Nurse Cafeへようこそ!!(前編)

 薄暗い何処とも知れぬ部屋の中、月の頭脳、八意永琳は悩んでいた。

 彼女の周囲には、あらゆる出来事を記憶し、あらゆる計算を成すといわれる、月の技術の粋を集めた式神、神脳「オモイカネ」の複合型仮想ディスプ
レイの海が広がっていた。月の叡智から生まれたその海は、穏やかにそして静かに、薄緑の色ガラスのように輝いている。その大海の只中にあり、永琳
はその水面を眺め、悩ましげに眉根を寄せているのだった。

「……ああ、姫様」

 思わずそんな言葉が永琳の口をついて出た。

 陽光を受けて煌く波の如く、時折明滅を繰り返す無数の仮想ディスプレイ。その全てに彼女の仕える主、蓬莱山輝夜の姿が映っていた。

 あるものは今よりずっと幼い顔立ちの輝夜の、穏やかな寝顔が映し出されている。またあるものは入浴中、侍従に水をかけてはしゃぐ輝夜の姿があっ
た。あちらでは勉学に励む輝夜の姿が、こちらでは式典用の華美な装いを身に纏った厳粛な面持ちの輝夜の姿と、部屋を埋める薄緑の光の中、その全て
に輝夜の姿があった。あるものは写真として、あるものはその輝夜の動きや声までも記憶する動画として、薄緑の大海には、あらゆる時のあらゆる輝夜
の姿があった。輝夜の喜怒哀楽、その全てがそこにあった。

「マイ・スゥイート・プリンセス 蓬莱山輝夜のプリティ成長記録」

 フォルダにはそんな名前が記されていた。それは時系列、各種イベント、笑顔や不機嫌な顔など無数のカテゴリを併せ持った膨大なデータ群である。

 月での世話役時代からの、八意永琳のコレクションである。もちろん、このコレクションのこと、オモイカネの半分は永琳の煩悩で満ちていることを、
永琳以外誰も知らない。

 永琳はその無限にも見える輝夜コレクションを見つめ、深刻な溜息をついた。手慰みにファイルの一つを指差す。周囲のファイルを押しのけて、その
ファイルが大きく永琳の前に展開される。それは未だあどけなさを残す輝夜が、撮影者に駆け寄り抱きついて、今日合った出来事を嬉しそうに報告して
いる一場面である。

「……おおっと」

 黙ってその動画に見入っていた永琳が、慌てて鼻を押さえ、上を向いた。後ろ頭をトントンと叩き少し落ち着くと、ふと我に返って今の自分の懊悩を
思い出したようにとってつけたような溜息をついた。

 月の頭脳の煩悩を懊悩させる問題というのは、このコレクションのことであった。コレクションが数、質共に現在伸び悩んでいるのである。その理由
は幾つかあった。月の都ではそれなりに輝夜には周囲からの要請もあり、様々なイベントに出席していたのだが、それらのしがらみがほどんどない幻想
郷に移り住んでからというもの、輝夜の行動範囲が月に居たころに比べ、格段に狭まってしまったのである。ほとんど永遠亭から外に出ることがなくな
ってしまった。それでも永夜事変、つまり人間と妖怪のコンビが永遠亭に殴りこんでから、その傾向は改善されつつあるのだが、一度ついた不精は中々
抜けないらしい。今も輝夜はどこかに出かけるというわけでもなく、日がな一日、竹や蓬莱の枝の成長とウサギたちの戯れを眺めて過ごしている。

 そうするとどうなるか。実に同じような、単調な生活場面しか撮影することができなくなってしまった、つまり中々刺激的な映像をコレクションにく
わえることが出来なくなっていたのだ。

「本当、由々しき問題だわ。早急に何とかしないと、そのうち退屈で死んでしまうかも……」

 あらゆる毒ですら殺しきることの出来ない不死の身にあって、退屈と言うのはその魂魄を蝕む猛毒なのかもしれない。少なくとも永琳にとって、重々
しい溜息が止まらなくなるくらいの効果はあるようだ。

