宵闇眩燈草紙・私家版〜このよのそとから〜

『門』が開き、『あちら』の世界と『こちら』の世界が混ざり合う。

『こちら側』での『門』は、人の頭程の大きさの黒い渦だ。

 それは正しく『こちら』の世界に空いた深い深い穴なのだ。 水を満たした器の底に穴を開ければそこから水が零れるように、『門』から『こちら』の世界が『あちら』の世界へと流出していく。

  それは『あちら』の世界とて同じなのだ。

『あちら』の世界の存在や法則も『こちら』へと流れ込み、『こちら』の世界と溶け合っていく。

『門』が開いたこの場所は、あらゆる神話に語られる原初の混沌、世界の萌芽と化す。あらゆるものが溶け合い、あらゆる法則が交じり合う今ならば、あらゆることが可能となるだろう。それこそ無から有を生み出すことすら不可能ではない。否、『不可能』という法則すら、今、此処では曖昧で、故に『不可能』は存在しない。

 今ならば、今この時に限るならば、私は『あちら』の世界へと行くことができるだろう。 我らが神の玉座を拝することができるだろう。

  その時、書斎のドアが開いた。彼が来たのだ。私の言葉を信じなかった、暗愚が。

「羨ましいだろう!」

  この世のありとあらゆる存在、あらゆる法則が溶け合い、捻じ曲る混沌の中で、私は彼にそう叫んだ。

 それは私の勝ち鬨の声であった。

 

 

「……夢をね、先生。夢をね、視るんです」

「……夢、ですか」

「そう……夢です、先生」

「それはどんな夢ですか? 楽しい夢ですか? それとも怖ろしい夢?」

「……その夢はね、先生。私が幼い頃から見ていた夢なのです。けれどそれがこの頃、だんだんと鮮明になってきたのです」

  そしてこの弱視の幻視家は肩をすくめた。

「楽しい夢でもありません。勿論、怖い夢でもない。……そうですね、強いて言うなら懐かしい夢です。そして美しい夢です」

「……話していただけますか、その夢の話を」

 男の陶酔するような声の調子に、私は眩暈の気配を覚え、目頭に痛みを感じるほど強く押さえた。

 

 

  私の名は木下京太郎。お天道様の元では大っぴらにできないような怪我人や病人、あるいは大手を振って歩けないような連中の足元を見て暴利を吹っかける商売、つまり闇医者を生業としている。

 だが今豪奢な洋風造りの書斎で向かい合っている相手は違う。先祖が海外貿易で築き上げた富を一人受け継ぎ、それをさらに拡大させた、正に富の象徴のような人物、私の目の前の初老の男は、それを大手を振って真っ当にやってきたのだ。

 私がどうしてお天道様の元を堂々と大手を振って歩くことのできる、否、お天道様そのものといってもいい相手で、そして病気でも怪我でもない「気伏せり」やら「夢見」の類を診ているのかというと、面倒だが非常に単純な訳がある。

それはある日の我が家でのことだ。

「京太郎。お前、最近暇やろ?」

  例によって例の如く、麻倉美津里が唐突にそんな戯けたことを抜かした。

「……唐突に何だ。またどうせよからぬことを企んでおるのだろう? 暇なもんか。何人か死んでくれれば、もう少し楽になるんだがね」

「物騒なことを言ってはいけませんよ、京太郎。一応、お医者様なんですから」

 私の言葉を椎名さんが嗜める。最近はすっかりこちらの言葉が板につき、以前のような違和感がなくなっている。その代わり、この頃は何処で憶えてくるのか――否、出所はほとんど間違いなく分かっているのだが――変な言葉を使ったり、妙に所帯じみた物言いが目立って、些か困ってしまう。 美津里もそうだそうだと頷く。こういう時だけ調子良く人の尻馬にのるのだ。

「椎名さんの言うとおりだぞ、京太郎。古人曰く、『青年に勧めたいことは、ただ三語につきる。働け、もっと働け、あくまで働け』だ」

「俺はもう青年って年じゃない。だからそんなに働かなくてよいのだ。むしろそろそろ隠居したいくらだ」

「若人が何を爺むさいことを言っとるのかね。一家の大黒柱ともあろうものが情けない。ちったぁ椎名さん見習って欲しいもんだ」

「京太郎は頑張ってますよ。ただ虎蔵のように体が丈夫ではないので、無理が出来ないだけです。おまけに前の大怪我のせいで、もっと弱くなりましたし」

説教臭い言葉に私はむくれ、椎名さんははぁと溜息をつきながら空になった徳利を片付ける。その仕草が、随分と草臥れている。美津里が椎名さん、私と順に横目で眺めながら、口元を袖で隠しながらクスクスと笑った。目つきがいかにも厭らしい。 言い訳がましく聞こえないように気をつけ、私はぶっきらぼうに答える。

「ふん。俺が虚弱なんじゃない。虎蔵の奴めが頑丈すぎるのだ。俺は十分に人並みだ。それより人に働け働けというのなら、お前の方こそ客が全く寄り付かんではないか」

 そう言って猪口の酒をあおった。実は美津里が言うことも、椎名さんが言うことも尤もだったから、これ以上この話を続けたくなかったのだ。以前の「よくある」変事で大怪我をして以来、あるかなしかの私の体力が更に削られてしまったらしく、日に回る患者の数を少なくしていたのもまた事実。だからといって決して生活が苦しくなったというわけでもないので、気にもとめていなかったのだ。だから話したくないのだ。

「私の店はいいんだよ。あれは倉庫券受付みたいなもんで、商売自体は店がなくったってできんだからさ。で、その商売の話なんだがね、暇なお前に診て欲しい患者がいるんだよ」

