瀟洒な従者に向日葵の花束を

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「……ふ〜ん。話には聞いていたけれど、この館、本当に何処も彼処も真っ紅なのねえ。こんな紅には、どんな花がいいかしら? 
やっぱり館の色に合わせて、血のように紅い薔薇? それとも、紅に染まらない、真っ白な百合とかどうかしら?」

暗く紅い紅魔館の廊下に、クルクルと真っ白い日傘が回っている。紅魔館に住むモノの性質上、この館には窓が少なく、外の光がほとんど館の中には差し込まない。
従って、赤い空間に、闇夜を照らす満月の如くポッカリと浮かぶ白い日傘は、『日光を遮り、日陰をつくる』という本来の機能を果たしていない。
だからわざわざ日傘をさしているのは、日傘の持ち主である風見幽香の気まぐれによるのだろう。

幽香は日傘をクルクルと回しながら、空いた手の人差し指を自分の顎に当てる。
廊下というには広すぎる空間は視界を遮るものもなく、幽香の他に人影は見当たらない。
だから幽香が先程から口にしているのは、必然的に独り言ということになる。

「……待宵草? う〜ん、どうにも紅には似合わない気がするわねえ」

磨き上げられた廊下を、幽香の靴が叩く音が木霊する。幽香は視線を血色の天井に向けながら、その紅に合う花を考えながら歩く。
頭の中で花が咲き乱れ、他のことなど上の空の様子で歩いていたのだが、幽香は何もない廊下の途中で突然立ち止まった。
そして顔を上げたまま目を瞑り、動かずに耳を澄ませるようにしていたが、すぐに満足したように微笑んだ。
幽香の他に誰もいない廊下に、いるはずのない誰かの音なき音を聞いたのか、幽香はその其処にいない誰かに語りかけた。

「ねえ、貴女は? この真っ赤な館に似合うような素敵な花、思いつかない?」

そう言って、幽香は優雅に身を翻した。

幽香は無人の廊下を歩いていた。何処にも人が隠れることができそうな所などない廊下である。
誰かが廊下にいたならば、幽香の目に止まらないはずはない。

幽香の足音が反響するほどの静寂であった。
だからこそ誰かがやってくれば、それこそ空を飛んできたとしても、幽香の耳に音が届かないはずはない。

そして幽香はここまで誰の姿も見ず、どんな音も聞かなかった。

しかし、

「……全く。この屋敷は何時から門番がいなくなったのかしら?」

声が聞こえた。姿があった。

何時の間に、何処から現れたのか。そのメイドは誰もいないはずの廊下にいた。
紅い色が支配する空間に、青を基調とした瀟洒なメイド服を着た、銀髪の完全なメイド・十六夜咲夜が、まるで浮き上がるようにして幽香の背後に佇んでいた。

眉間に深い皺を刻む咲夜に、幽香は日傘をクルクルと回しながら優雅に微笑みかける。

「あら、そうなの? けれど私が見た時は、門番はちゃんといたわよ。それは私が保証してあげます」

そう言うと意味あり気に目を細めてみせた。その目つきに、咲夜の眦が一瞬、ほんのわずかに反応した。
それはすぐに完全なメイドの仮面に覆われたのだが、その微妙な変化を幽香が見逃すことはなかった。
優雅な笑みを形作る口元はさらに引き伸ばされ、薄い三日月のような切れ込みと化した。
人間の弱みを見つけた妖怪が浮かべる、哀れみと蔑みを混ぜ合わせた人外の笑みである。幽香の本来的な笑みといえるかもしれない。

あるいはイジメ甲斐のある犠牲者を見つけた、性質の悪いイジメッ子の得意げな笑みと言い換えてもいいかもしれない。

幽香の笑みの意味を素早く悟ったらしく、咲夜は今度こそあからさまに不快な表情を作る。
それでも態度だけは慇懃さを崩すことなく、完全な礼儀作法で頭を垂れた。

「お嬢様は只今お休み中でございます。誠に申し訳ございませんが、御用は私が代って承っております」

どんな時でも、どんな相手でも、メイドの本分を忘れることがないところこそ、咲夜が瀟洒で完全と称される所以である。
最近少々忘れる時が増えていると言われてはいるが、少なくとも今は覚えていたようである。

そんな完全メイドを、幽香は相変わらずの笑みを張りつけたまま見つめる。

「あら。それじゃあお嬢様を起こしてくれない? 
折角こんな埃っぽくて息が詰まる、おまけにろくに花も咲いていないようなお屋敷まで足を運んだんですもの、それぐらいしてくれてもいいんじゃない?」

蛇のように絡みつく視線で、幽香は咲夜を見る。
自分の言葉に完璧なメイドがどのように反応するのか、幽香は興味があった。

そしてその言葉は、わずかに咲夜のこめかみを揺るがせた。幽香にはそれだけで十分な反応であった。

「誠に申し訳ございません。お嬢様からお休み中は誰も部屋に通してならないと仰せつかっております。
ですのでお客様さえ宜しければ、お嬢様が目覚められるまでお待ちください」

咲夜は丁寧に腰を折って言うと、スッと顔だけをあげた。
切れ長の瞳が、まるで研ぎ澄まされたナイフのように冷たい光を放っている。

「塵一つ埃一つない、大きな窓で採光もバッチリ、
なおかつ紅魔館の自慢の赤い花壇が眺められるお部屋を、ご用意させていただきますので」

毒に満ちた咲夜の言葉に、幽香は嬉しそうに含み笑う。

「フフッ。やっぱり気にしてたのね、メイドさん。我慢は身体と精神に毒よ?」

「一応お客様ですから。それ相応の対応をしなければならないところが、メイドの辛いところですわ。
なのでそこら辺を察して頂けると非常に助かるんですけどね」

幽香を睨む眼の表情を緩めて、咲夜が溜息を一つ吐いた。

顔を曇らせている咲夜に笑いかけ、クルクルと幽香が真っ白い日傘を回す。
時計回りに、反時計回りに、日傘をクルリクルリと回して、幽香は言葉を発するタイミングを計る。
咲夜の完璧な表情の下に潜む心中を読み、彼女の不快感を煽るように意味あり気に間を持たせる。
咲夜のようなタイプが最も嫌うであろうタイミングを、幽香は経験的に知っているのである。

十分に日傘を回すと幽香は困ったような声を出した。

「う〜ん。待ってるのも退屈だから、やっぱりお嬢様を起こして頂戴な」

「だからそれは無理なんですって」

咲夜は盛大な溜息と眉間に深い皺を作った。
どうやら咲夜は幽香を言葉の通じない相手、例えば紅白巫女やモノクロ魔法使いと同じ類だと認識したらしい。幽香の読み通りである。
予想通りの反応に内心でほくそ笑む幽香であったが、それを表情に見せることはない。
逆に、さも面倒だと言わんばかりの渋面を作ると、何処かのモノクロ魔法使いが言いそうな事を言う。

「じゃあいいわ。私が直接起こします。だから眠り姫の部屋は何処か、それだけ教えて頂戴?」

相手がどのような類の輩か凡その検討がつけば対応もしやすいようで、咲夜は軽く足を開いて、ほんの少し膝を曲げた。
たったそれだけの動作で先程までの使用人らしい従順な雰囲気は拭い去られ、冷たい光を放つ鋭利な刃のような無機質の殺気が漂う。