 さて何かいい案はないものかと小首を傾げた永琳の視覚の片隅に、ある一つのフォルダが目に止まった。

 フォルダの名前は、「USAGI」。こちらは鈴仙・優曇華院・イナバと因幡てゐの記録である。無論、二人とも幻想郷に来てから撮影したもので、月都市
ほどの高度な設備を持たない幻想郷では、輝夜のファイルより容量は小さい。

 永琳はUSAGIファイルを開いた。それでもあたり一面を覆うように、ウドンゲとてゐのファイルが展開される。

 そんなファイルの波間を、永琳の視線は退屈そうに泳いでいた、ゆるゆると虚ろに彷徨うばかりのその視線は、しかしある一つのファイルを通り過ぎ
たところでピタリと止まった。ゆっくりと何かを確認するように、永琳が視線を戻し、そしてやおら身を乗り出した。そしてその画像ファイルを穴の開
くほどマジマジと見つめた。

 しばらくすると、表情を失くし目を皿のようにし、身じろぎもせず見入っていた永琳の口元が、ゆっくりと弧を描いた。

「……フフフッ。これよ、これ。これならば素晴らしいコレクションになるわ。……全く、今日ほど自分の天才が恐ろしいと思ったことはないわ……」

 押さえきれぬ喜悦が声となり、永琳が誰にともなく呟いた。

 永琳の視線の先。そこには何時ぞや戯れで着せた、(外の世界で言う)看護婦姿のウドンゲと、メイド服を着たてゐの姿があった。

「喫茶店?」

 輝夜が永琳の口から発せられた言葉を鸚鵡返しした。

「そう。喫茶店です」

 永琳が念を押すように、はっきりとした発音で繰り返した。

 それはある日のいつもの永遠亭での事。例によって例の如く、まどろみに似たぼんやりとした午後の時間を過ごしていた輝夜が、これまた何時もの如
くの戯れに「退屈ね、永琳。何か永の無聊を慰むものはないかしら?」と言ったことに端を発する。

 何時もならば永琳も他愛のない、中身もないようなことを言って二人で笑いあうのが常なのだが、今日の永琳はえらく具体的な話を持ち出して、言い
出した輝夜を驚かせた。

「喫茶店ねぇ。……確かに面白そうではあるけれど、こんな妖怪のウヨウヨするよう、迷いの竹林の奥まで人間が来るかしら?」

 輝夜が不審げに呟く。輝夜の疑問は尤もである。吸血鬼の住む紅魔館や冥界にある白玉楼に比べ、永遠亭は比較的人間たちから、距離的にも心理的に
も近い場所にあるといえる。だがそれでも、踏めば二度とは戻れないと長い間言い伝えられてきた竹林の奥までノコノコやって来る物好きが多いとはい
えない。だから商いを成立させるだけの顧客を呼ぶことは、難しいだろう。

 しかしそんなことは、輝夜と共に永遠亭に住んでいる永琳も百も承知である。

「集客の件についてはオープン前に山の天狗に頼んでビラを撒いて貰います。くわえてそのビラにはサービスチケットをオマケにつければよろしいかと。
また迷いの竹林から永遠亭までの道のりについては、てゐに命じてウサギたちによる送迎を行います。あとはそれらを統括する警備隊長でもつければ、
問題はないでしょう」

 永琳がすかさず澱みなく答えた。そしておもむろに懐から、いつの間に作らせたのか、件のチケットらしきものが記載された「文文。新聞 特別号」
のゲラ版をヒラヒラさせる。

 その周到さに呆れ輝夜が苦笑いを浮かべたが、やおら腕を組んでさらに頬をキュッと吊りあげた。

「まあ妹紅を使おうっていうのはいいわね。アイツなら間違いなく暇でしょうし、なんだかんだ言って真面目に仕事するだろうしね。けど、そこまでし
たとしても、それでも人が来るのか心配ではあるわね」

 退屈するよりは騒がしいほうがいいのだろう、なんだかんだと言いながら輝夜も乗り気である。そんな輝夜の疑問に、永琳は静かな自信に満ちた笑み
を浮かべる。その笑みは水も漏らさぬ備えを既に用意していることの証左である。