「暇は余計だ。お前の口入の患者なんぞ何があるか分かったものじゃない。だから診んぞ」

「何だい。つれないねぇ。話だけでも聞いてくれたっていいじゃないかよぅ」

「お前の場合、話を聞いたらそれで話を受けたことにするだろう」

「で、その患者なんだけどな……」

「人の話を聞けっ!!」

 どうやら彼奴の脳内では既に私はこの話を引き受けることになっているようだった。こうなっては、私に反対する余地などない。宥め透かしてどうせ私はこのヤマに引きずり出されるのだ。ならば下手に足掻いて、この女を喜ばしてやる義理はない。美津里のニヤニヤ笑いを横目に、状況を理解した私は諦め顔で猪口に酒を注ぐ。ちらと椎名さんを窺うと、「こうなることは分かっていたでしょう、京太郎」と眼差しで言っていた。私は溜息を吐き、もう一口、酒を呑んだ。

「……で、その相手、金はあるんだろうな?」

「それは勿論。私やアンタの蓄えじゃ、子供の駄賃にもならないくらいの大金持ちさ」

「で、その金持ちとやらが、どうして私みたいな藪医者に用があるんだ? 湯水のように金が湧いてくるなら、もっと腕のいい医者を雇えるだろうに」

  嫌そうな私の顔を見る美津里は満面の笑み。この女、本当に人が困っているのが心底楽しいらしい。空になった私と自分の猪口に酒を注ぎ、話し始める。

「そう嫌な顔をしなさんな。何、アンタがいつも診ているような、後ろ暗くて面倒な患者ではないよ。うちのお得意さんなんだけどね、大人しいし、教養もあるし、金払いもいいし、買う物の趣味もいい、本当にいいお客だよ」

「お前のところの話を聞いてるんじゃない。一体何の病だと聞いておるのだ」

  指折りその患者の良い所をあげる美津里に、私はこめかみを押さえて尋ねた。美津里がまたニヤニヤと笑う。いつもの笑みだ。こっちが困るだろうということを見越して浮かべる、意地の悪いあの笑みを浮かべている。

「何の病って、インテリがかかる病っていやお前、気の病に決まっとるだろう」

 

 

「その夢を見始めるようになって変ったことですか?」

  私の問に、男は小首を傾げた。

「何でも構いません。どんな些細なことでも。夢を見る前でも結構ですよ」

「と、言われましても……そうですねぇ、変ったことといえば、誰かが私を呼ぶ声が聞こえるようになったことでしょうか」

「では、その声が聞こえ始めるようになったのは何時からなのです?」

私は確信を突いた、と思った。あくまでこの時は。だからできるだけ、声の調子が固くならないように気をつけながら尋ねた。私の問に、透けるような肌をした初老の男は、軽く微笑み慌てて首を振った。

「否、この説明ではわからないですね。実は声だけでしたら、私がずっと幼い頃から聞こえていたのです」

「……ずっと、ですか?」

  これを聞いて私は肩透かしを喰らったような気がした。まさか夢を見るずっと前からとは思っても見なかったからだ。慢性化した精神の変調が、彼の年齢になってようやく宿主に牙を向き始める、そのようなことがありうるのだろうか。私の内心の不審など知らぬ彼は、のほほんとした調子で続ける。

「ええ、ずっとです。声は常に私の傍らにありました。その声に導かれ、私はここまでやってこれたのです」

  貿易と投資で持って生まれた富を何倍にも膨らませ続けた男は、成功の秘訣をそう簡単にまとめた。「声」という言葉に少々のひっかかりを感じるものの、納得できる話である。何故なら、万人がなし得なかった偉業を成しえるには、それなりに特別な何かがなければならないわけだ。それは人が忌避するもの――悪事やそれに類する後ろ暗いことであったり、天や神、その他有象無象の力持つ者たちから与えられる特別の寵愛であったりする。それが彼の場合は、何者かからの声(と思っているもの)であったわけだ。畢竟、私を代表とする何も持たない有象無象の凡夫には、到底無理だということなのだ。

 だがここで「はいそうですか」と引き下がるわけにもいかず、私は男に問い続ける。

「つまり今聞こえている声は、以前から聞こえていた声とは、別の声だということですね。声は二種類あると」

「その通り。……しかしさすがですな」

「何でしょう?」

「麻倉屋さんが仰られていた通り、先生は聡明な方だ。普通の者ならこんな話なぞ、金勘定に狂って年老いた老人の妄言と端から相手にしないのに、先生はしっかりと話を聞いてくださる。そして飲み込みも早い」

「いや、……ハハッ、まぁ、こういう商売をしていますと、『色々』とあるのですよ」

彼の素直な敬愛の発露に、私は微苦笑を浮かべて頬をかいた。謙遜したわけではない。事実を述べたまでだ。 そう、虎蔵やら美津里やらと関わっておれば、声に従って成功を収めたことなど驚くほどのことではないのだ。本当に狂っているだの、外れているモノどもは、そんな大人しいものではない。本当の異物というのは鎧袖一触、知らぬ間に周りの者も巻き込んで辺りを薙ぎ払い、日常を一変させるものことを言うのだ。

  もちろんそんな私の考えなど、目の前の男が知る由もない。何せ彼は私のことを、「気の病も見る優秀な医師」程度にしか聞かされていないのだから。だから私もそれをなぞるようにその職分を続けるだけだ。

それが功を奏したのか、男は一つ鷹揚に頷くと、しっかりと私の目を見た。その瞳に濁りはなく、意識に妄想の異物がないことを教えてくれた。

「それでは私も気兼ねなく、本当のことを言える」

「本当のこと、ですか……」

鸚鵡返しに私が聞くと、「そうです」と初老の男は厳しい顔付きで頷いた。

「だって先生。普通の医者が突然患者から『実は私は人間ではないのです』なぞと言われても面食らうばかりでしょう?」 と言うのだった。

「彼はね、普通の人間じゃあないんだよ」

 まるで「今日は夕焼けが綺麗だから明日は晴れるな」ぐらいのどうでもよさで美津里が言った。

「そりゃそうだろう。それだけの金を持ってる者を普通の人間とはいわん」

椎名さんに酌をしてもらいながら、何を馬鹿なことを私が切って捨てた。 違う違うと美津里が手を振る。彼女のぐい呑みが空になっているのを目聡く見つけた椎名さんが、スッと徳利を差し出す。 片手にぐい呑みを持ち、煙管を持つ手で頬杖ついた婀娜っぽい姿で、美津里が妖しげに哂う。

