紅魔館の躁鬱 mania‐depression of Scarlet Devils

「亡びてしまつたのは 僕の心であつたらうか」

 十六夜咲夜は、ふとそう呟いた。

「亡びてしまつたのは 僕の夢であつたらうか」

 それは何処かで聞いたのか読んだかのた、そんなおぼろげな記憶。

「記憶といふものが もうまるでない」

 ああ、そうだ。これは確か、図書館にあったもの。たまたま手にとって、何となく眺めていた詩集の一編。

「往来を歩きながら めまひがするやう」

 そんなぼんやりした記憶なのに、咲夜はそのおぼろげな記憶のそのままに暗誦する。如何してなのだろうと咲夜は考える。しかし考えるまでもない。
答えは分かりきっている。多分その詩が自分のことを語っているように感じるからなのだろう。しかし咲夜には、その詩が語るようなことなどなかったはず
だ。だから考える。「ありもしないこと」を懐かしむ、今の自分の感情の源泉が何であるかを考える。

 今咲夜は紅魔館の掃除中である。時は止まっている。

 廊下を慌てて飛んでいた妖精メイドが、咲夜の姿に驚いて急停止している。その手から零れた花瓶の水が、空中で不定形な姿のまま動きを止めている。

 数少ない小さな窓からは、鈍く輝く湖面が見える。その上でいつものように妖精たちの戯れが見える。その煌きもざわめきも、今は窓ガラスを隔てた
景色と同じく咲夜の世界の外側に過ぎない。

「何ももう要求がないといふことは もう生きてゐては悪いといふことのやうな気もする」

 それら全ては凍りついた時の中。動くものは何もない。それは術者たる咲夜の思索すら凍りつかせたのだろうか。「如何して?」「何故?」という疑
問から先に思考が進むことはなかった。

「それかと云つて生きてゐたくはある それかと云つて却に死にたくなんぞはない」

 咲夜は掃除の手を止め、ボンヤリと血色の天井を見上げ続ける。そうすればこの胸の奥でカサカサと蠢く小さな蟲を見つけることができるかのように。

「ああそれにしても 諸君は何とか云つてたものだ 僕はボンヤリ思ひ出す 諸君は実に何かかか云つてゐたっけ」

 動かぬ時の中で憂鬱気に響く咲夜の声だけが、ユラユラとたゆたっている。

 不意に咲夜は歩き出し、廊下の角で粗相をしている妖精メイドに近づくと、その手から花瓶を取り上げた。そして零れる水の行く末に花瓶の口を合わ
せると、おもむろにエプロンドレスのポケットから磨き上げられた懐中時計を取り出し、溜息を一つ。

 それが合図に、懐中時計の針たちがが再び時を刻み始める。

「と、わわわわっ! ……って、あれ? ……って! メ、メイド長!?」

 取り落とした花瓶と突然目の前に現れた咲夜で頭が一杯で、本来自分が持っているはずの花瓶が咲夜の腕の中にあるということ、そして水が零れてい
ないことに、妖精メイドの思考がついていくはずもない。ただ目を白黒させて、オロオロとうろたえているばかり。そんな自分の部下のうろたえ振りに、咲
夜が気だるげな表情を浮かべた。

「……全く、少しは落ち着いて仕事をなさい。自分で仕事を増やしていては、終わるものも終わらないわよ」

「私の仕事がね」と咲夜は心中で付け足した。その代わりもう一つ憂鬱げな溜息をついた。

「はっ、はいぃぃ! 誠に申し訳ございませんでしたぁ!」

 その溜息が自分の不手際に対するものだということには気がついたらしい、妖精メイドは表情を強張らせ、何度も何度も頭を下げると、咲夜の手から
ひったくるようにして花瓶を受け取ると、天狗もかくやと言う速さで紅い廊下の奥へと消えた。