「その点はお任せを。ここにしかないような、そんな目玉を用意すればいいのです」

「で、その目玉っていうのは?」

 幼子のように期待に目を輝かさせて、輝夜が身を乗り出す。永琳もそんな風に催促されて、満更でもないらしい。

「ウドンゲ、入ってらっしゃい」

 芝居がかった大仰な仕草で手を叩き、廊下に控えているらしい自分の弟子に向かって声をかけた。ややあって、ソロソロと襖が開けられる。隙間から
見慣れた、ヨレヨレの付け耳が姿を見せた。

「……し、師匠ぉ。……本当にコレじゃないと駄目なんですか?」

 そして情けない声と共に、恐る恐ると鈴仙・優曇華院・イナバが顔を出した。しかし両手は襖をしっかりと握っており、はっきりと座敷に上がること
を拒んでいる。

「当たり前でしょう。何のためにお前に着てもらったんだと思ってるの? さ、ウダウダ言ってないで入ってらっしゃい」

 ウドンゲの情けない顔に襖から離れる気配のないことを見て取り、永琳は少しばかり苛立たしげに声を上げた。その声にウドンゲがビクリと身を竦ま
せる。ブルッと付け耳が、弱々しく左右に揺れた。

「……ううっ。分かりましたぁ……」

 そう答えると俯いた顔が何故か茹った人参のように真赤になった。しかしその理由は、僅かの躊躇の後、これ以上粘っても事態が好転することはない
と諦めたウドンゲが渋々と襖から体を引き剥がし、ソロソロと二人の前に姿を見せたことで判明した。

「おおっ! これは何と破廉恥な!」

 ウドンゲの姿に、輝夜が思わず声を上げた。

「完璧よ! 永琳! これならばかの古道具屋ですら籠絡することができるでしょう」

「感謝の極み」

 輝夜が元気良く親指を立て、永琳が芝居がかった仕草で仰々しく頭を垂れた。

「しっかし、本当に破廉恥極まりないわね、この服。何、何で服着てるのにこんなんなの。むしろ裸の方が清々しいわ」

「全くです。因みに、製作総指揮はアリスにお願いしました。流石、人形師。人型の服装ならば、何でもござれでした」

「にしてもこれは業が深すぎるでしょう」

 そう言って二人がかりで、スカートの裾を掴んでモジモジしているウドンゲの姿をマジマジと見る。

 輝夜が破廉恥の権化と呼んだ、今正にウドンゲが着ている服装。それは外の世界で言うところの看護師が着る白衣であった。ただウドンゲが着ている
白衣は、通常の白衣の定義から随分と逸脱しているといえる。ピッチリと体に密着するように作られているのは、体のラインが露になるようにという意
図を持つのだろう。さらに胸元には深くVの字に切れ込みが入れられており、危険なまでに開け放たれている。スカートの裾は極限まで切り詰められ、
惜しげもなくその太腿を晒していた。その姿は、最早目のやり場に困るというレベルをブッチギリに超えていた。輝夜が破廉恥の権化と呼ぶのも、仕方
のないことと言えるだろう。

「……お、お二人とも……そんなに見つめないでください……そ、その……は、恥ずかしい……です」

 ウドンゲは羞恥に耐えようと下唇をキュッと噛み、切り詰めたスカートの裾をギュッと掴んで力一杯下げ、自分に注がれる二人の不躾な視線から剥き
出しの太腿を遮ろうと頑張った。しかし元々丈を切り詰めているので、そんなことをしてもほとんど効果がないのは一目瞭然だった。その辺りは気分の
問題なのだろう。

「何も恥ずかしがることはないわ。とても良く似合っているわよ、ウドンゲ」

 永琳が穏やかな笑みを浮べ、優しげに言った。

「……褒めていただいても、あんまり嬉しくないですよぅ……」

 妙な優しさよりは、むしろの輝夜のような言葉の方が幾らもマシなのだろう。真赤な瞳を潤ませて、ウドンゲが鼻にかかった声を上げた。

「成程。店員にこの破廉恥極まりない服装を着せて、客を呼び込もうということね」

「……破廉恥、破廉恥って何度も……目の前で私が着てるのに、酷いです、姫様」

 ウドンゲの羞恥など何処吹く風と、一人納得したように頷く輝夜。そんな輝夜に、ウドンゲは両手を握り締め、ブンブンと上下に振って抗議するが、
もちろん輝夜がそんなことを気にするはずもない。悔しそうに輝夜を睨むウドンゲが、ふと視線を感じて振り返った。そこには「お前の気持ちを分かっ
ている、任せておけ」とでも言うような永琳の表情があった。そうしておもむろに輝夜の表情を一変させる言葉を放った。