「そうじゃない。そうじゃなくて言葉の通り人間じゃないんだ。正確に言うなら、半分くらいは人間じゃない」

「くらいというのなら、正確ではないのでは?」

  空の徳利を並べながら、椎名さんが言った。その一言に私は溜飲が下がる思いがした。意地悪く笑い婀娜っぽい姿勢を維持していた美津里が、頬杖からずり落ちた。眼鏡もズリ落ちた。

「まさか椎名さんに揚げ足を取られるとはねぇ……これも教化の賜物かねぇ」

「そんなことよりも、それはどういうことなのだ。半分だか何だかが人間じゃないというのは? お前と違って俺は人間の医者だ。動物やらそれ以外やら、五臓六腑の揃わんものは専門外だぞ」

  ずり落ちた眼鏡の位置を整えながら自嘲気味に笑う美津里に私は話の先を促す。ぐい呑みを少し傾け「うむ」と一つ頷いて、美津里が続ける。

「親の因果が子に報いという奴だ。つまりだな、彼の人物の祖先に人ならざるものと交わったものがおるということだ。その後も、近親婚が多かったらしいので、そのままその血が濃くなった」

「近親婚が多かったとはどういうことだ?」

「ああ、それはだな。異種婚が彼の一族の部落全体で行われたからだな。行われた、というよりも、一方的な陵辱だったんじゃないかとは思うが真相は分からん」

「待て待て待て。何だ、その物騒な話は。村一つの女が襲われるなんざ、戦争でもあったというのか?」

  嫌な話になりそうで、眉間に皺が寄るのが分かった。一口含んだ酒が妙に苦いように感じる。対して美津里は、これ程旨い酒のつまみもあるまいとばかりに、血のように真赤な舌が、同じように血を塗ったように真赤な唇を湿らせた。

「女だけじゃないのさ。男も同じ、こってり精を絞られたんだよ。それこそ体中の水分が抜けて、腹上死するくらいにね。否、上から乗られた腹下死か?」

  そう言って、「ズズッ」とわざと音をたてて酒を啜った。女だけでなく男もと成れば、さらに尋常な話ではない。確かに陵辱ということば一番正しいだろう。しかしそうなると、否、そうならなくても、尤もな疑問が湧くというもの。

「で、一体相手は誰なのだ。その村一つ孕ませたという剛毅な相手というのは?」

  私の問に美津里はすぐに答えず、卓の上に並べられた小鉢の上をウロウロと迷い箸をし、一つを取り上げた。

「村一つ丸々犯すなんざ、勿論人じゃないさ」

「じゃあ誰だ」

  煮蛸を頬張り、美津里が言った。

「神様さ。決ってるじゃないか。世の中で非常で無情なことをするのは、何時でも何処でも神様と相場が決ってるのさ」

 

 

「私は人間ではないんですよ、先生。否、正確には私の血の半分は、人ではないものだそうです」

「その話は何処で、誰から聞かれたのです? 人ではないというのなら、その血は一体何の血なのでしょう?」

答えの分かっている質問ほど、空しいものはない。しかもそれが話の核心に迫るものであれば尚更だ。オチの分かっている冗句のようなものだ。本心を隠すのは、商売柄得意なので心配ない。だが感じる不快感は何時までたっても馴れるものではない。

  男は自嘲気味にクツクツと喉を鳴らし、骨と骨を打ち鳴らすような音で笑うと、まるでとっておきの秘密を打ち明ける子供のように得意気な調子で語り始めた。

「私の一族に伝わる言い伝えみたいなものなのですが、どうやら神様らしいです。私は一族が富を溜め込んだ理由を異類婚に求めていると思っていたのですが、祖父や曽祖父は本当に信じていたようでしたよ。それはそれは真剣に、そして誇らしげに語られたものです」

「誇らしげ……ですか……」

ふと私は彼に鏡を覗かせてやりたい衝動に駆られた。 それは、目の前の初老の男もまた、彼の話の中の祖先たちと同じように、そのことを誇らしく感じているように見えたからだ。男は続ける。

「今でこそこうして俗世に根を下ろしておりますが、元々私の祖先は、人里遠く離れた山奥の村でひっそりと暮らしておりました。その村はある一柱の神様を祀ることを至上の目的とした宗教共同体だったそうです。ですから住人は、その神様に選ばれ、崇め奉ること許されたことを誇りと感じて……否、生きることの意味それ自体だと信じて疑っていなかったというのです。神のために生き、神のために死ぬ。正に神の従僕でしょう」

  男はそう言ってテラスの向こう側、薄曇りの鼠色の空を見上げた。彼が何に想いを馳せているのか、私には想像もつかない。ただ分かったことは、目の前の男は自ら揶揄した祖先の生活を羨んでいるのだろうということくらいだった。 だから私は尋ねた。

「ではどうして貴方の一族はその村から離れられたのです?」

  しかしこれは儀礼的にしたこと。 質問をする必要などないのである。 何故なら私はその理由を知っているからだ。 どこまでも滑稽な話だ。 男は薄く笑うと、首を振った。その笑みは誰を嘲笑っているのだろうか。

「分かりません。詳しいことを祖父は教えてはくれませんでした。ただ……」

「ただ?」

「自分たちは騙された、裏切られたのだと言っていました。そして、『残された』のだと。そしてそれゆえに彼らは天罰を受けた、と言っていました」

  そう言った男の顔は、その話をした時の祖父の顔を擬していたのだろう。そしてはるか昔の出来事に、怒りの表情を浮かべることの出来る彼は、きっと祖父の言わんとしたことを理解しているに違いない。 だが私はそれ以上を尋ねなかった。必要以上に他人に関わると碌なことにならいのは、胸の古傷が疼く度に自戒している。必要ならば、否が応でも聞かざるを得なくなるのだから、今は好きに話させておくに限る。男は続ける。