「……ああっもうっ……言ってる傍からこれだ」

 その姿を見送りながら、またしても何もないところでバランスを崩しているメイドに、咲夜は気苦労が絶えないのだった。

「日高睡足猶慵起 小閣重衾不怕寒 遺愛寺鐘欹枕聽 香爐峰雪撥簾看」

 紅魔館の門前は今日も相変わらずの穏やかさで、門番である紅美鈴は門柱にもたれ、そぞろにやや紅みがかる空を見上げていた。

「匡廬便是逃名地 司馬仍爲送老官 心泰身寧是歸處 故郷何獨在長安」

 暇そうである。それはそうであろう。最近、紅魔館の住人にしては大人しい穏やかな日々が続いているのである。主であるレミリア・スカーレットの
突然の発案による宴会やイベントも、ここの所ご無沙汰であった。

 侵入者、来客共になし。それはそれで満足すべきことなのであるが、美鈴が仕事に張り合いを感じなくなることも頷けることである。だからと言って
それが職務怠慢の理由にはならないのだろうが、今の美鈴にはそんなことなどどうでも良かった。

 傍目からはのんびりとした、しかし当人にとっては手持ち無沙汰な、そんな欠伸を一つ。その欠伸に釣られたわけではないのだろうがぼうっと空を見
上げる美鈴の元に、空を淡く覆う紅い霞を突っ切って一筋の流星が流れてきた。

「どうした門番? 今日はやけに積極的なサボり方だな。そんなんじゃ、あの鬼メイド長にこっ酷く叱られるぞ?」

「……ああ、魔理沙か」

 美鈴の前で流星は急遽流れるのを停止した。昼時の流星に見えたもの、それは箒に乗った魔法使いの少女――霧雨魔理沙だった。ボウッとした美鈴を
見て、悪童めいたニヤニヤ笑いを浮かべている。恐らくサボりの現場を見つけたことで、良い暇つぶしが出来ると考えたのだろう。

 しかし怯えたり慌てたりするはずの当人は、そんなことなど知った風もなかった。ただ何となく憂鬱そうな表情で暫らく何かを考えていたが、何も思
いつかなかったのか、再び心ここに在らずという風に、魔理沙のニヤニヤ笑いを見上げる。

「……そうね。かなり怒られるでしょうね。けれど、今日はそっちの方がいいかもしれないわ。額に一発キツイのをお見舞いしてもらいたい感じね」

 そんな何処か殊勝な言葉に、魔理沙が面食らう。態々美鈴の顔が良く見える位置まで高度を落とすと、その憂鬱気な表情をマジマジとみつめる。

「何だ何だ、珍しい。何か変なものでも食ったのか? それとも変なものすら食えないのか?」

 色気より食い気というような魔理沙の言に、流石の美鈴も苦笑する。

「別に食あたりを起こしたわけでも、お腹が減ってるわけでもないわ。ただ、こんな風な日もたまにはあるってだけの話。……何となく、やろうとはす
るのだけれど、体ごと心を鎖でまどろみに繋ぎとめられた感じとでも言うのかしらね」

 そんな風に言う美鈴に、魔理沙は腕を組んで鹿爪らしい顔をして何度か頷く。

「詩的な表現だな。よく分からんが。しかし多分単に眠いと言いたいだけじゃないのか?」

 そして結局即物的発想に至る魔理沙に、美鈴は微苦笑を浮かべる。何時もなら自分も目の前の少女と同じような思考経路に至るのだが、今日ばかりは
それすら億劫なのか、あるいは普段は使わないような思考が動いているのか、魔理沙のそんな発想が羨ましくもあり、呆れたものでもあった。ただ本来美鈴
も魔理沙と同じような思考タイプである。なれない考えが持続できるわけもなければ、それ以上気の聞いたセリフを吐けるわけでもない。だから簡潔に答え
た。