「……それを尋ねて私が答えると思ってるのかしら?」

殺気は咲夜の言葉にも表れる。
口調や語気こそ変化してはいないのだが、まるでこの空間そのものを凍らせでもするような冷気を帯び、底知れない深い闇から響いてくるかのよう。

この感覚を幽香は良く知っていた。
花に誘われあちらこちらとうろついては、人であれ妖怪であれ構わずに興味を引くものに片っ端からちょっかいを出している幽香である。そこで争いになることなど稀なことではない。
サボタージュの泰斗に言った言葉が、実はそのまま幽香自身にもあてはまる。曰く、『喧嘩の花が良く似合う』。
清楚な見た目に反して、長い時間の中で幽香は数え切れない修羅場を潜ってきている。
それも幽香自身が好き好んで。だからこそ憶えのある冷たい空気を敏感に感じ、久しぶりの『楽しめそうな』予感を、幽香は素直に喜んでいるのである。

だから幽香は満面に笑みを湛えて、咲夜にちょっかいをかける。

「あら? だって貴女はメイドさんなんでしょう? だったらお客様を部屋に案内するのも仕事の内でしょ?」

能天気な幽香の言葉に、咲夜はまた溜息を吐く。肺の空気全てが溜息になってしまったのではないかと思えるほど、深い深い吐息である。

「メイドはメイドでも、お嬢様のメイドですから。お嬢様の命に背くようなことをするわけがないでしょう」

苦虫を噛み潰したような咲夜の言葉に、幽香はなおも惚けてみせる。

「それもそうね。じゃあ自分で探します。そこら辺の部屋、全部虱潰しに当たれば、どれか一つが当たるでしょう」

幽香の挑発に、咲夜の硬質の殺気が言の葉に乗り放たれる。

「そんな無法を私が許すと思ってるのかしら?」

幽香は微笑んだ。夏の日差しを浴びる、向日葵のような晴れやかな笑みである。

「勿論、思ってないわよ?」

それを聞くと、咲夜は諦め気味に呟いた。

「……そう。じゃあ、仕方がないわね」

その言葉が終わるや否や、四方を囲む赤が歪む。幽香の目の前で廊下が収縮し、そして膨張する。確かに廊下にいたはずの二人は、一瞬の後に揃って館の時計塔を見上げていた。

「……全く。どうしてこういう輩しかお屋敷に来ないのかしら」

何時の間に何処から出したのか、呆れる咲夜の両手には、投擲用の銀のナイフが沈み行く残照に鈍く光っている。
しかし幽香はというと、今目の前で自分が体験した不思議に素直に感心しているだけだった。感嘆の声を漏らしながら一頻り周囲を見渡して、納得したように頷く。

「霊夢の言うことだから話半分にしか聞いていなかったのだけれど、貴女、本当に時空間を操るのね。素敵だわ」

そう言って日傘の柄を小脇に挟んで、パチパチと手を叩いた。一応本人としては褒めているつもりのようである。

だが相対する咲夜の眼光は弱まらない。それどころか益々研ぎ澄まされていくよう。

「それはどうも、お褒め頂き恐悦至極ですわ。……さて、と。それで今日のところはここいらでお引取り願えませんかね? これで私、結構忙しいのだけれど」

「まあ!」

それを聞いて幽香はわざとらしく驚いてみせる。 こういう細かいところで嫌がらせの手を抜かないところが、幽香のイジメッ子として徹底しているところである。
そして余計な一言を添えることも忘れない。

「この館のメイドさんは折角やって来たお客様をもてなしもせずに追い返すの?
教育がなってないわねぇ。こういうのは主に似るのかしら?」

その一言に、咲夜が豹変する。猫のように瞳孔が開き、メイドとしての仮面を被ることも忘れ、表情が凍りつく。
まるで身の内でのたうつ激情を押さえつけるように歯を剥き出しにしきつく噛み締めると、ゆっくりとたわめた両腕を胸前で交差させる。

「……分かりました。そうまで仰るのなら、不肖十六夜咲夜が当屋敷の主に代わり、お客様をおもてなしさせていただきます」

咲夜の姿は、今にも放たれんとする引き絞られた弓矢を思い起こさせる。だが咲夜の口から紡がれるのは、普段と変わらない落ち着いた声。
だからこそ、その淡々とした声はとてつもない不吉を予感させる。

そして瞳に灯る蒼く鈍く輝く激情の火を冷たく鋭い殺気に変え、咲夜はただ淡々と宣告する。

「ここまでお嬢様を愚弄して、この屋敷から無事に帰ることができるとは思わないことね」

咲夜の鋭利な銀色の殺気を、しかし幽香は花の綻ぶように一笑する。

「メイドの鑑みたなことを言うのね」

どこまでも惚けた事を言う幽香に、咲夜は苦笑するように口の端を吊り上げて見せる。

「まあ、一応メイド長ですから」

そう答える咲夜に、「そうだったわね。すっかり忘れていたわ」と幽香は笑う。まるでその笑みに応えるかのように、幽香の足元から無数の色が湧き上がる。
それは風に舞う花弁の姿を借りた色とりどりの弾幕。
スペルカードを使うことなく、動作の一つもなく、衒いなく造作なく、あっという間に逆巻く花の嵐が笑みを湛えて佇む幽香の姿を覆い隠す。

無音で渦巻く夢幻の花弁の中から、風雅な響きを持つ幽香の声が聞こえる。

「それじゃあ貴女も忙しということですし、そろそろ始めましょうか?」

幽香の声に応え、ギシリと音がするくらいに咲夜の繊細な指がナイフの柄を握り締める。その姿は咲夜自身の獲物と同じ、鍛えられた銀の刃のよう。

不意に、咲夜が表情を緩めた。口元を吊り上げて、笑う。

「そうですね。そうしていただけると私としてもありがたいです、ねっ!」

その言葉が火蓋を切った。咲夜が後方に大きく跳躍すると同時に両手から銀色のナイフが撃ちだされる。

だが並みの人間や妖怪ならば認識することすら難しいその攻撃も、幽香にとっては脅威ですらない。
幽香が攻撃を認識するまでもなく、周囲に展開された弾幕が反応し、迫るナイフの雨を悉く弾く。
それと同時に幽香が意識するまでもなく弾幕の一角がうねりをあげる。それは跳躍する直前まで咲夜が立っていた場所に怒涛となって降り注ぎ、地を抉る。

「あら? 外したかしら?」

蹴った石が思わぬ方向に跳ねたことに驚く程度の暢気さで、幽香が呟く。そして高速で動く咲夜の後を執拗に追う弾幕の奔流を見ながら、一人ごちる。

「まあいいわ。この程度でやられちゃ面白くないものね。結構、すばしっこいメイドさんみたいだし、ちょっと本気を見せてあげましょう」

そう言うと、日傘を差す反対の腕を何気なく咲夜に向ける。

「さあ、花の円舞の始まり始まり。踊りなさい、メイドさん。狂々とね」

それだけ。それだけで幽香の意図を汲み、次々と弾幕花が咲夜の姿を追う。
その様は幾本もの虹が空を奔るよう。それら全てが、色の飛沫を撒き散らし、ただ咲夜の姿めがけて迸る