「村は滅んでしまったのでしょう、私の先祖を残してね。経緯は不明です。だから私たちは人里に降りざるをえなかった。しかし不自由はなかったようです。村の者たちが残していったものを切り売りしていくうちに、莫大な財産ができたのですから。そしてそこからは……木下先生も御存じのことと思います」

  そこからは世人の口の端に昇る噂を辿ることで確かめられる。彼らが残していった大量の高純度の宝石は、彼の一族に金の山を積み上げさせるに足るものだった。誰もが彼の一族が、その宝石を何処から手に入れたのか知りたがった。だがそれは未だ謎のまま残されている。真相は今彼が語った通りの、単純なものなのだろう。村人が何処からその宝石を集めたのかという疑問は依然残るが、彼らの手元に渡った経緯はそれで全てだ。

「そしてその莫大な財産を、貴方が全て引き継がれた。……今度は、ご家族の方が……その……なくなってしまったが故に」

「そう。私を残してね。しかし先生、一つ訂正させていただきましょう」

  身内の死という非常に話題に上げづらい話題に私は口ごもり、当の本人はあっさりと言ってのける。そしてまた例の嘲りを口の端に乗せて、こう付け加えた。

「彼らも村の者と同じなのです。私を裏切ろうとして、天罰を受けたのです。家族の者は、ただ死んだのではない。殺されたのです。家族の者は、皆喰い殺されたのです」

  その凄絶な笑みに、私は冷たい手で背中を撫でられたような恐怖を感じた。そしてその笑みは、とりもなおさず彼が家族の者が何故殺されたのかを知っていることを、如実に語っていた。

「喰い殺されたと仰いましたが、一体何に喰い殺されたと言うのです?」

「恐らく、私の祖先の村を滅ぼした物と同じ物なのでしょう」

「と言う事は、貴方は家族を殺した物を知っているという事なのですね? それは一体何なのですか?」

  私の問いに、男は笑う。それは無知に呆れたというよりも、無知でいられた幸運を皮肉げに羨ましがっているようだ。

「……言ったところできっと先生は信じては下さらんでしょう。否、先生に限らず、世の真っ当な者たちのほとんどが信じられんでしょうな」

「……今日はここまでと致しましょう」 私は、心中でため息をついた。 これは何とも面倒なことになると思ったからだ。

 

 

「彼が親類縁者を皆殺しにしたというのさ。口さがない噂に過ぎないがね」

  干物をつつきながら美津里が言った。

「まぁ、妬み嫉みを受けるのは、金持ちの税のようなものだからな。とはいえ鏖殺とは穏やかじゃないな」

何を今更という調子で言って、私は猪口を空ける。少々酒精が回りすぎたのかもしれない。少し眠くなってきた。まぁ、此処は私の家だ。家主が何時何処で寝ようが、誰かに気兼ねする必要もあるまい。酒を止めればいいのだろうが、甲斐甲斐しく椎名さんが酌をしてくれると、結局猪口を傾ける手も止まらない。結局止せばいいのにと思いながら、私は延々と美津里と酒を酌み交わしていた。 美津里の方はと言えば、普段から酔っ払っているような奴なので、今も酒がまわっているのかどうか分からない。水でも呑むように、注がれた端からぐい呑みを傾け続けている。

「そう、穏やかな話じゃあない。少なくとも、酒を呑みながらするような話じゃないね」

  言ってクツクツと喉を鳴らして笑う。年がら年中物騒な話をしている癖によく言えるものである。

「それもねぇ、皆が皆、尋常な死に方じゃなかったそうな。だから余計に話題に上る、話題に上れば尾鰭がつく、と、まぁこういうわけで、色々と言われてるんだよ」

「成程なぁ。で、その尋常ではない死に方というのは、どんななのだ? 毒でも食らわされたのか?」

「食ったんじゃない。喰われたのさ」

「はっ?」

  美津里の顔が揺れた。否、嗤ったらしい。紅い唇が弧を描く。彼奴の箸はグジグジと干物をばらしている。

「それはそれは無残なものだったらしい。狼か山犬か、まぁそんな獣に喰い殺されたような死体だったそうな。何人殺されたのかすら分からなくなったというから、かなり喰い散らかされたんだろうねぇ。そうそう、歯型から獣の大きさを推定すると、人間よりもふたまわりも大きいらしい。どうだい? 物騒な話だろう?」

 そんな与太話、普通なら信じないし、一笑に付す所なのだが、目の前の女が、こんなにまで嬉しそうに話すということは何かあるのだ。今回の口入の裏で関係あることなのだ。

「しかしその与太話を信じたとして、そんな化物がどうして件の旦那が家族を皆殺したことになる? よもやその男が獣に変身して、邪魔な家族を食い殺したとでも言うのじゃあるまい」

「それがねぇ、その旦那が海の外から調教された獣を持ち込んできたんじゃないかというのさ」

「何だ、そのご都合主義な考え方は。バスカヴィルの犬が、そうホイホイと出てこられてたまるか」

  美津里がバラバラにした干物の、一番大きな身を横からさらう。悔しそうな顔の美津里を横目に、猪口を呷った。

「確かに。そうそうそんな便利なものがあってたまるかという気持ちは分かる。分かるがねぇ……」

  しかし、美津里は、すぐにニヤニヤ笑いを取り戻すと、箸を置いた。

「いるんだなぁ、これが」

  干物は綺麗に骨から身を削ぎ落されていた。

「但し、便利なものじゃあないんだけどね」

 

 