「そうね。いつもの如く、ただ眠いだけなのかもしれないわ」

「そいつはご愁傷様。ならこいつをやろう」

 ゴソゴソとポケットを漁り何かを取り出すと、魔理沙はそれをポイと美鈴に投げた。美鈴はそれを受け取り、シゲシゲと眺めた。茸だった。

「これは?」

「餞別代りだ。食べられれば、鬱の気も散るやもしれん」

「……食べられればって、食べられるかどうかよく分からないの?」

 美鈴が呆れて再び空へと舞い上がる魔理沙を見上げると、当の本人は何を気にしているのだと肩をすくめていた。

「そうとも言うな。ま、大丈夫。食べられるだろう」

 そんな様子の魔理沙には何を言っても無駄だと美鈴は知っている。正しく馬の耳に何とやらである。だから美鈴は乾杯する杯のように軽く茸を掲げた。

「とりあえず気持ちだけでも頂いておくよ。ありがとう」

「何、気にするな。後で食べた感想を聞かせてくれればいいさ」

 そう言うと、魔理沙は再び流星へと変じ、紅い霞を突っ切って空の彼方へと消えていった。その後姿を見ながら、美鈴は呟いた。

「……やっぱり実験台なんじゃないか」

そう言いながら、茸を一口、齧るのだった。

「人が……」

 紙面から顔を上げることなく、パチュリー・ノーレッジは唐突に話し出した。

「はい?」

 そんなことに馴れっこのようで、ティーカップに紅茶を注ぎながら、小悪魔は未だに書面に張り付いたような少々不機嫌そうな主の顔を見た。

「人が猫のように見えるというのは、どういう気持ちなのかしら?」

「はあ? それは謎かけでしょうか?」

 頁を繰る主の手に当たらぬようにそれとなく気を使い、小悪魔がティーカップを置く。

「いいえ、肺病で死んだ詩人の詩」

 頁を繰った時に舞った埃に、パチュリーは小さく咳き込んだ。本を繰る手は勿論止まらない。書に耽りながら、面倒臭そうに暗誦する。

「死んでみたまへ、屍蝋の光る指先から、お前の靈がよろよろとして昇發する。
その時お前は、ほんたうにおめがの青白い瞳(め)を見ることができる。それがお前の、ほんたうの人格であつた」

 そしてついと小悪魔を指す。ギョッとして身を引く小悪魔の目の前で、その細くしなやかな指の先から、暗証する詩の通りの仄かに瞬く青白い光が一
条、ふわりふわりと立ち昇る。それはまるで行き先を見失ってでもいるのか、右に左に青白い尾を引きながら、それでもとうとう図書館の薄暗い空へと吸い
込まれて見えなくなった。

 呆然とそれを見上げる小悪魔に、パチュリーは言う。

「ひとが猫のやうに見える……と、そう続くのよ」

「……不思議な詩ですね」

 未だ視界に残る残像を追い頭上の薄闇に瞳を凝らしながら、小悪魔が呟く。その感想に、パチュリーがほんの少しだけ眉を動かして答える。

「概して詩とは感覚的、主観的だから、それを共有できなければ不思議に聞えるでしょうね。そして往々にして個人の感覚なんてものは共有できない」

 己の主の言葉に小悪魔は小首を傾げる。しかし直ぐに何かに気がついたらしく、「ポン」と手を打ち合わせた。

「ああ、でも」

「何?」

 やや弾んだ小悪魔にパチュリーが尋ねる。未だ顔を上げないパチュリーに、面白いことに気がついたというような晴れやかな笑みを浮かべて小悪魔が
言う。

「人のように見える猫の方なら、何人かお知り合いにいらっしゃるじゃありませんか」

「……確かに、詩的とは遠くかけ離れているけれどね」

 そこでようやっと本から顔を離し、パチュリーは不貞腐れたように言うのだった。

「猫は一体何を考え、何を感じて生きているのかしらね」

 頬杖を付きパチュリーはティーカップを手元に引き寄せる。引き寄せはしたがそれに口をつけるでもなく、ただ片手でカップの淵を撫でるばかり。

「私はね、時々考えるのよ」

 どこか陰鬱気に、パチュリーは小悪魔に話しかけるでもなく言葉を紡ぐ。

「私は箱の中の猫なのだと。観測されなければ、その生死さえあやふやな存在なのだ、とね。滑稽じゃない? ここには世の理を悉く看破し証明した無
数の名著が眠っているというのに、その主の存在を証明できないなんてね」

 そう言って倦怠感に彩られた溜息をつく。

小悪魔に主の言葉の真意は分からない。ただ今主が如何に苦しんでいるのか、というそのことだけは分かった。そしてそれこそ、小悪魔にとって辛いこ
とであり、それを慰めることが自分の仕事であると考えていた。