咲夜は一瞬たりとも同じ場所に留まる事無く動き続ける。
時に時間を止め、牽制に攻撃にと忙しく銀の刃を振るい、妖花の瀑布を凌ぐ。
何処からともなく取り出す銀のナイフが舞い踊る無数の花弁を切り裂くが、その刃は弾幕を操る幽香の体に届くまでもなく、幽香の足元から沸き起こる新たな弾幕に阻まれる。

次々と巻き起こる弾幕の嵐の勢いは、一向に衰えることない。それどころか咲夜がかわし防ぐ度に、数・速度共に徐々に上がっていく。
既に咲夜の視界は弾幕に埋め尽くされ、幽香の姿は影もない。

圧倒的な弾幕量で咲夜を追い詰めながら、幽香は心底愉しそうに口元を歪める。

「時空間を操る貴女、花を咲かせるだけの私。人間の貴女と、妖怪の私。さて? どちらが先に力尽きるのかしら?」

その言葉を聞き、襲い来る大量の弾幕を前にしても表情一つ変化しなかった咲夜が、その完璧なメイドの仮面を変化させる。

帯びた冷気はそのままに、口元を笑みの形に変える。

「あら? それは貴女じゃないかしら? 花屋さん」

その言葉と同時に、回避に重点を置いていた咲夜の動きが不規則に変化する。右に左に無軌道なステップを刻む。
そして襲い来る弾幕を紙一重でかわす度に、咲夜の姿が少しずつぶれはじめる。それは徐々に二重に、三重にぶれていく。
それは幽香の言葉のまま踊るようにステップを刻む度、スカートの裾を翻す度、咲夜の姿がぶれていく。

それは移動のタイミングとずらして僅かに遅れて、あるいは先んじて『時間』を操るが故の現象。それはさながら落花を模した弾幕の舞台を何人もの咲夜が舞い踊るよう。
あるいは弾幕を掻い潜り、あるいは何処からともなく握ったナイフを投擲する。近づくと見せて遠のき、遠くにいると思えば幽香の目の前に迫る。

「あれ? 今の当たらなかった? おかしいわねぇ? ……って、今、絶対当たってたでしょ! ……へっ! なんでそっちにいるのよ〜!」

咲夜の不規則な動きが、幽香の自動追尾弾幕流を翻弄する。幽香はといえば、既に咲夜の動きを目で追うことを止めていた。
そうしてただあちらこちらにと突如現れる咲夜の姿に目を白黒させるばかり。

「それに答える義務はありませんわ、お客様」

目を回す幽香の声とは対照的に、荒れ狂う弾幕嵐の中でも咲夜の不敵な声は静かに響く。

不規則な動きの中でも、咲夜はいつもの仕事振りと変わることなく、無駄がなくそつがない。
一見回避不能に思える弾幕でも、わずか一瞬生じる隙間を縫い、縦横無尽に駆け巡る。
大量の弾幕を以てしても捕らえきれないその動きに、自分の優位を確信していた幽香が少しずつ焦れ始める。
そもそも自分が有利な状態で、相手をチマチマとイジめることが幽香の愉しみなのである。
たとえ未だ自分が有利であるということを考えても、咲夜の動きに翻弄されてはその愉しみを十二分に味わうことが出来ない。そんな状況を幽香は少し面倒に思っていた。

先程から幽香は咲夜の動きを追うことを止め、自分の勘を頼りに闇雲に弾幕を展開している。勿論、そんな弾幕では到底咲夜の動きを捉えることなど不可能である。

「やった! 今度は間違いなく当たったでしょ!」

捉えたと思っても、

「残念。それは私ではありません」

次の瞬間には、幽香が予測もしていなかった角度からナイフが放たれている。

それが最後になった。ずっとイライラを募らせていた幽香の我慢が、限界に達した。

「も〜! いい加減にしてよ! チョロチョロ動き回って、面倒臭いわね!」

少しずつ状況を回転させつつある咲夜を一気に押し潰さんと、幽香は大きく腕を振る。それは周囲に張り巡らせた弾幕を全て攻撃に注ぎ込む合図である。

幽香の意志を受け、ざわめく花弁は弾幕の激浪と成り、幽香の眼前を跳ぶ咲夜『達』を飲み込むように今までで最も大きくうねる。
その狂瀾の弾幕は避ける術はなく、防ぐ手立ては皆無としか思えないもの。

だがその波間に飲まれながらも、一切温かみを感じさせない冷徹なメイドの声が幽香の耳に届く。

「やっと解いてくれたわね、その面倒な弾幕。これで漸く、『近づける』」

その言葉が合図。

そして、『時』は止まる。

凍れる殺気が、空間までも凍てつかせる。

その静止した時間の中を咲夜が駆け抜ける。動かぬ弾幕の波頭を縫い、疾走する。

前面に展開された回避不能の弾幕の壁を大きく旋回し、乱れ散るままに動きを止める花弁の隙間を疾駆する。それは同時に幽香の死角を突く動きである。

咲夜が完全に被弾の危機を逃れ、さらに幽香の知覚の外へと至る。

そして『時』は動き出す。

弾幕の花弁が、紅い空に散り、吹き荒ぶ。

しかし其処に咲夜の姿は、ない。

散る無数の色の中に、一筋の銀が煌く。

それは銀のナイフの輝き。

その切先は、背後からピタリと幽香の首筋に突きつけられていた。

「これで王手詰みね」

咲夜の氷よりも冷え切った声が言う。

「って、あら? 何時の間に私の背後にいたの!?」

窮地に陥ろうとも、幽香の調子は変わらない。茶飲み話でもするような気楽さが、全く衰えない。

そんな幽香のペースに慣れたのか、咲夜は素っ気無く一言呟く。

「手品よ。ただのくだらない、ごく普通のね」

背後の銀の光を透かし見、唇に嘲笑を浮かべながら、幽香は変わらず言葉に蔑みを混ぜて言う。

「ふうん、そう。で、そんなただの銀のナイフの一振りで、私を無事に館から帰さないように出来るの? 
それとも、さっきみたいに何処からともなく沢山のナイフを持ってくる? そろそろ貴女の手品の種も尽きる頃だと思っていたのだけど」

幽香の言葉に、咲夜は「まあ」と目の前の妖怪の口振を真似て、開いた手で口を押さえた。
咲夜なりの今までの狼藉への意趣返しのようだったが、当の幽香は「あら? 意外とお茶目なのね? メイドさん」と言って笑うだけで、全く堪えもしない。
咲夜も咲夜で、幽香にそれ程の反応を期待していたわけではないらしく、完全で瀟洒なメイドに戻ると、眼を細めて慇懃無礼な言葉を続けた。