  二度目の往診は、彼の書庫であった。

「少々埃っぽくて申し訳ない。しかしここが一番落ち着くものでね」

  男はそう言った。 私はぐるりと首を回す。見事な書斎だった。美津里のあの出鱈目な書庫とは比べるべくもないが、一個人が所有するには十分すぎる代物だった。 私の背よりも高い書架は、上から下まで端から端までギッシリと本が詰め込まれている。枯葉色の朽ちた和書があるかと思えば、古色蒼然とした革張りの洋書がある。見慣れぬ文字で背表紙が埋まっているものがあるかと思えば、どう見ても本の体裁を成していない草稿をまとめただけのものもあった。共通して言えることは、どれこれも恐ろしく古いものだということだ。恐らく凡人が一生かかって稼ぐような金が二山三山、積まれているだろう。金銭にすれば三代豪遊しても身代は潰れないのではないかと思う。興味がないので、はっきりとは分からないが、そんな印象を受けた。

  もう一つ受けた印象があった。

「ほう。これは見たことがあるな」

「流石は木下先生。それは『象牙の書』という魔道書の写本だそうです。我が国に数冊しかないそうですから、恐らく麻倉屋さんがお持ちだったのではないですかな? あの方は、その道にはお詳しいですからな」

彼の言う通りだ。訂正するとすれば、「お詳しい」どころの話ではないというだけだ。こんな怪しげな本、美津里の本棚でしかお目にかかれないと思っていたので、私はいささか驚き、彼のコレクションの評価を修正した。その後、私の驚きが役に立ったらしく、彼は満面の笑みで私の態度に驚きの片鱗を見つけようとしていた。多分、私を同好の士だと思ったのだろう。まさかこんなことで彼との信頼を形作ることができるとは思っても見なかった。変なモノでも知人に囲っておくものである。まぁ、そのそいつさえ居なければ、こんな妙な事態には陥らなかったといえるのだが。

  そして彼は延々と、この世ならざる神秘について語った。知りえるはずのない、妄想としか思えない別の次元の話を語った。彼の崇拝する神とその眷属たちと彼らを排除しようとする存在との、永遠に等しい戦いを語った。それは普通の者ならば一笑に付すような、あるいは片頬を引きつらせてしまうような、狂った脳髄が生み出した与太話に過ぎないのだ。 だがこの世をくまなく覆う薄皮一枚のその下を覗いたことがある者ならば、分かるのだ。彼の言葉が誇張や脚色の程度はあれ、それが紛れもない真実の一つの側面であることに。

「これらの魔道書は教えてくれるのです。三千大千世界の彼方、ええてる渦巻く星辰の向こうに封じられし我らの神々へ続く道がそこかしこにあることを。我らは神の掌から飛び出すことはできないことを。この世は我らが神々の見る夢に過ぎないのだということを教えてくれるのです」

  彼の話の途中から、私は気になっていた。熱に浮かされた彼の言葉に応えたのだろうか、闇が脈動し、膨れ上がったように感じられるのだ。それは蝋燭の揺らめきが垣間見せた一瞬の錯覚に違いなかった。だが先ほどからチラチラと視界の隅を横切る、小さな影もそうなのだろうか? 書架の影や書籍の上を蠢く蟲に似た何かは、気のせいなのだろうか? そして音である。先ほどからコトコトカタカタと、家鳴りが嫌に耳につく。彼の妄想がこの闇に染み出し、溶け合い混ざり合ってしまったのかもしれない。あるいは彼の語る神の世が、彼の言霊に導かれ、私たちの世界を侵食し始めているのかもしれない。 私は眩暈を憶えた。

「この世は夢と消えちまうんだから」

  あの時の美津里の声が聞こえた。あの村独特の、磯の生臭さと朽ちた木材の混ざった臭いが蘇る。鈍い痛みが目の奥で閃いた。

  そうだ。この感じを、私は以前にも感じたことがある。今この闇は、あの朽ちた漁村に蔓延していた闇と同じものなのだ。

  そこで分かった。彼も同じなのだ。かつての私と。あの漁村に住まう老人たちと。眩まされたのだ。何か得体のしれないものに、得体の知れない力に。そしてそれがあまりにも近く、自分にも手が届くように思えてしまったのだ。それが蜃気楼とも知らずに、其処へ行こうとしてしまったのだ。それは遥か彼方の時間の究極の向こうを映した虚像に過ぎないとも知らずに。

  そうとなれば彼に対する「治療方針」は決ったようなものだ。私が彼に出来るただ一つのことは、この言葉で全てだった。

「馬鹿なことはお止めなさい。あなたにはきっと無理なことなのです」

「何が無理なものですか! 私はこのことに一生を費やした! それに私にはあの声が、神からの声が聞こえるのですよ!」

  思ったとおり彼は激昂した。あの時、真実に達した私のように。私は溜息をつく。ああ、これだからこういう役回りは嫌なのだ。

「その声があなたに何をくれたのです? 高々人生で使い切れぬほどの富の山を築いただけではありませんか? 化物とは、正真正銘本物の化物とは、私たちの想像できるものなど鎧袖一触、一撫でで根こそぎ無に帰してしまうのですよ」

「あなたに何が分かる! これは私の念願であり、我が一族の悲願であり、そして我らの血が求める宿願であるのだ! たとえこの世が朝露の一滴となろうとも知ったことではないのだ! ……ケヒヒッ! そうか! そうなのか! ……木下先生、あなたは成れなかったのだ。私に成れなかったのだ。あなたは一介の凡俗に過ぎなかった。それを身に刻んだのだ! だからそんなことを言う! 持つ者に、お前は持っていないという! だが、違う。私は違う。私はあなたとは違うのだ。私の願いは成る。成るのだ。それをお見せして差し上げよう」

口角泡を飛ばし、彼が叫ぶ。正気が削られ、彼が狂気に蝕まれていくのをただ見るだけなのは、正直気持ちの良いものではない。だが、それでも死ぬ、あるいは自らが消えるよりは余程ましだろう。生きてさえいれば、新たな楽しみを見出すこともできよう。 それが狂気に飲み込まれた果ての、白痴の楽園であったとしても。

 ただ一つ、狂気のままに突っ走られてしまっては私にはどうしようもないので、それだけは勘弁して欲しかった。

 

 