「それだけではございません。この衣装、姫にも着てもらいます」

「わ、私も! こんな破廉恥なのを着るの! 何でよ! イナバたちだけで十分じゃない!」

 今度は輝夜が駄々っ子のように腕を振って暴れるが、「そういうわけには参りません」と、永琳が鹿爪らしい顔で、凛とした声で説明を続ける。

「高貴かつお美しい姫が、まさに奉仕精神の具現ともいうべき白衣に身を包み、誠心誠意お客様に尽くすことにより至上の幸福を味わっていただく。こ
れこそがこのナースカフェの真の醍醐味なのです」

「えぇ〜! こんなの着たら色々と見えちゃうじゃない」

 ウドンゲの「色々と」見えている部分を的確に指差しながら輝夜が言うが、永琳は悠々と頭を振る。

「大丈夫ですよ、姫。この衣装は『見えそうで見えない』ように、八雲藍によって計算・設計されております。だから安心して着て下さい」

「嘘だっっ! 絶対これ見えてるでしょう!」

 輝夜が思わず声を荒げた。それも当然である。誰がどう見ても、ウドンゲの格好は見えそうで見えないチラリズムが許される一線を、遥か後方におい
てけぼりにしているようにしか見えないのである。

 もちろん、その程度のことで永琳が怯むはずもない。おいでおいでと輝夜を手招きすると、二人してウドンゲの膝元からスカートの中を覗き込む。

「いえいえ、姫。本当ですよ、見えているようですが、ここから覗き込んでいただくとですね……」

「……本当だ。何故か見えない……」

 頬を膨らませて不貞腐れていた輝夜だったが、不承不承と永琳と並んでスカートを見上げると、途端にその怒気を忘れてしまった。

 永琳の言うとおりだった。これだけ短く切り詰められたスカートであるにも関わらず、目の前から見上げても、如何なる摩訶不思議の故か、その中身
は絶妙の確度でもってスカートの裾によって守られていたのである。

「ええ、この絶妙の角度には、膨大な演算と妥協のない匠の業が施されておりますから」

「……こういうのを技術の無駄遣いって言うんでしょうね」

 そんなことを話しながらウドンゲの周りをグルグル回り、スカートを見上げる二人。

「……って二人で足元を覗き込まないでくださいっ!」

「……と、この服装のスペックも説明したところで……」

 ウドンゲの批難など何処吹く風と、永琳は十分とその仰望を堪能するとスッと身を引いた。そしてこちらも恥らうウドンゲなど気にした風もなく、
「おおっ!」とか「うわっ!」などと細かく驚嘆の声を上げている輝夜の肩を、何の気なしに叩いた。

 覗き見に我を忘れていた輝夜が、肩を叩かれハッと我に帰った。そうして疑問符を浮かべて振り返る。背後には、どこか禍々しい紫色のオーラを纏っ
た永琳の満面の笑みがあった。

「ささっ、この服の鉄壁のガードも十分ご理解いただいたようですし、そろそろ姫も着てみましょう」

「ちょ、ちょっと! 『着てみましょう』って、見えなくても破廉恥なのには変わりがないんだから私が着るわけないでしょう! って、こら! 何勝
手に服を脱がそうとしてるの!」

 永琳の手を振りほどこうと輝夜が身を捻るが、まるで張りついてしまったかのように永琳の手は離れない。そんな風に永琳に気を取られていると、何
時の間に近づいたのか、ウドンゲが輝夜の着物の裾を掴み、無理矢理脱がそうとし始めていた。

「何仰ってるんです! これは姫様専用に特にあしらえたものなのですから、是非とも着て頂かないと! それに私だけ貧乏くじを引くのは嫌です!」

そう叫ぶウドンゲの手にはどこから取り出したものか、自分が着ているナース服とは違う、ゴテゴテと総称をつけている割に、あちこちに軽量化でもは
かっているのか、デザインを重視した穴の開いた、ある意味では裸でいるより恥ずかしいようなナース服が握られている。