「お客様、お気づきではございませんか? お客様をおもてなしする準備はとっくに出来ておりますわ」

そういうと咲夜は視線を空へと向ける。幽香がその視線に続いて自分の周囲を見渡す。

空には星があった。紅い空に、輝く無数の銀の星。

幽香を中心にした同心円を描くように、無数のナイフが幽香に切っ先を向けて『停止』している。
喩えるならそれは銀色の檻。素直に驚いたのだろう、幽香は感心したように嘆息した。

「成程。アレ、さっきのナイフね。私の弾幕を弾いてからも、ずっと『時間』を止めておいたってわけね」

「その通りにございます」

咲夜は丁重に腰を折る。そして頭を上げると、咲夜は芝居がかった様子で、開いている手を顔の前に持ってくる。

「それでは、お客様。心行くまで銀のナイフのフルコース、ご堪能くださいませ」

咲夜が指を弾いた。

その乾いた音と共に、止まっていたナイフの時間が動き出す。風香の全周囲に張り巡らされた銀の結界は、一斉に球の中心に向かって収斂する。

「じゃあ、ご相伴に与らせてもらおうかしら」

幽香の声が咲夜の耳に届くよりも速く、その声は空を奔るナイフの音に裂かれた。

一瞬であった。

全てのナイフは銀の弾丸と化し、幽香の体を貫く。
嫣然たる笑みを湛えた美しい顔を、白く長い首を、細い肩を、日傘を差す腕を、豊かな胸を、柔らかな腹を、スラリと伸びた足を、貫く。

刹那であった。

その間に、幽香の体は細切れになった。たとえ強力な人妖とてここまで体を損壊されて、無事であろうはずはない。

無惨な姿を晒し、幽香の体がゆっくりと後ろ向きに倒れこむ。

その無惨な姿を見ても、咲夜の完璧なメイドの表情は一筋として雲らない。
ただ淡々と、いつも紅魔館を掃除しているような、そんな日常的な決まり切った仕事をこなしている時と全く同じである。

咲夜の氷の視線と、僅かに残った幽香の左目に宿る虚ろな光が、交差する。

その時、幽香の顔が、笑みの形に歪んだ。

それは幽香のいつもの笑み。
虐める相手がまんまと自分の口車に乗り、引っ込みがつかなくなって困っている時に、相手に見せ付けるようにして浮かべる笑み。

その笑みに、咲夜の中の何かが凍る。

幽香の笑みに、咲夜のうちで何かが警告する。

その感覚が、一刻も早くこの場から立ち去るようにと、咲夜の足を急き立てる。

だがその警告を聞くには、時を操る咲夜にしても少々『遅すぎた』。

切り刻まれた幽香の体が崩れる。

皮一枚で繋がっていた首が、切り離されていた腕が、柘榴のように切り開かれた腹が、崩れる。

眼に鮮やかな、血色の空に鮮明な、陽光の如き色へと変化し、空へと舞い上がる。

終には風香の体は無数の花弁へと変ずる。日の光を映したような黄色い花弁。向日葵の花弁に変化する。

それは咲夜にまとわりつき、あるいは視界を遮るように舞い上がる。

咲夜がらしくなく舌打ちし、跳び退ろうとした。

しかし、

「体が重い!?」

頭の中では跳び退る自分の姿を思い描きながら、しかし実際には咲夜の体は硬直し、ほんのわずかしか動かない。
研ぎ澄まされた視界の隅で、咲夜は幽かな色の変化を察知する。咲夜の周りを舞う黄色い花弁に混じり、明るい紫色が踊っている。

「真逆、鈴蘭!」

咲夜の声に反応するように、渦巻く黄色は端から紫色へと変化していく。気づいた時には鈴蘭の花弁は紫の薄煙のように咲夜の体を取り巻いていた。

すぐに周囲の時間の流れを操り煙る鈴蘭の毒を防ぐが、不意をつかれわずかに吸い込んだ毒が咲夜の体を蝕む。

咲夜は何時ぞやの鈴蘭畑で出会った、毒を操る人形のことを思い出していた。今の状態が、その時に受けた毒の感覚と同じであったからである。

視界が歪む。四肢に力が入らない。ナイフを取り落としそうになる。膝から下が無くなってしまったように感じ、力が入らない。

これ以上毒を吸わないようにすることはできても、既に体内に吸収されてしまった毒を排出する術は咲夜にはない。

「私の新しくできた友達からの受け売りなんだけど、鈴蘭の毒は心の毒、憂鬱の毒、だそうよ。いくら貴女が時間を操ろうとも、心を縛る毒には効かないでしょう?」

そんな咲夜を嘲笑うように、声が聞こえた。それは毒に冒された咲夜の耳にも柔らかく響く、風雅な声。

視界を覆う黄色と紫の雲霞が晴れる。声を頼りに、咲夜が頭上を見上げた。

紅い夕闇が支配する空の底に、真っ白い日傘が一輪咲いている。

底で、幽香が変わらぬ微笑を浮かべ身動きの取れない咲夜を見下ろしていた。

「その知り合ったお人形さんに貰ったの、ソレ。鈴蘭の花もなかなかに素敵だと思わない?」

幽香は嬉しそうにクルクルと日傘を回す。笑みは無言で幽香の心中を物語る。曰く『狙い通り』である。

その姿に、咲夜は自嘲気味な笑みを浮かべた。それは精一杯の虚勢でもある。

「……お株を奪われたって気分ね。けれど、確かに手応えはあったはずだけど?」

そう言って咲夜は肩を竦める。手品の種を知りたいのだが、口に出して答えを請うことはしたくない、ということらしい。そんな咲夜の胸の内を察し、幽香は眼を細める。

「さっき貴女にやられた私も、今此処にいる私も、どちらも私。残念ね、メイドさん」

それを聞いて「ずるいわね」と、咲夜が呟く。その一言が聞きたかったようで、幽香は実に嬉しそうに笑った。
純真な少女のような笑みだった。思わず咲夜が見蕩れてしまう程の、邪気のない、無垢な笑みだった。

だがその笑みも長く続かない。ゆっくりと口の端が持ち上がり、いつもの幽香の笑みに戻る。
そして幽香は舐めるように咲夜の姿を見る。どうやって目の前のメイドをイジメてやろうかと思案を巡らせているのかもしれない。

幽香は咲夜の頭から足の先まで視線を這わせると、どう目の前のメイドを『料理』するのか決まったらしく、おもむろにスカートのポケットに手を入れた。

そうして咲夜の表情を観察するように注視しながら、言葉を紡ぐ。

「『一手』……、遅かったわねえ、メイドさん。惜しかったわ。……そうそう! さっきの手品とナイフのお礼といっちゃなんですけど、貴女に花を差し上げるわ」

幽香が落ち着いた動作でポケットからスペルカードを取り出し、笑いを浮かべる口元を隠すように構える。

そうして『今の貴女の姿と、これから貴女に起こる事に心底同情している』と言わんばかりに、白々しく眉根を寄せた。

「両手でも、持ち切れないほど沢山の花よ?」

スペルカードをゆっくりと顔の横へ。

それに呼応し、空に異変が走る。

澄み渡る赤い空が裂け、禍々しい白い花が咲く。

うっそりと幽香が笑う。

「月見草。きっと瀟洒な貴女に良く似合うわ」

空を裂き、次から次へと無数の白い花が咲き始める。空を覆うように、無数の白い月が咲き乱れる。
見上げる咲夜の瞳に赤い空はわずかも映っていない。上天を占めるのは主に似て不気味に咲く月見草だけ。