「で、彼は何をするんだね?」

  美津里がさも面白そうに尋ねる。これではお気に入りの落語のサゲを今か今かと待っている古参客だ。

  重い気持ちを引きずって帰ると、今では美津里が一人で呑んでいた。椎名さんは美津里の横で卓袱台に突っ伏して、すっかり寝入っていた。顔がほんのり赤い。美津里の相手をしていたのだが、すぐに潰れてしまった、と、そんな所だろう。辺りに転がる徳利が、私の推理を裏付けていた。

  美津里の正面いつもの位置に腰を下ろすと、私は酒の肴を晩飯代わりに突く。我が家のまかないが眠ってしまっては仕方がない。自分で何かを作る気にもなれなかったので、美津里が呑んでくれていて、少しばかり有難かった。椎名さんが飲んでいたであろう猪口を取り上げ、私は酒を注ぐ。そして舌を酒で湿らせると、渋々と答える。

「……扉を開くと言うとった」

「アッハハハハハハ! やっぱりねぇ! 血は争えないものだ」

「どういうことだ?」

  笑いながら猪口を持った手をヒラヒラさせるので、仕方なしに酒を注いでやる。

「ヒヒヒヒッ! それは彼が教えてくれるさ。先にネタバレしちゃつまらんだろう。……そうかぁ、扉をねぇ……ヒャハハハハッ! 自分だけは助かると思っているのかね!」

 そう言って一頻り笑う。床を転げて足をばたつかせるものだから、折角注いでやった酒も、雫と散ってしまった。

「……はぁ〜、そうだ、京太郎。次がそういう面白いことになるのなら、良い物をやろう」

  むっくり体を起すと、残り物の鳥刺しを抓む美津里が意地の悪い笑みを浮かべる。モグモグ咀嚼しながら、袖口から妙な物を取り出し、私の前に置いた。 鳥刺しのように抓み上げ、眼前でそれを揺らす。

「何だこれは? お守りか? 匂い袋か?」

それはどうということはない、小さな巾着袋だった。鼻を近づけてみると、脳の奥まで針を突き刺されるような鋭い甘い香りがした。嗅いだことのない、独特の香りだ。こんな匂いならば魔物どころか、人も運も逃げていくのではと思わせる、強烈な匂いだった。

「彼の種明かしの時に、それを持って行け。肌身離さず持っておくんだぞ。……食われたくなければね」

 いぶかしむ私に、美津里は凄惨な笑みを浮かべる。今にも人をとって喰わんとする鬼女のよう。

「そいつが桑の枝さ」

鬼女は私に、三枚の札を束ねたような御守を授けてくれたようだった。

 

 

三度目の往診、最後の往診の日になった。 その日は彼の要望で、夕刻からの往診となった。

  彼の邸宅についた時、辺りは異様な雰囲気に包まれていた。見た目にはどこも変る所はなかった。だがその違和感は確かに感じられ、以前に二度訪れた場所だとは到底思えなかった。はっきりと言葉にし辛いのだが、それでもあえて言うならば、音や光の伝播を妨げ歪曲させる目に見えない巨大な存在が屋敷の上に居座っている、そんな感じだ。見慣れた廊下や柱が歪んで見えるのは、この眼鏡のせいだけではあるまい。そこかしこで、視界の隅を何かの影が横切り、まるで私を嘲笑っているような不快な音を立てている。邸宅の中には肺腑の底まで染みこんで、全てを腐らせてしまうような異様で得体の知れない臭いが充満していた。

  それら全ては、書庫の扉の向こう側から発せられているようにしか、感じられなかった。

「ようこそ、先生。お待ちしておりました」

  案の定、そこに彼はいた。古今東西の魔道書に幾星霜と降り積もった闇が滲み出し、部屋の空気は異常なほど重かった。 どうやら彼は私を待ちきれなかったらしい。儀式は既に始まり、そのほとんどを終えていたようだ。私は溜息をついた。歪んだ世界越しにも、彼が狂ったような笑みを全身に貼り付けているのが分かった。そしてそれと同時に、何か嫌な気配が部屋中に充満していることを知った。それはここに来るまでに感じていたものとは違い、何らかの具体的実体を持っているようだった。つまり、それは空気の振動であり、辺りに漂う悪臭であり、足底から感じる微細な揺れであったりした。

  つまり何かがいるのだ、この部屋には。私と彼以外の何かが。

  おぼつかない足取りの私に、彼の顔はさらに醜く歪んだ。

 「羨ましいだろう! 羨ましいだろう! 木下君! 私は今より成るのだ!」

 彼は快哉を叫んだ。どうやら彼は狂喜して気がついていないらしい。だから私は、彼に答えてやった。

「逃げろ!」 と。

「えっ?」

  私の叫びが理解できなかったのであろう。彼は訝しげな顔をしたようだった。

  したようだったというのは、確かにそんな表情をしたかどうか、分からないからだ。どうして分からないのかと言うと、唐突に彼の背後に現れた巨大な影に、上半身をバクリと一口に喰われてしまったからだ。 それは部屋の中を雷光のようにあるいは弾丸のように、鋭角に飛び回る「何か」の仕業だった。あまりの速さと気配のなさで姿は見えず気配を感じるだけだったのだが、彼に襲い掛かる瞬間、それは巨大な影としか表現のしようのない、生き物なのかそうでないのかすらも分からないような姿を私に晒した。

 否、それは確かに生き物なのだろう。

 何故なら、彼の上半身を咀嚼しながら、奴はニヤリと醜悪な笑みを浮かべたからだ。それはどうやら歓喜の表現らしかった。

 さて、困ったことになった。彼を食べ終わって、そのまま大人しく帰ってくれるだろうか。それとも目の前にもう一つ肉塊があれば、帰りがけとばかりに襲ってくるだろうか。まぁ、この喰いっぷりを見る限り、腹八分目とは無縁のようだ。 冷や汗が頬を伝う。こんな目は何度もあっているが、一向慣れない。きっと慣れないのが普通なのだ。私はアイツらとは違うのだ。ふと虎蔵から熊と出会った時の対処法を思い出しそれを実行することにした。効果があるとは思えないが、何もないよりは遥かにマシだ。その異形から目を逸らさず、少しずつ後じさりする。恐らく彼を食べている間は、襲ってくることはあるまい。とはいえ上半身を一口であれば、残りももう一口ということになる。時間なぞ、あってないようなものだ。