「それが本音かぁぁ!」

 前門の天才、後門のイナバである。

「うおぉぉ! 誰がそんなもん着るかぁぁ!」

 永琳を肩に裾にウドンゲをはりつけ、そのまま輝夜は座敷から逃げようとする。その力は、そのたおやかな体の何処にあるのかと思うほど。それほど
このナース服を着るのが嫌らしい。しかしそんな抵抗も長く続かない。

「逃がしません、逃がしはしませんよぉ!」

 ウドンゲが裾から手を離し、輝夜の華奢な腰に組み付き、そのまま畳に押し倒してしまった。

 それでも畳み目に爪を立て、乱心した天才とその弟子を背負い、輝夜は廊下へと続く襖目がけて必死に這いずる。

「ぬおおおおぉぉぉぉ! きいいぃぃるううぅぅもおおぉぉのおおぉぉかああぁぁ」

「逃がしませんよ、姫様! 姫様にもこのこっぱずかしい衣装を着ていただくんです!」

 色々と見えているのだが、最早そんなことなど一片すら気にしていないらしい。あられもない姿をしたウドンゲが輝夜の逃亡を阻み、無理矢理服を引
っぺがしていく。その行いはまるで追剥のようだが、二人とも似たような姿なので、どちらが加害者で被害者なのか見分けがつかない。

「そのガッツよ! ウドンゲ! それでこそ私の弟子! さあ姫も制服を着て、レッツ労働!」

 声援なのか何なのかよく分からない無責任な声をかけている永琳は、何時のまにやら一人乱闘の輪から離れ、二人のキャットファイトを観戦していた。
自分から乱闘を起こして置きながら、気楽なものである。

 永琳がお気楽を満喫している間も、ペットとその主の戦いはあっという間に決着に近づいていた。マウントポジションをとったウドンゲが次々と輝夜
が着ている服を引き剥がしていく。

「さぁ姫様! もう直ぐ、もう直ぐ、これを着て頂きますからねぇぇ!」

「おのれぇぇ! この馬鹿師弟がぁぁ!」

狂気の瞳に正気を失くし狂喜に喉を震わせるウドンゲの絶叫と、されるがままに蹂躙される輝夜の呪詛の声が、永遠亭の妖怪ウサギたちを震え上がらせ
たのは言うまでもない。

 それはある日のいつもの博麗神社。霊夢がいつものようにサボる合間に境内を掃除していた時のことである。いつものように掃除もそこそこに、境内
で茶を啜る霊夢の元に、いつものように必要以上に元気な声で、普通の魔法使い、霧雨魔理沙が現れた。

「霊夢ー! 今暇か。否、暇だよな。否、否、暇に違いない」

「あによ? 見て分かるでしょう? 御覧の通り私は忙しいの。何? 暇ならどうだって言うの。何か手伝えってんなら、出すもん出してからにしてよ
ね」

 一人で捲くし立て、腕を組んで一人で納得しだした魔理沙に、霊夢は入れたての茶すら一瞬で冷ましてしまいそうな冷ややかな半眼を投げた。それで
も来客分の湯呑を差し出すのは、招かざる千客万来が現れる神社の習い性故なのだろう。

 そんな霊夢の反応など気にならないのか、否、そんなあからさまな様子にすら気づかないのか、魔理沙は差し出された湯呑を掴み、チビリと熱い茶を
舐めると、霊夢が聞きいたこともないような単語を口にした。

「ナースカフェにいこう!」

「何よそれ? 茄子か笛?」

「ズズッ」と音を立て茶を啜り、霊夢が小首を傾げ、疑問符を浮かべる。霊夢の脳裏には見事にその身を太らせた茄子とお囃子で使うような横笛が、右
に左にユラユラ揺れる天秤に乗せられ、釣り合っているイメージが浮んでいた。