「そうですね。パチュリー様も十分猫ですよね」

 沈み込んでいるパチュリーを元気付けるように、小悪魔は殊更に明るい声を上げた。パチュリーがそんな自分の使い魔を眇める。

「誰にもなびかないところとか、猫ソックリです」

 そう言って小悪魔は両手の指を握りこみ、その手を顔の前に持って来て、一声「にゃおぅ」と啼いた。

 パチュリーはしばらく無言で小悪魔を見ていたが、フッと肩の力を抜いたように息を吐くと、ティーカップに口をつけた。

「それは何? 何だか私が三日で恩を忘れると言いたげね?」

「そ、そんな決してそのような意味ではなくてっ……!」

 猫の真似などすっかり忘れて慌てる小悪魔に、パチュリーは意地悪げで加虐的な笑みを浮かべるのだった。

「Alas, my love, you do me wrong To cast me off discourteously For I have loved you well and long Delighting in your company. 」

 澱んだ紅が凝り固まり、まるでそこにそうして存在するのではないかと見紛うほどの濃度を蓄えた闇へと変異を遂げた中に、その闇とは不釣合いな美
しい歌声が響く。たとえるならばそれは地獄に響く天使の歌声。のたうつ亡者に一時の安らぎを与える神の慈悲に似ている。

「 Greensleeves was all my joy Greensleeves was my delight Greensleeves was my heart of gold And who but my lady greensleeves. 」

 目を凝らしても見えない闇の向こう、そんなものすら見通すことの出来るものがあればその歌い手の姿に心奪われたであろう。それは正しく天使。

「 Your vows you've broken, like my heart Oh, why did you so enrapture me? Now I remain in a world apart But my heart remains in captivity. 」

 壁に背を預け両膝を抱えた、幼い少女の姿をしたモノ。そのモノの背にはまるで見事な細工物のような異形の翼。それはこの紅の館に封じられるに相
応しい、異形の天使。

「 I have been ready at your hand To grant whatever you would crave I have both wagered life and land Your love and good-will for to have. 」

 悪魔の妹、フランドール・スカーレットは、自分以外誰も聞く者のない歌を歌う。それは彼女のいつもの遊びの一つである。光なき闇の中でもうっすら
浮かび上がろうとするほどの細く白い首が震えるたび、その翼の如き玉虫色の煌く歌声が紅の闇をわたる。

「 If you intend thus to disdain It does the more enrapture me And even so, I still remain A lover in captivity. ……」

 とそこで唐突に歌声が止んだ。動くものがなくなった其処は、再び虚無の如き闇のみの世界に戻った。

「……歌うのも何だか飽きちゃったなぁ……」

 そう言ってフランドールは闇しか見えない天井を見上げる。まるでその向こう側を、そしてその先のすらをも見通しているよう。

「そろそろ姉さまも起きるころかしら? よぅし! それじゃあ姉さまに遊んでもらいましょう」

 しばらくそのまま天井を見上げていたフランだったが、勢いよく立ち上がるとパタパタと服についた埃を落とす。

「 My mother has killed me.
 My father is eating me.
 My brothers and sisters sit under the table
 Picking up my borns.
 And they bury them under the cold marble stones. 」