しかし目を逸らさないというのは拷問だ。なにせ目の前で人が喰われていくのを見続けなければならないのだ。必然、グロテスクなオブジェと化していく彼が視界の半分くらいを埋めているわけで、非常に精神によろしくない。胃がえずくように痙攣していた。袂をより合わせ、胸を締め付けて抑えた。

  ゴクンと、遠くで絨毯の上に重い物が落ちるような音がした。異形の嚥下する音だった。目の前で異形の喉と思しき部分が蠕動している。妙に艶かしいその動きが止まると、ソレは残された下半身に向かった。グチャグチャと肉を貪る音が始まり、バリバリと骨を噛み砕く音が続く。

  その間も、私はジリジリと少しずつ、音を立てず、後ずさりを続けていた。ドアまでの距離が無限のように感じられる。時間が体にまとわりつく。胸元をきつく締め上げているので息苦しく、裾が足に絡んで思うように動けない。そのどうにもならないもどかしさじれったさからくる不快感と焦燥感が皮膚の上を蟲のように這い回り、私の精神の均衡を蝕んでいく。声を上げることができれば楽だったのだろうが、息苦しくてそれすらままらない。だがこの際、それは幸いだったのかもしれない。

伸ばしていた私の手が、固い物に触れる。それはドアノブだった。やっとこの異界からの出口に辿りついたのだ。私はホッと胸を撫で下ろしそうになり、そこで止めた。ここまで来て馬鹿をやるわけにもいかない。私は満身の力と集中力を込めて、ドアノブをゆっくりゆっくりと回す。ノブはギロチンの刃のように重かった。

閂の外れる、幽かな音がした。それと同時に、絶望が音となったようなあの嚥下音がした。そしてソレは私に気がついた。頭部を持ち上げ、私の方を向いた。血と黝い体液にまみれた不ぞろいな牙が見えた。

  最早一刻の猶予もなかった。私はなりふり構わず、体当たりでドアを開け、廊下に転がり出た。 だがそこまでだった。異形はあまりに速かった。私が廊下に飛び出し、室内に目を向けた時、眼前にそれの鼻面があった。あまりの素早さ、唐突さに、私は悲鳴をあげることも忘れ、それと対峙するしかなかった。

  それは実に醜悪な面構えをしていた。そして酷い臭いがした。彼の血だろうか、錆びた鉄の臭いと、ソレの体臭だろう鼻を千切りたくなるような悪臭がした。全身から黝い汗のようなものを滴らせている。間近で見る歯は粗雑ながら巨大な刃物を思わせる。牙に囲まれてチロチロと揺れる舌は、太く長く所々節くれだった針のよう。そんな化物が、私を犬のように鼻をならして嗅ぎまわっていた。犬のよう、と例えてみたが、その醜悪さは比べるべくもなかった。頭を上下させるたびに、水の中で息をするみたいにゴボゴボと音が鳴った。

 私は懐に手をやり、美津里からもらった守り袋を握りしめて、ジッと耐えているしかなかった。たとえ頭の上から滝のようにソレの唾液が垂れてきても、歯に挟まっていた彼の指の残骸が落ちてきても、私は呻き声一つたてなかった。

  一分ほどだっただろうか、それとも優に一時間は経ったのだろうか。すくみ上がるしかなかった私には知る由もない。そんな無限か刹那か分からぬ時が過ぎた。すると異形は私が突然私の姿を見失ったように頭を左右に振り、辺りの匂いを嗅ぎまわり始めた。しかしそれもすぐに止めてしまうと、低い唸り声を一つあげ、またあちらこちらを反射するように飛び回り、書斎に開いた『門』の中へと帰っていった。

  ソレが門の闇へと消えると、待ち構えていたように、黒渦の『門』も消えた。

  後には何事もなかったと言う静寂と、確かに何かがあったことを示す血糊と、得体の知れない液体塗れになった私が残された。

 

 

「彼の部落はね、この世ならざる神を崇拝していたのだよ。というのも彼の部族の者たちは、元々その神との合いの子だったからさ。だから、彼らは父なる神を崇拝すると共に、父親をこちらに呼ぼうとした。あるいは彼らが父神の元へ戻ろうとした」

 私が風呂から上があると、美津里はいつもの通り我が物顔で一杯やっていた。そして私が座ると、独り言のように話し始めた。卓袱台の上の肴の皿は少なく、皆乾き物ばかりだった。椎名さんは私が帰ってきてから、洗濯場で溝川に漬かった方がまだましな悪臭と汚れに果敢に立ち向かっていたからだ。ただ諦めるのも時間の問題だと思われた。 美津里は続ける。

「彼の部落が滅んだことは言っただろう? では何故彼らは滅んだ、皆殺しにされたんだろうねぇ? そして唯一の血族たる彼の一族はどうして、何に殺されたんだろうねぇ?」

「扉を開いたからか? じゃあ、彼らの神というのは、あの化物のことなのか?」

  私はあの異形のことを思い出し、僅かに身震いした。落ち着いてから恐怖で身が竦む、というのも妙な話である。 美津里が私にぐい呑みをくれ、そこに酒をなみなみと注いだ。私はそれを一息に干した。空になったぐい呑みを突き出すと、美津里は楽しそうに笑って酌をした。

「あれは違う。彼らの神はもっと、……そう、手のつけられん感じさ。現れたが最後、誰がどう足掻こうが、全ては無駄になっちまう。……終わりなんだよ、彼の神様は。だから違う。じゃあ、お前が見たその化物は何かというと、……私も見たわけじゃあないから想像でしか言えんのだが、強ち間違っちゃあおらんだろう。つまり、彼らは間違えちまったのさ」