「ちゃうちゃう」と魔理沙が手を振り、一つ一つ言葉を区切ってもう一度その耳慣れない単語を発音した。

「ナ・ア・ス、カフェだぜ。私もよく分からんのだが、竹林の兎小屋がまた何か始めたらしい。面白いものなら混じって、つまんなかったら野次りに行
こう」

「そこは何するところなのよ?」

 さり気なく無茶苦茶な魔理沙の言には既に馴れている霊夢が、本来ツッコむべき所を無視して魔理沙に尋ねる。

「ズズッ」と音を立てて茶を啜り、魔理沙が素知らぬ顔で答えた。

「うーん。色々あるみたいなんだが、色々すぎてよう分からん。だから行ってみよう」

 パリパリと小気味の良い音で煎餅を齧り、霊夢が呆れて顔をしかめる。

「それじゃあ、その、何、……なあすかふぇ、だっけ? それは何をしてるのものなのか、まったく分からないわよ」

「だからそう言ってるじゃないか」と魔理沙が今更何を言っているんだという風情で答え、「だから行くんじゃないか」と付け加えた。

 あっけらかんとした魔理沙に、霊夢は溜息を吐く。

「……まあいいわ。境内の掃除も大方終わるところだし。あんたに付き合ったげるわよ」

 境内を見渡して、霊夢が不承不承と頷いた。

「嘘をつけよ」

 バリボリと煎餅を鳴らしていた魔理沙が、間髪入れずに切り返す。霊夢の片眉がピクリと動いた。

「何がよ?」

 決め付けるような魔理沙の言葉に、ムッとした表情の霊夢。そんな霊夢に、魔理沙は何でもお見通しだというようにニヤリと片頬を歪める。

「お前、ナースカフェ、結構気にしているだろう。あとな、境内の掃除がすぐ終わるわけないだろう。否、否、終わるはずがないんだ。何せお前の神社
なんだから」

 霊夢に倣い、魔理沙も神社の境内を見回す。そこはお世辞にも掃除をしたとは呼べなかった。強いて掃除を行った痕跡を探すというのならば、とって
つけたように境内の端に集められたささやかな塵山くらいのものであろう。その塵山にしても、境内の広さに比べれば、あまりにも小さいといわざるを
えない。

 そんな様を見て魔理沙はクックッと笑う。そして齧っていた煎餅の残りを口に放り込んで、盛大にバリボリと音を鳴らした。

「いいのよ。見苦しくない程度に掃いておけば。どうせ風が吹いたら、すぐにまた掃除しなけりゃならないんだし」

 当然の言われようにも、霊夢は気にした様子もない。飄々としたものである。そして一度大きく伸びをして大儀そうに立ち上がり、二人分の湯呑と茶
請を盆に乗せると、神社の奥へと戻っていった。

「なら、決定だな。いぇいいぇいいぇいいぇいいぇい! ナースカフェへ! だぜ!」

 その背に向かって、魔理沙はウキウキと弾む声をあげた。

 この後、地獄を見ることになろうとは、この時の二人に知る由もなかった。

 竹林を抜けると、そこは地獄だった。

「はぁーい! ナースカフェ・ウサギの病院へようこそ! 私ぃ、受付を務めさせていただきますぅ、ナースゆかりん、十七さ……」

「……」

「……」

 最初からファンタズムだった。

 強烈な先制パンチを食らい、霊夢と魔理沙は口をアングリと開けたまま動けなかった。

「……何やってんのよ、紫」

「……こいつはミゼラブルだぜ」

 ナースカフェ・「ウサギの病院」は迷いの竹林の奥、永遠亭の傍、竹林が疎らでちょうど広場になっているような場所にあった。視界を遮る竹が晴れ
たかと思うと、「ウサギの病院」とポップ調で描かれたケバケバしい看板と、簡単な竹垣を拵え囲んだ広場の中に、竹を基調としたテーブルと、竹を編
んだ意外と座り心地の良さそうな椅子が設えられていた。霊夢と魔理沙がやって来た時、その全ての席が客で埋まっていた。妖怪や女性の姿もチラホラ
と見られるが、ほとんどの客が郷の男たちであった。仕事もせずに昼間っから、男たちはきわどいナース服を着た妖怪ウサギたちの接客を受け、だらし
なく鼻の下を伸ばしていた。