陽気に不気味な歌詞を響かせて、フランドールは頭上の闇に向かってその小さな手を掲げた。

随分久しぶりに夢を見た。

とても悲しい夢、だった気がする。

やせ衰えた老婆が一人、目の前のベッドで静かに眠っているのだ。

私は彼女のことを、とても良く知っていた気がする。

 何処かでレクイエムが聞こえる。

 何処からか詩の韻律が聞こえる。

  愛するものが死んだ時には、

  自殺しなけあなりません。

  愛するものが死んだ時には、

  それより他に、方法がない。

  けれどもそれでも、業が深くて、

  なほもながらふことともなつたら、

  奉仕の気持に、なることなんです。

  奉仕の気持に、なることなんです。

  愛するものは、死んだのですから、

  たしかにそれは、死んだのですから。

  もはやどうにも、ならぬのですから、

  そのもののために、そのもののために、

  奉仕の気持に、ならなけあならない。

  奉仕の気持に、ならなけあならない。

 それは何時か何処かでかつての少女が口ずさんでいた詩だ。

「×××」

 私は彼女の名前を、呼んだ。

 それはずっと私が呼び続けてきた名前ではない。

 その名前はずっと昔に彼女が失くした名前。

 その名前は、本来の彼女の名前。

 随分久しぶりに、私はその名前を呼んだ。

「……ああ、お嬢様」

 ゆっくりと老婆が瞼を開けた。

「すいません。このような姿で」

 老婆がベッドから体を起こそうとするのを、私は手で制した。

「かまわないわ。今日は特別な日なんだから」

 私の言葉を聞いて、老婆はすこしだけ悲しそうに、顔を伏せた。

「……そう、ですか。特別な日、なのですね……」

 そうして老婆は、いままでずっとそうだったように、穏やかに微笑んだ。

「お嬢様」

「何かしら?」

 私はやせ細った彼女の手を握り、答えた。

「誠に申し訳ございませんが、少し、眠らせていただけますでしょうか」

 ゆっくりと、少し疲れたように息を継ぎ、老婆が言った。

 私はわざと少し呆れたような溜息をついた。それから老婆の手に両手を重ね、言う。

「全く呆れたメイドねぇ。主が起きているのに、メイドの貴女が寝てるなんて、本末転倒じゃない。けれど、まぁ、仕方がないわ。分かったわ。私のこ
とは心配しないで、ゆっくり眠るがいいわ」

 老婆が、ゆっくりと、長い息を吐いた。

「ありがとう、ございます」

 そうして老婆は私の手をギュッと握り、しっかりと私の目を見た。

  奉仕の気持になりはなつたが、

  さて格別の、ことも出来ない。

  そこで以前より、本なら熟読。

  そこで以前より、人には丁寧。

  テムポ正しき散歩をなして

  麦稈真田を敬虔に編み――

  まるでこれでは、玩具の兵隊、

  まるでこれでは、毎日、日曜。

「おやすみなさいませ、お嬢様。お嬢様と過ごした時間は、短いものでしたけれどとても幸せでございました」

  神社の日向を、ゆるゆる歩み、

  知人に遇へば、につこり致し、

  飴売爺々と、仲よしになり、

  鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

  まぶしくなつたら、日蔭に這入り、

  そこで地面や草木を見直す。

  苔はまことに、ひんやりいたし、

  いはうやうなき、今日の麗日。

「私もよ。だから、今はゆっくりとおやすみなさい」

 私も老婆の手を軽く握り返した。

  参詣人等もぞろぞろ歩き、

  わたしは、なんにも腹が立たない。

     《まことに人生、一瞬の夢
     ゴム風船の、美しさかな。》

  空に昇つて、光つて、消えて――

  やあ、今日は、御機嫌いかが。

  久しぶりだね、その後どうです。

  そこらの何処かで、お茶でも飲みましよ。

「はい。ではお言葉に甘えさせていただきます」

 安心したように、老婆は長い長い溜息をついた。

  勇んで茶店に這入りはすれど、

  ところで話は、とかくないもの。

  煙草なんぞを、くさくさ吹かし、

  名状しがたい覚悟をなして、――

  戸外はまことに賑かなこと!

  ――ではまたそのうち、奥さんによろしく、

  外国に行つたら、たよりを下さい。

  あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

「ああ」

 そうして老婆は幸せそうな微笑を浮かべ、

  馬車も通れば、電車も通る。

  まことに人生、花嫁御寮。

  まぶしく、美しく、はた俯いて、

  話をさせたら、でもうんざりか?

  それでも心をポーツとさせる。

  まことに、人生、花嫁御寮。

「今日はお昼寝するには、丁度良い日和だわ」

ゆっくりと、目を、閉じた。

  ではみなさん、

  喜び過ぎず悲しみ過ぎず、

  テムポ正しく、握手をしませう。

  つまり、我等に欠けてるものは、

  実直なんぞと、心得まして。

  ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――

  テムポ正しく、握手をしませう。

 少女の声は何時の間にか闇に消え、そして何も聞こえなくなった。

そこで、目が、覚めた。

「おはようございます、お嬢様」

「……ああ、おはよう、咲夜」

 レミリア・スカーレットは少しばかり不機嫌な声で、傍らに控えている従者・十六夜咲夜に答えた。そこでレミリアは、何故か驚いた表情で自分の顔
をジッと見つめている咲夜に気がついた。