花々は咲夜のナイフの本数を遥かに上回る。弾幕の攻撃範囲は、明らかに咲夜が操る時空間の最大領域を超えている。

「繚乱『花天月地 風花雪月』」

低く言霊を唱え、幽香は手に持つスペルカードを頭上に掲げた。

咲き誇る夢幻の月見草が、弾幕へと変じる。花弁を散らし、風に舞う粉雪の如く咲夜へと降り注ぐ。

それは正しく幻想、乱れ舞い、咲き誇る弾幕。

『花の主』風見幽香の真骨頂である。

「さあメイドさん? 毒に冒されたその体で、どこまでこの弾幕を避けられる?」

嬉しさを全身で表現するように、幽香は両手を広げクルクルと回る。

両手に一振りずつ銀のナイフを握り、咲夜はもつれる足で地面を踏みしめ、霞む視界で迫り来る弾幕を睨みつけた。

圧倒的な不利を前にして、それでも咲夜は完全で瀟洒に微笑んで見せた。

「……う〜ん。これは少しばかり骨が折れそうね」

まるで「掃除がちっとも進まない」とぼやいているのと変わらない様子で、咲夜は一言漏らした。勿論、その小さな声は空で踊る幽香には届かない。

ゆっくりとだが、確実に白い弾幕は距離を詰め、咲夜の視角を埋め尽くし、死角から迫る逃げ場のない死地へと追いやるように展開される。

咲夜が息を呑み、わずかに重心を爪先に移した。

無理矢理足に力を込めて、ほんの少し腰を落とした。

手を伸ばせば届くまでに迫った花の壁を前に、咲夜の頬を汗が一筋、流れた。

咲夜が動き出そうとしたその時、

「……全く。この屋敷のメイドは何時からサボるようになったのかしら?」

正にその時、咲夜の直ぐ後ろで声がした。

それは咲夜が良く知る声である。少し不機嫌そうで、未だに幼さなさの抜けきらない声である。紅い闇の中で、咲夜が毎日聞く声である。

その声に続き、何かが、巨大な何かが咲夜のすぐ側を走る。

それは耳を聾するような爆音と、質量を持った空気の塊を伴って走る一条の紅い閃光。

神槍『スピア・ザ・グングニル』。

血色をした魔神の槍が乱れ飛ぶ純白の弾幕を打ち抜く。

何層にもなる弾幕を貫き、紅い光芒は血色の闇を跡に引き、舞い踊る人妖に向かって一直線に花の海を突き進む。

だが紅き死を前にしても、幽香の笑みは相変わらず意地悪く、美しいまま。

恐怖の色が表れることもなく、色を失うこともなく、ただ艶やかに笑ったまま。

そして幽香は雨雫を払うように日傘を振るい、体の前に翳した。

それは、まるで日傘が堅牢なる盾であるかのように。

それとも、それは迫り来る紅い弾幕群への『迎撃』のつもりだったのかもしれない。

その直後、槍を模した紅い弾幕は、紅い空に咲く一輪の白い花に『着弾』した。

一瞬、空を『完全なる紅』が支配する。

紅い光が爆発し、黄色が、紫が、白が、無数の色が、かき消される。

着弾に遅れて巻き起こる爆風が、周囲に展開する弾幕を吹き散らし、砂煙を巻き上げる。

砂煙と轟音、そしてまだ抜け切らない鈴蘭の毒で朦朧となりながらも、咲夜は腕に添えられた小さな手の存在を感じた。
その感触を頼りに、薄れ行く意識を手放さぬように気を引き締め、完全なるメイドとしての自分を保つ。

「こんなところで油を売っていると思ったら、こんなに騒々しくして。思わず眠気も醒めちゃったじゃない。全く、咲夜らしくないわね。
前に巫女が殴りこみに来た時に、私が寝てる時間には大きな音を立てては駄目と言わなかったかしら?」

不機嫌な声が、朦朧とした咲夜の耳にキンキンと響く。その響きのおかげで、咲夜はいつもの如く完璧で瀟洒なメイドであることが出来る。

「申し訳ありません、お嬢様。少々騒がしいお客様がいらしていたもので。只今お茶をお持ちいたします」

ふらつく体に鞭打ち、咲夜は慇懃に腰を折り、砂煙に幽かに浮かぶ紅く小柄な影に答えた。

「ああ、お茶の前に説明して頂戴。寝起きで思わず攻撃してしまったのだけれど、アレは一体何だったのかしら?」

煙が晴れた。咲夜の傍らに、まるで自分の従者を庇うように立っていたモノは、完全で瀟洒なメイドの主であり紅魔館の主である、『紅い悪魔』ことレミリア・スカーレットである。

顔を上げ、咲夜は首を振り、主の問いに答えた。

「さあ。私にもさっぱり。『お嬢様に招待された』としか言わない、とりあえず怪しい闖入者だったので、お屋敷から追い出そうとしたのですけれど」

そんなメイドの惚けた返事を聞き、レミリアが呆れたように顔を顰めた。

「それじゃあ寝起きの私と変わらないじゃない、咲夜。仕方ないわ、なら、本人に聞くとしましょう」

そう言って未だに砂塵が煙る空を見上げるレミリアに、「しかしお嬢様」と咲夜が尋ねる。

「件の闖入者は、先程お嬢様が問答無用で攻撃なさったばかりですよ?」

レミリアは顰めた眉間に指を当て、苦笑を浮かべて咲夜を見上げる。

「問答無用で追い出そうとした咲夜には言われたくないけれど、多分、大丈夫よ」

咲夜も頬を引きつらせて、レミリアを見る。

「多分、ですか?」

その咲夜に、レミリアは牙を覗かせ、わざらしくと可愛く微笑んだ。

「ええ、多分」

そうしてお互いの顔を見合って溜息を吐くと、主従は空を見上げる。丁度、砂煙が晴れたのである。

だが煙の向こうの影や形が見えるより先に、甲高いヒステリックな声が響いた。

「もう! 館の主といい、メイドさんといい、どうなってるの! お客様をもてなそうという気がないの! お気に入りの洋服が埃まみれになっちゃったじゃない!」

砂煙の向こうに、全身に薄っすらと埃を被った幽香の姿が見えた。今の幽香に、どれだけの攻撃を前にしても崩れなかった、人を小馬鹿にした笑みと雰囲気は全く見られない。
目を見開き、肩を怒らせ、あまつさえ怒気で頬が少しばかり朱に染まっていたりしている。
そして必死に体中に被った埃を払いながら、ぼんやりと自分を見上げる妖怪と人間に何やら抗議しているのだが、咲夜とレミリアは聞いていなかった。