 そう言って、美津里は哂う。さも面白そうに、厭らしく、艶やかに。

「親父さんの家だと思って玄関開けたら、そこは全然別の知らん人ん家だったってことさ。おまけにその内に住んでたのは、安達ヶ原の鬼婆も裸足で逃げ出す化物だったというサゲさね。もしくは父親の所へ帰ろうとしたら、いきなり隣の垣根を越えて、鬼婆がソイツを攫っちまったのかもしらん。そのどちらかだろうね」

  私がその意味を理解するのに、ぐい呑みを三杯空ける時間が必要だった。

「彼らが襲われたのは、いわば事故みたいなもんだったと……そういうことか?」

「概ねそれであってるんじゃないかね? でなければ、あんなものを好き好んで呼び込むとは思えないからね」

「そうだ。アレは一体何だったんだ? 神様の従者にしちゃ信者を食い殺して、無信心者を放って帰っちまった」

  私が尋ねると、「だから私に感謝しなよ」と美津里が言った。

「だからアレは彼らの神とは何の関係もない、全くの別物さ。あれはね、昔々のお話というよりも古い、太古の昔に生まれた……まぁ、悪魔、妖怪、魑魅魍魎、そんなもんさ。年がら年中腹を空かせて、一度憶えた臭いを辿って、時間や次元なんてお構いなしに喰らい尽くすまで追いかけてくる、そんな性質の悪い相手さ。時間も次元も関係ないという点は彼の神様と同じではあるがね」

  そこで美津里は酒で舌を濡らした。私は手酌で酒を注ぎ、美津里は干物を一枚食った。

「アレはこの世界のあらゆる鋭角から現れ、得物を襲う。逃げる手段はただ一つ、身の回りから鋭角をなくす他ない。……ほとんど不可能な話だ。だから襲われれば喰われるしかないわけだ」

「じゃあ、どうして俺は襲われなかったんだ?」

  美津里が得意気に笑う。先生に褒めてもらいたくて仕方がない学童のような笑みだ。

「だから言ったろう、私に感謝しろと。アレは臭いを元に追ってくる。だから臭いには敏感なのさ。さてそこで、臭いがない物に遭遇したとしたら、あれはどういう風に考えるだろうねぇ?」

  私が酒を飲み干す。美津里が酌をする。ぐい呑みの淵から酒が溢れた。

「あの匂い袋はね、アンタの臭いを消すためのものなのさ。だからアンタの匂いは嗅ぎ取れなかった。何もないところを、喰おうとする馬鹿はおらんよ。それが時間や次元を超越していようとね」

  美津里がまた一つ干物を食う。クチャクチャとそれを粗食するのを、私は黙って見ていた。

「彼が聞いた『新しい神の声』も多分奴の仕業さ。声が釣り餌で、奴が針で釣り人さ。多分、彼の一族にだけ聞こえる声を発し、門が開いたら喰ってやろうとしていたんだろう。『深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ』とは、ある哲学者の言だが、今回は比喩でも何でもなかったようだ。文字通り、『あちら』も『こちら』を覗いていたのさ。門が開くのが今か今かとね」

「しかしどうして奴は、そうまで彼を狙っていたんだ? 臭いを憶えられれば逃げられないなら、彼が奴とに直接出くわしているはずあるまい?」

  私の問に美津里が笑う。それは馬鹿にしているというよりも、可笑しくて仕方がないというような、そんな心からの笑いだった。

「直接彼を知ってるはずはない。だがもしかしたらかかるかもしれないと思ったんだろうね。そうしてまで喰いたいほど、彼の一族が美味かったからじゃないか? 何せ神と人とのブレンドだ、さぞや美味だったんだろうよ」

 そう言って美津里は、干物を口に入れた。しばらく二人ともそれ以上何も言わなかった。洗濯場で椎名さんの絶叫が聞こえる。そろそろ諦める頃だろうか。

「さて、お前さんに頼んでた仕事も明日で最後だ」

「どういうことだ? 病人、否、病人じゃなかったわけだが、その当の本人は喰われちまったじゃないか」

  私が言うと、美津里は実に悪い顔をした。まんまと落とし穴に嵌った間抜けを見下ろす餓鬼みたいな顔だ。

「だからさ。今あそこはお宝の山。より取り見取りのつかみ取り放題じゃないか」

「ぶっ!」

「わっ! きったないねぇ! 吹き出すんじゃないよ、全く」

  変な所に酒が入った。焼けるみたいに喉が熱い。咽る私を尻目に、美津里は懐紙で顔を拭っている。

「よもや、これを狙って彼を誑かしたんではあるまいな?」

「まさか、そこまで面倒な事はせんよ。ただ、第二の声が、お前の見たあの化物のものだってのは、すぐに気がついたがね。まぁ、彼が無事向こうへ着いたとしても残していったに違いない荷物だ。私はそれを代わりに処分してやろうというだけさ。どうだい? 慈善事業だろう? そうそう、流石にお前さんと椎名さんだけだと辛いだろうから、操ちゃんにも声かけてある。気張っとくれよ。お駄賃ははずむからさ」

  色々と言いたいこともあったが、私はそれ以上何も言わないでおいた。確かに三日間人の話を聞いているだけにしては、破格の報酬だったこともあるが、未だに洗濯場から聞こえる椎名さんの善戦の声に比べれば、私の遭遇した怪異など、物の数ではないだろうと思ったからだった。

  とりあえず美津里からの駄賃で、新しい着物を仕立てようと思った。

あとがき

というわけで宵闇眩燈草紙の三作目は、本編でもお馴染みのクトゥルーっぽいものになりました。

出演いただいたのは、ティンダロスの猟犬君です。猟犬いいですよね猟犬。実質襲撃回避不能なところとか大好きです。黒幕にはなりえないけれど、もっと出番があってもいいんじゃないかと思います。

あと神様はヨグ=ソトース様でございます。私は断然ヨグ様推し! だが名前だけ。だがそれがいい。

あとはタイトルはクレイトン・ロースンの同名のミステリより。

さぁ、あとはあのオッサンさえ出せば……

Fin.

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