「何を驚いているの、咲夜?」

 寝起きで期限が悪いのか、不躾な咲夜の視線にレミリアが噛みつく。しかし完全で瀟洒なメイドには珍しいことに、不機嫌な主の様子にも気がつかな
い。表情を失った咲夜から呆然とした声が漏れた。

「お嬢様、涙が……」

 そこでレミリアが自分の頬に手をやる。そこには、一筋の冷たいものが流れていた。

「あら、本当! 気がつかなかったわ」

 ようやく我に返った咲夜が素早くハンカチを取り出し、涙を拭う。

「怖い夢でも御覧になったのですか? 炒った豆を持って追いかけられる夢とか」

 本気とも冗談ともとれない調子で言う。憮然とした表情で涙を拭いてもらいながら、レミリアはソッポを向いた。

「そんなのじゃないわ。ただ……」

「ただ?」

 言いよどむレミリアに、咲夜が穏やかに先を促す。少しの間、レミリアは言うべきかどうか逡巡していたが、

「……いえ、何でもないわ」

 ややあって、そう言った。

 咲夜は「そうですか」と言っただけで、それ以上尋ねることはしなかった。その代わりに、

「お嬢様。吸血鬼が夢を見た時は、『夢を見るなど馬鹿馬鹿しいことだ』、と言わなければならないんですよ」

 と、本気とも戯言ともとれないようなことを言った。従者の戯言にレミリアは片目を閉じ、苦笑いを浮かべる。

「何よ、それ。本当に咲夜は変なことを知ってるのね。仕事で忙しいのにどこからそんなことを仕入れてくるのかしら?」

 レミリアがスッと片手を伸ばす。その磨き上げられた大理石で作られた彫刻のような主の細腕の無言の命令に、咲夜は恭しく主の前に跪きその寝間着
のボタンを外す。レミリアの着替えを手伝いながら、咲夜はいつもの調子で言う。

「ああそのことでしたら、時々コッソリとサボってますので」

「ふん! 酷いメイドだ」

 いつものドレスに袖を通しながら、小さな牙をのぞかせて笑うレミリアに、

「いいじゃないですか。最後にはちゃんとお嬢様のもとに帰ってきますから、ご心配なさらないでください」

 やや寝乱れた銀色の髪を手櫛で丁寧に撫でつけると、咲夜はふてぶてしくもそんな風にうそぶいた。

「心配なんてするはずがないじゃない」

 着替えを済ませたレミリアは豪奢なベッドから降りる。そうして両手を胸元に添えると、満面に自信を漂わせ笑う。

「狗は、悪魔の側にいてこその狗なのよ。憶えておきなさい、咲夜」

「お嬢様、さっぱり意味が分かりませんわ」

 得意気なレミリアに、咲夜は困ったように笑った。

 その時、廊下の端からドタバタと足音が「咲夜さ〜ん、咲夜さん!」と怒鳴る声を連れて駆けて来た。眉をしかめて咲夜が、不思議そうに小首を傾げ
レミリアが、近づく音に顔を向ける。ノックもなく盛大な音を立てて主の部屋のドアを開けたのは、血相を変えた門番紅美鈴である。

「咲夜さん! 大変です! パチュリー様が固ゆで卵を喉に詰まらせて……」

「死んだ?」

 美鈴の説明も終わらぬ前に、レミリアが間髪入れずに尋ねた。

「お、お嬢様!」

 レミリアの言が終わるや、咲夜が慌てて主の真顔に視線を向ける。

「いえ、まだ」

「美鈴!」

 先程までの慌てぶりは何処へやら、妙に落ち着いた声で即答した美鈴に、咲夜が慌てて嗜める。

「けれど卵も飲み込めないほど、体が弱かったかしら?」

 咲夜が首を傾げる。その疑問に、美鈴が「そんなわけないじゃないですかぁ」と言いながら、何故か爽やかに笑った。パタパタと手など振り、まるで
世間話でもしているような気楽さである。