レミリアが、何事かを喚いている幽香を指差して言う。

「ほら、咲夜。大丈夫だったじゃない」

レミリアは自分の予想があったことを無邪気に喜んでいる。幽香が何かを喋っているということには、全く気がついていないらしい。

「丈夫な日傘ですねー。お屋敷にも一つ欲しいですわ」

頬に手をあて咲夜は、あれだけの弾幕の直撃を受けたにもかかわらずほころび一つ見られない日傘を見て言う。
何やら怒気を飛ばしている幽香は目に映っているのだろうが、一々相手にするのも面倒なのか、幽香の声に答える素振すらみせない。

自分を無視して全く話を聞いていない二人に、幽香の怒りが頂点に達する。

「ちょっと! 貴女たち! 聞いてるの!」

必死に髪についた埃を落としながら、幽香が顔を真っ赤にして叫ぶ。その声で漸く我に返ったのか、咲夜とレミリアの体がビクンと跳ねた。

「すいません。聞いてませんでした」

妙に素直に咲夜が頭を下げた。しかし全く悪びれた様子はない。

「あら? 何か言ってたの?」

レミリアが可愛らしくと口を開けた。本当に幽香の声は耳に届いていなかったらしい。

のほほんと佇む二人に怒りの視線をぶつけると、ここから叫んでいても一向に埒は開かないことを痛感したのか幽香が無言でゆっくりと空から二人の前に降りてくる。
そうしてこれみよがしに二人の前で「も〜! 全然落ちないじゃない!」と不満一杯の唸りを上げ、お腹の辺りパタパタと叩く。

そんな風に忙しくしている幽香を指差して、レミリアが咲夜に尋ねる。

「……で、これは何?」

困ったように頬に手をあて、咲夜は吐息を一つ吐く。

「自称お嬢様のお客様、だそうです。……ああ、そうでした」

咲夜は答えている途中で何かを思い出したらしく、頬に当てていた手でレミリアを示し幽香に言う。

「そうでしたそうでした。で、お客様、此方がお嬢様になります」

「今更!?」

レミリアがその紹介に驚いて顔を引きつらせ、

「そんなの見たら分かるわよ!」

幽香が甲高いヒステリックな声で噛みついた。

「はあ、左様ですか」

咲夜はそんな幽香を不思議そうに見てから、呆れ顔で腕を組み咲夜を見上げるレミリアに視線を向けて暫く何か考えていたが、ややあって、

「そうですね。見れば判りますよね」

と、言った。

まだ鈴蘭の毒が抜け切っていないのか、一向に要領を得ない返事ばかりの咲夜に呆れて、レミリアは未だに呻きながら体のあちこちを叩いている幽香に何か言おうとした。
そこで気がついた。ウィンクするように片目を閉じて、漸く腑に落ちたと言うように一つ息を吐いた。

「……なんだ、花屋じゃないの?」

惚けていた咲夜が、主の意外な言葉にはじかれたように上半身を仰け反らせる。完全なメイドの表情は崩れて、頬を引きつらせたまま固まってしまう。

「……花屋って。……真逆、お嬢様。コレをご存知なのですか?」

「コレとは失礼ね、メイドさん」と抗議する幽香の事は無視して、恐る恐るレミリアを見る咲夜に、レミリアは当然のように頷く。

「ええ。この前の花の騒ぎの時、咲夜、貴女は出かけていたでしょう? 
だから知らなくて当然なんだけど、あの時にね、屋敷の側で色んな花を咲かせて回っている変な奴がいるって紅が言うから、面白そうだしソイツを屋敷に呼んだのよ。
で、お喋りしてみたら面白そうな奴だし、色んな花を咲かせることができるんなら、屋敷の花壇の世話とかしてもらったら便利かなって思ったのよ。
で、通いの庭師ってことで、好きな時に来て、適当に花を咲かせて頂戴って言ったの」

「そう。つまり今がその『好きな時』で、『適当に花を咲かせに』来たってわけよ」

と、不貞腐れた幽香が言葉を続けた。しかし咲夜に幽香の声が耳に入っていたかどうかは疑わしい。何故なら暢気な主の言葉に、目に見えて咲夜が狼狽していたからである。
どうやら自分の知らないところで屋敷の管理について変更がなされていたことに、メイド長としてのプライドが痛く傷ついたらしい。

「ええっ? そんなこと、今初めて聞きましたよ! お嬢様!」

慌てる咲夜に、レミリアは訝しげな表情をして憮然と言う。

「当たり前よ。さっきも言ったけど、コイツが来た時は咲夜は屋敷にいなかったんだし、私も今初めて咲夜に言ったんだもの。
そもそもこの話だって、今の今まですっかり忘れていたのだし……!」

と、そこまで言ってレミリアがポンと手を打つ。何か思い出したらしい。それに怯えたように咲夜の表情がさらに引きつる。
こうなってしまうと、移り気な主の一挙手一投足に過剰に反応してしまうらしい。

「そうそう! 咲夜に叩き出されないようにって、招待状の代わりになるようなものを貴女に渡してなかったかしら?」

埃を払うのは諦めたらしいが、それでもしつこく自分の髪の毛を気にしている幽香に、レミリアが尋ねた。前髪を弄りながら拗ねたように顔を顰めていた幽香だったが、

「ええ。確かに頂いたわ」

と言ってスカートのポケットから何かを取り出して、顔の前でヒラヒラと振って見せた。それは上等のシルクで織られたハンカチであった。そして、それを見て咲夜が再び悲痛な声を発する。

「ちょっ……、それはなくなったと思ってたお嬢様のハンカチじゃないですか!? そんなのがあるなら始めから見せてくださいよ! それならこんな面倒なことにならなくて済んだのに!?」

叫ぶ咲夜を見て幽香が渋面を一転させる。意地悪くニヤリと口の端を歪めると、まるで恋する乙女が照れを隠すようにわずかに目を伏せ、頬を押さえて身を捩る。

「だってぇ、あんまりメイドさんが面白そうな人だったからぁ、ついついからかいたくなっちゃってぇ」

「……ちょ、そんなどうでもいい理由で、私は酷い目に合わされたっていうんですか?」

幽香の言葉と仕草に、「ピクリ」と咲夜のこめかみに青筋が浮き上がる。瞳に幽香と対峙していた時の剣呑な光が戻る。
咲夜の指が何処からかナイフを取り出そうと、這い回る蜘蛛の足のように不気味に動く。

だが、咲夜がナイフを構えるよりも早く、レミリアが口を開いた。幽香の言葉に頷きながら言う。

「貴女のその気持ち、判らなくもないわね」

「お嬢様!?」

思わぬレミリアの援護に咲夜が悲鳴をあげる。
今までのレミリアの言葉で最もショックが大きかったらしくカクンと首を後ろに投げ出し、空に浮かぶ満月のように口を開け、
咲夜は完璧なメイドの表情をかなぐり捨てて本気で打ちひしがれる。
見るものが見れば、虚穴のようにポッカリと開いた口から魂の細い尾が、長く彼岸の方へと棚引いているのが見えたことであろう。
しかしレミリアは、隣で魂消て動かない咲夜を構うことなく言葉を続ける。

