってりゃ世話ないよ、全く」

 轟音と共に地に落ちた黒い鎧に目もくれず、千両役者よろしく見得を切る虎蔵を見て、美津里が苦笑いを浮かべた。私も安堵の吐息をついた。これにて大団円といきたい所だったが、どうやらそうもいかないらしい。

「環……どうした、環。どうして動かない? ……立ってくれ。……笑ってくれ。……具合が悪いのか? なら、また新しい部品に変えよう。今度は腸のほとんどを機械にしよう。そうすれば病だってすぐに良くなる。また二人で散歩に行くことも……」

 眼前でもう一人の妻を切り倒された沼淵は、それが現か幻か見極めようと目を見開き、その光景が現実であると知ると目を血走らせて頭を抱えてそれを否定しようとした。だが現実は現実。そこから逃げも隠れも出来ないことを、我が友人は痛いくらいに知っている。それでも奴は逃げねばならなかった。だから当然の結果のように、その目は光を失い開きながらにして盲となり、事実と願望とに板挟みにされた理性は、唯一の逃げ道として狂気の深淵へと駆け下りていくことを選ばざるを得なかった。しかしその淵ですら、沼淵を休ませることはなかった。ふらつくその足首を、淵から這い上がった死人の手がしっかりと掴んで離さなかったからだ。

「あれは私ではありません。あれはあなたが一人の寂しさを紛らわせるだけに造った、ただのお人形に過ぎません。何故なら私はとうの昔に死んでいるのですから」

 ベッドに横たわる死人の体でツギハギされた環嬢の言葉に、沼淵の獣のような咆哮が重なった。獣のように吠え続け肺の空気と感情の全てを声に変えてしまうと、沼淵はそのまま項垂れ動かなくなった。恐らくこれで沼淵は、二度と人間には戻れまいと、そう思った。しかし我が友人は、私が思うよりも精神的に打たれ強かったらしい。あるいはこうなることを、頭の片隅で考えていたのかもしれない。ともあれ程なくして沼淵は壁際に手を着き、ヨロヨロと立ち上がった。その顔はどこかさっぱりとしていて、憑物が落ちたというような、全てを諦めたような風情が漂っていた。

「……ふふっ……あはははっ……すまなかった、御免よ、環。君の気持ちも知らないで、自分が寂しいばっかりに、こんな醜い姿を晒させてしまって……悪かった。だから君を元居た世界に戻すよ。そして、僕も一緒に……君の所へ……」

 誰に言うともなくそう呟くと、幾つかの壁のボタンを押した。それと同時に一つ大きく部屋が揺れた。

「京太郎!」

 美津里の鋭い声が飛んだ。その声に導かれたように再び大きく部屋が揺れた。その揺れは瘧のようにあっという間に建物全体に広がった。部屋の機械類は床に落下し、天井にひびが走ったかと思うと天井が割れた。どうやら先ほどのボタンは自爆装置か何からしい。そうなってようやく事態を飲み込んだ私は、肝を潰して頭を抱えて、先を行く美津里の後を追った。

 一度だけ室内を振り返ったのだが、沼淵は虎蔵が切り捨てた環嬢の上半身を引きずり、ベッドの上の環嬢の手をとると、泣き出しそうな顔で二人の妻に向かって詫び言を呟いているようだった。奴が何を言っていたのか聞き取ることはできなかった。その前に一際巨大な瓦礫が彼らの姿を、その強大な体の下敷きにしてしまったからだ。それを見てしまっては、私はほうほうの体で外へと逃げ出すしかなかった。

「勿体無いことしちまったねぇ」

 外へ出て、もう安全だという所まで来ると、美津里が目の前で瓦解していく建物を見ながら眉をしかめた。どうやらコイツ、あわよくば沼淵の病院の珍しいものをがめるつもりだったらしい。すっかり当てが外れたと、ブラブラと空手を振って残念そうにしていた。そこで私は気がついた。ここには私たち以外にも人がいたはずだということをだ。

「おい。そういえば爺さんはどうした?」

「爺なら、ほれ、そこに」

 私の質問に、虎蔵が後を指さす。その先には床に額づくようにして咽び泣いているあの老人の姿があった。その姿に院内で見たような陰気な雰囲気は何処にもなかった。滂沱と泣きくれる姿は、目に入れても痛くない孫を失った好々爺を思わせた。

「どうやらあの爺さん、あの部屋の機械の設計者だったらしいな。で、それをあの医者に勝手にぶっ潰されたんで、いい歳して凹んじまってるらしい」

 一服と煙草に火をつけながら、虎蔵が言った。爺さんを助けたのはコイツらしい。予め美津里から頼まれていたようで、病院の地下で機械を整備していたのをとっつかまえ、病院の外に放り出しておいたらしかった。してみると、この女はこういう結末になるだろうと予想していたということになる。相変わらずシレッとした顔で、とんでもないことを考えている奴だ。

 そう思い、私が未だもの欲しそうな顔で病院の瓦礫を見つめる美津里の横顔を睨みつけた。するとこの魔女は気持ちを切り替えようと乱暴に頭をかいていた手を止め、睨みつける私に顔を向け、内心などお見通しだといわんばかりにニヤリと笑った。

「まあ、あの爺さんが生きてただけでめっけものと思っておこうかね。ちょうど新しい精製機の整備屋を探していた所だし。あの機械を弄れる位なら、別の機械にもすぐに馴れるだろうさ」

「ならちゃんと報酬に色をつけてくれよ」

「ああ、分かった分かったよ、五月蝿いねぇ。そいつは帰ってからさ。ほら、お前もだ、京太郎。とっとと帰るよ。すっかり埃をかぶっちまった。風呂に入って、一献つけようじゃないか」

「ああ、今行く」

 既にここには興味がないとばかりにブラブラと歩き始める二人におなざりな返事をして、私はしばらく瓦礫を眺め、煙草をくゆらせていた。

 神代の物語と同じく、あの世への道は岩によって塞がれた。しかしかの物語とは違い、この物語では夫も妻と一緒に根の国に留まってしまったと、つまりはそういうことなのだろう。

「……死すらも二人を別つことはできなかったか……ま、それもいいさ……環殿と仲良くな、沼淵」

 短くなった紙巻を瓦礫に放ると、私も踵を返した。

 今は無性に酒が呑みたかった。

あとがき

何だか一年に一宵闇と化しているような気がする。けど時々検索でひっかかるみたいなので、宵闇信者としてはその声ならぬ声に応えたいわけで……
とまあ、そんなわけで宵闇です。バトル主体にしたかったんですが、あんまりバトルにならなかったのですよ。話としてはまんま「魍魎の匣」ですね。ひねりもねぇもんなぁ……今度は馬呑吐とか出して、派手なのにしたいです。

Fin.

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