「いえ、その後私が背中を思いっきり叩いたんですけれど、バキバキって変な音がして……メメタァ!」

「思いっきり貴女のせいじゃない」

 抜き手も見せず振りかぶって放たれた咲夜のナイフが見事美鈴の額の星を貫き、美鈴は盛大に何故か口から血を迸らせ、どうっと仰向けに倒れた。咲
夜が紅魔館は紅いのだと再認識する瞬間である。流れた血があっという間に、壁やカーペットに紛れてしまうので、掃除の手間が省けるのである。

「咲夜。そんなことをしている場合じゃない。早く行かないと私の友人が死んでしまうわ」

「ご友人が大変な目に合った折、真っ先に『死んだ?』と尋ねるお方をご友人と呼んでよいものかどうか疑問ですが、何はともあれ行ってまいります。
……ああそれと……」

 倒れた美鈴の跨いでついとドアまで行くと、咲夜はそこで振り返った。レミリアが怪訝な表情を浮かべる。咲夜は穏やかな微笑みでそれに答えた。

「すぐに戻ってまいります」

 その笑みは、その言葉は、まるで今のレミリアの全てを見透かしているよう。そしてその上で、まるで母のようにその全てを許し、まるで悪友のよう
にその全てを知らんぷりしているよう。

咲夜の笑みの意味に、レミリアの表情が猫の瞳のようにクルクルと変わる。怪訝だった表情から驚きに。驚きの表情から呆れた顔に。そして最後に少し
怒ったように頬を上気させると、鋭く図書館の方を指さした。

「そんなことはどうでもいいから、さっさと行ってこい!」

「ええ。では行ってまいります」

 その言葉が終わるや、既に咲夜の姿はそこにはなかった。

 しかし未だこの部屋に残るものもあった。

「……で、お前は何をしている、美鈴?」

「いえ。咲夜さんが戻るまで、せめて私はお嬢様の側にいようかな、と」

 それがさも当然であるかのように自分の隣に立っている門番のにんまりとした笑みを、レミリアがねめつける。

「お前はお前がいるべき場所があるだろう。さっさと戻りなさい、お前の居るべき場所へ。さもないと私が直々にお仕置きするわよ?」

「紅美鈴、全速力で門の前にもどります!」

 ギロリと視線に凄み(殺気とも言う)を込めると、先程までの暢気さは何処へ消し飛んでしまったらしく、直立不動の姿勢でビシリと敬礼をすると、
美鈴は一目散と主の部屋から駆け出していったのだった。

「……まったく馬鹿ばっかりなんだから」

 遠ざかっていく足音を聞きながら、レミリアがそう一人ごちた。しかしそれも束の間のこと。

「おっねぇぇーさまっ! あーそーぼーっ!」

 まるでレミリアが一人になるのを見計らっていたかのように、大音響と共に部屋の床の一角が崩れ、煌びやかな羽とその羽根に負けない輝く笑みを称
えたフランドールがもうもうと巻き起こる土煙と姿を現したのだった。

「……月がこんなにも紅いと、人も妖怪も月光にあてられて能天気にでもなるのかしらね……」

 フランドールの破壊の能力の余波に巻きこれて崩れた天井の隙間から夜空を見上げ、レミリアは疲れたような苦笑を浮かべるのだった。

 ただその苦笑はどこか満足そうでもあり、楽しそうでもあった。

その笑みを知るのは、夜空に浮ぶ紅い月だけ。

                               了

あとがき

というわけで、ある日の紅魔館でした。

今回のSSは初めお嬢様の夢の話と、冒頭の咲夜さんが詩を詠うという別々のネタを無理矢理一つにくっつけた結果できあがりました。ただ咲夜さんとお
嬢様だけだとアレなのでパチェとか妹様とか中国とかも交えてみました。

詩はみんなのイメージから探してきました。レミ様とフランちゃんだけスゲエ悩んだのは秘密。誰が誰の詩か書いておきますね。興味がある方は、他の
詩も読んでみるとよいかも。

咲夜:中原中也「昏睡」

美鈴:白居易「香炉峰下新卜山居 草堂初成偶題東壁」

パチェ:萩原朔太郎「Omegaの瞳」(Omegaの視界の影響ですねぇ……)

フラン:作者不明「Greensleeves」

レミリア:中原中也「春日狂想」

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