「確かに咲夜は完璧だから、色々と困らせたくなるわ。でもね……」

そう言ってレミリアは固まったままの咲夜の首根っこに抱きつくと、牙を立てずに咲夜の形の整った小さな耳を甘噛みした。

「おっ、お嬢様!」

いつもの落ちついた対応を彼岸に忘れてきたのか、意識の空白に不意打ちを喰らい、咲夜が珍しく頬を赤くする。
慌てて主の蛮行を止めようと腕を伸ばすが、レミリアはスルリと腕をかわして咲夜の反対側の耳朶に喰らいつく。

「咲夜は私の『モノ』なの」

「ちょっ……! お嬢様っ!」

絶句するメイドのなどお構いなく、レミリアは紅い唇と舌で咲夜の耳たぶの柔らかさを好きなだけ味わう。
最後にゆっくりと耳の端から端までを舐め上げ、満足したように妖しく微笑えみ、幽香に流し目を送る。

「だから、あんまり咲夜にチョッカイかけるんなら……」

その大きな血色の瞳に、紅い光が瞬いている。

その光に、恐れにも似た快感、歓喜が幽香の背を駆け上る。

「……貴女、殺すわよ?」

ゾクリと、幽香の肌がわずかに粟立った。

レミリアの言葉の響き、瞳の光に、幽香は目の前の幼い姿をした吸血鬼の強迫観念にも似た執着を感じた。

それは鮮血の香のように、濃密な生を喚起させるもの。

それは、風のように何にも拘わらずただ花の咲くままに幻想を漂う幽香が、永い時の何時か何処かで置き忘れてきたものである。

それを目の前の紅い悪魔に感じる。

執着を持たない幽香は、その欠落の故にレミリアの裡の執着の強さ、業の深さを感じ取ることができる。

だからこそ、運命さえも操ると恐れられる幼子の姿をした吸血鬼を、幽香は可愛らしく思えた。従者と戯れるレミリアを、面白いと感じた。

永い永い時を生きながら未だに『生きている』吸血鬼に、幽香は郷愁を感じた。 勿論そんな内心をわずかも見せることなく、幽香は道化て首を竦めてみせる。

「そんなおっかない目で睨まないでよ。けれど、まあ、安心して、お嬢様。誰も貴女のお気に入りをとって食べたりしませんから」

「当たり前よ!」と言って、レミリアが一層咲夜の首にしがみつく。咲夜がレミリアの頬に手をおいて押しやろうとするが、再びレミリアは器用にその手を掻い潜り、咲夜に頬ずりする。

「貴女に食べられるくらいなら私に食べられるでしょ! ねっ! 咲夜!」

「……お嬢様。お戯れが過ぎますよ……」

無理矢理頬をくっつけるレミリアの頭をガッシと捕まえて、ゆっくりと引き離しながら、咲夜は漸く完全で瀟洒なメイドの顔に戻る。
そうして何事もなかったかのような素知らぬ顔で襟を正して、膨れっ面のレミリアとニタニタ笑う幽香を交互に見やる。「何か椿事でもありましたか?」と無言で言っているのかもしれない。

そして呆れたように言う。

「人を晩御飯みたいに言わないでくださいよ。お二人とも妖怪で、私は人間なんですから、平気な顔してますけど、これでも結構怖いんですよ?」

そんな咲夜に幽香が小首を傾げて微笑む。何もかもお見通しだといわんばかりである。

「白々しいわよ、メイドさん。そんなこと言ったって、誰も信じるわけないじゃない?」

無理矢理に引き離されたのが不満らしく頬を膨らませていたレミリアが、肩を竦め、ジト目で咲夜を見た。呆れて言葉がない、とでも言いたげな風情である。

「嘘ばっかり。咲夜、あんまり嘘ばかり吐いてると、何時ぞやの小言ばかりの閻魔に舌を抜かれるって話よ」

そう言って二人の妖怪は、同じようにニヤリと笑った。

そんな妙に息の合った二人の様子を見て、咲夜はゆっくりと空を仰いで、わざとらしいくらいに悲しげな声をあげた。

「そんな〜。信じてくださいよ〜」

そんな完全で瀟洒なメイドの悲痛な声は二人の耳に届くことはなく、紅い大陰を抱く紅い大空に広がり、溶けて消えた。

「で、お嬢様としてはどんな花をお望みなのかしら?」

「……う〜ん、そうねえ。……ねえ、咲夜は? 咲夜はどんな花がいいと思う?」

「……そうですねえ。私はお嬢様が選んだ花でしたらなんでも構いませんわ」

「それ、質問の答えになってないわ、咲夜」

場所は変わって紅魔館の客室。レミリアと幽香が差し向かいでティーカップを傾け、二人の傍らで咲夜が給仕をする。

二人の妖怪と一人の人間を、いつものように大窓から差し込む紅い月が照らす。

まどろみの最中に起こされたレミリアは、未だ眠そうな様子でティーテーブルにだらしなく肘をつき、咲夜が給仕するケーキを気だるげに突いている。
フォークを運ぶはしからクリームをポロポロと零しドレスや口元をクリームまみれにするレミリア。そんなだらしない主に小言を言いながらも汚れを甲斐甲斐しく拭う咲夜。
そんな主従の姿を横目で見ながら、幽香は唐突に手を打った。何かに気づいたということを示すジェスチャーなのであろう。
その音にレミリアと咲夜が疑問符を浮かべ、幽香を見る。幽香は二人の顔を交互に見、自分に注意を向けたことを確認すると口を開いた。

「そうそう。お招き頂いたのに何も持たずに来るのも無作法でしょう? だから、花を持ってきたのよ。
……そうねえ、メイドさんに差し上げようかしら? 仕事の邪魔したお詫び、とでも思って頂戴。ほらほら! 両手を出して」

「はあ。こうですか?」

怪訝な顔で咲夜が両手を差し出すと、幽香はまるでそこに花束があるかのように抱えた両手を差し出す。

「はい」

「あら!」

「おおっ! 咲夜みたいねー」

両手を出した咲夜が頓狂な声をあげ、テーブルに突っ伏していたレミリアが目を輝かせて飛び起きる。
何も無い空間から、差し出した咲夜の手の中に大輪の花を咲かせた向日葵の花束が現れたのである。

「お近づきのしるしとして受け取って頂戴。私の一番好きな花なの」

二人の反応に満足したように頷き、満面の笑みを浮かべて幽香が得意げに言う。

咲夜は何となく呆っとした表情で手の中の向日葵を見つめていたが、しばらくして気の抜けた声で言った。

「はあ。向日葵ですか。便利ですよね、向日葵の油って」

丁寧にケーキを切り分けながら「即物的ねえ」と、幽香が呆れた声をあげる。レミリアとは違いクリームを零すこともなく、ゆっくりと紅いショートケーキを味わう。

「どうしてそういう発想になるのかしら…… まあ、メイドの鑑ではあるわね」

レミリアはテーブルに置いた両腕に顎を乗せ、咲夜の手の中の向日葵と睨めっこしていたが、何か面白いことを思いついたらしく勢いよく顔を上げた。
そうして優雅にティーカップを口に運ぶ幽香に向かって、声を弾ませて言う。

「ねえ! 紅い向日葵なんて面白そうじゃない!? 花壇一杯に紅い向日葵を咲かせてよ! 『フラワーマスター』っていうくらいなんだから、それぐらい夕餉の前でしょう?」

「……お嬢様。それだと今の花壇と大して変わりませんわ」

向日葵を活ける花瓶を探しにいこうとしていた咲夜が苦笑を浮かべる。そんな咲夜の言葉に腕を組み、不満げに眉根を寄せレミリアが言う。

「そうかしら? おんなじ紅い色でも、やっぱり花が大きいと見た感じも変わると思うんだけどなぁ」

「多分、数が増えると、一つ一つの花の違いなんて大したことなくなりますよ」

気がつくと何時の間にか向日葵を活けた花瓶を部屋の片隅に飾り終え、咲夜が再びレミリアの側に控え、静かに答えている。

そんな二人を、幽香はどこか眩しそうに見つめる。口元が自然と綻び、いつもの幽香とは違う穏やかな笑みが浮かんでいる。

「……何となく、貴方達が主従関係だってのがわかった気がするわ」

幽香が言う。その言葉はどことなく優しげで、先程までの巫戯けた響きは微塵も感じられない。

「ん? 何で?」

涼しげな顔をしている咲夜に何か無茶を言っていたレミリアが、幽香の言葉で振り向く。

不思議そうな顔で、不思議そうな声を出すレミリアに、幽香は軽く微笑んだ。何者も見通すことができない、いつもの笑みである。そして器用にケーキを切り分けながら言う。

「いえ。別に深い意味はないわ。何となくそう思っただけ」

「? ふぅん、変なの」

レミリアが小首を傾げて、バラバラに切り分けたケーキの一片を頬張る。だがその半分位がフォークの端から転げ落ちて、小さく紅い唇の周りを汚す。

「もう。落ち着いてください、お嬢様」

すかさず咲夜が何処からともなくナプキンを取り出す。レミリアは顎を上げて、咲夜が口の周りを拭きやすいようにする。自分でする気はないらしい。

そんな二人を幽香は観察するように黙って見ていたが、一口紅茶を含んで喉を湿らせ唐突に言った。

「咲かせてあげるわ」

「ふぇ?」

咲夜に口の周りを拭いてもらいながら、レミリアが素っ頓狂な声をあげる。

「向日葵よ」

ナフキンで口を拭い、幽香は少し俯いてゆっくりと言葉を繰りかえす。

「お嬢様のお望み通り、紅い向日葵を花壇一杯に咲かせてあげる」

「どうしたんですか、急に? どういった心境の変化で?」

何時の間にかレミリアの口の周りを拭い終わり、気がつくと幽香のそばで空になったティーカップに紅茶のお代わりを注ぎながら、咲夜が不思議そうに尋ねる。
咲夜は、幽香がレミリアの気まぐれに付き合うとは思っていなかったのである。

「別に。ただ、紅い向日葵っていうのも面白いかな、と思っただけよ」

目を閉じ、注がれた紅茶の香を楽しむと、幽香は一口ティーカップに口をつける。そして静かにティーカップをソーサーで受けると、テーブルに頬杖をついて素っ気無く言った。

「……そうですか。まあ、私としてはお嬢様の気まぐれが叶うので、構わないんですがね。しかし、本当に紅い向日葵なんて咲かせられるんですか?」

咲夜が言う。心配しているというよりも、単に聞いてみただけのようである。その言葉に「あら」と、さも心外と言わんばかりに声をあげ、幽香は咲夜にウィンクを投げる。

「私を誰だと思ってるのかしら? 伊達や酔狂で『花の主』と名乗ってると思う?」

それに咲夜は一瞬の躊躇もなく、頷く。

「ええ。結構、そう思ってました」

幽香はウィンクしたままその目を瞑り眉根を寄せて、何ともいえない複雑な表情で微苦笑する。
そんな顔でしばらく咲夜の顔を見ていたが、ややあって溜息を一つ、紅茶を一口、そして肩を竦めた。

「……まあ、白状すると伊達や酔狂なんだけど…… それでも花壇の一つや二つ、紅い向日葵や青い薔薇ですぐにでも一杯にして御覧にいれるわよ」

咲夜に向かって人差し指をタクトのように左右に振り、得意げに幽香が言う。

それを聞いてレミリアが嬉しそうに手を叩き、弾んだ声をあげる。

「それじゃあ、すぐに紅に新しい花壇を作らせなくっちゃ!」

何か思うところがあるらしく、咲夜はわずかに目を伏せ薄暗い笑みを浮かべると、クツクツと喉を鳴らす。

「そうですね。うちのサボタージュの泰斗には庭一面耕してもらうとしましょう。三日ぐらい筋肉痛で動かなくなるくらい、ね…… うふふ……」

はしゃぐレミリアと冷ややかに笑う咲夜の声を聞きながら、幽香は窓から差し込む紅い月光を望む。
こんなにも紅い夜空なのに、我が物顔で浮かぶ満月はその闇よりもなお紅く澄み渡っている。
どれ程の赤い闇が積み重なり降り積もろうとも、最も紅い月影には到底及ばないのだろう。
どれ程の赤い花々が咲き乱れようとも、真に紅く小さい可憐な一輪の華が霞むことはないのだろう。
それどころか有象無象の赤故に、その華の血色の花弁は一際見事に赤い花園に映えることになるだろう。

「今日の月は、また一段と明るいですね」

いつもの様にレミリアの側に控え、何気なく咲夜が言う。

「ホント。たまには紅くない月も見てみたいわね、咲夜」

そう言ってレミリアは悪戯っぽく微笑む。そんな我侭を乗せたレミリアの笑みに、咲夜は頬を引き攣らせて苦笑を返す。

「流石に私でも月の色を変えるのは、すぐにとはいきませんよ」

落ち着いた咲夜の口調が、その言葉が単なる冗談やハッタリではないということを如実に語っている。

二人のやりとりに耳を傾けていた幽香が咲夜にウィンクをしながら、楽しそうに言う。

「苦労するわね、メイドさん」

からかう幽香に、しかし咲夜は事も無げに返す。ごく当たり前のように。

「そうですか? これで結構、大人になられたんですよ?」

そのあまりの平然さに、幽香から思わず溜息が漏れてしまった。そうして咲夜から顔を背け、何となく悲しげに誰に聞こえるともなく小さく呟いた。

「……心から同情するわ」

咲夜が小首を傾げたが、それ以上尋ねることはしなかった。そうしてまた無茶な我侭を言いながら、ケーキを突いて崩しクリームまみれになっている主の世話へと戻る。

そんな風に甲斐甲斐しく働くメイドの姿を見ながら、幽香は『花の主』として、この紅魔館に咲く華の姿を見てみたいと思った。
そしてその幼き華が思う存分咲き誇ることができるようにと、陰日向にその刃を振るう銀色のナイフの煌きを、もうしばらく眺めていたいと思った。
その為なら完璧で瀟洒なメイド共々、しばらくはこの『お嬢様』の我侭に付き合うのも一興かもしれない、と思っていた。

「ホント、今日の月の紅いこと、紅いこと。もう少し遠慮してもよさそうなのにねえ」

幽香が自分を見ているのを知ってか知らずか、窓から差し込む月明かりを浴び、咲夜は暢気にそう言った。

Fin.

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