 しかし今はそんな嘆かわしい事態すら、霊夢と魔理沙の認識には入ってこなかった。そんなことよりも今は目の前の、恐いもの知らずの二人ですら脱
兎の如く逃げ出したくなるような知人の姿の方が問題であった。

 八雲の首魁であり、古から幻想郷を見つめ続けてきたその妖怪は、あちこちにゴテゴテとフリルやら飾りボタンやらをつけた、装飾過多なナース服を
着ていた。

 驚きのあまり立ち往生したのではないかと思うほど全く動きのない二人の様子に、余裕に満ち満ちている紫が珍しく涙目になった。いつもの小憎らし
いほど落ち着きはらい何やら妖しげなことを企んでいるような、そんな大物然とした雰囲気は今の紫のどこにもなかった。そしてその想像を遥かに超え
た事態に、霊夢と魔理沙は完全に思考が停止してしまい、表情を失くすばかり。それがさらにこの異常な事態を加速させる。呆然と言葉も無い二人の様
子に、紫の切れ長の瞳にあっという間に溢れんばかりの涙が溜まる。そして抗議するように腕を振り、必死に悲痛な叫びをあげた。

「……な、何よ何よ! あんたたちも似合わないっていうの! 藍や橙や幽々子や妖夢と同じ顔して! どうせ橙みたいに泣き出すんでしょ! 藍みた
いに荷物をまとめだすんでしょ! 絶対そうだわ! 何! それとも幽々子みたいにうっすら笑って何も言わないつもり! 分かった! 妖夢みたいに
いきなり刀を抜いて切りつけてくるのね! ……わ、私だってね、偶にはこんな感じの可愛い格好とかしてみたいんだから! 何、私が可愛いもの着て
ちゃ駄目だって言うの! 所詮スキマ妖怪は、薄暗いところで『フフッ』とか含み笑いとかして表に出てくるなってそういうの!」

「……自分から進んで着たのね」

「……オペラみたいな悲劇だぜ」

 何かのトラウマを刺激したらしい。紫がヒステリックに捲くし立てた。よっぽど色々な人やら妖怪から、散々に言われたのだろう。だがそんなことで
二人が同情やら憐憫やらを感じるわけもない。涙目の紫を見る目はどこか突き放したような、よそよそしいもの。

「そんな目で私をみるなぁ!」

 ダクダクと堤を破った鉄砲水のように勢い良く涙を流し紫が叫んだ。

 泣こうが喚こうが霊夢と魔理沙の態度は変わらないのだが、そんなことを知っていた所で一度流れ始めた涙が止まるわけでもない。

 そんな風に騒々しく(紫が)していると、何事か問題でも起こったのかと、店の置くから三人の元にやって来る人物があった。

「何事かと思えば、霊夢と魔理沙じゃない。いらっしゃい。どうしたの? お化けでも見たような顔して」

 それは今回の奇妙な店舗の発案者であり、ナースカフェの責任者である八意永琳であった。

「……ある意味、それ以上よ」

「……百夜はうなされそうだぜ」

 そう言いながら、頭痛でもするのか霊夢がこめかみを押さえ、余計なものを見たくないのか魔理沙は目深に帽子を被り直した。

 当の紫はというと、何時の間にか竹林の奥で膝を抱えていた。あまつさえ地面に「の」の字など書き、「かっわいいよ、かっわいいよ……」などとブ
ツブツと呟いている。完全に現実から逃避していた。

「ああ。最初はモニターとして来てもらったんだけど、ナース服をやけに気に入っちゃったみたいでね。それで衣装を着せるかわりに、受付をお願いし
てたの」

 いじけている紫の背中を一瞥し、永琳が言った。いじけた背中など見慣れているのか、全く平静さを失わない。

 そんなすまし顔の永琳に目をやり、そこでようやく気がついたのか、霊夢が急に眉をひそめた。

「……そういやアンタも随分と珍妙な格好をしてるわね」

「そんなに丈が短いと、色々と見えて困るだろうに」

 魔理沙も思わず苦笑をもらす。

 永琳の姿も、紫や辺りで給仕をしている妖怪ウサギたち同様、霊夢曰く「珍妙」な格好をしている。それは外の世界で言うところの、女医の格好であ
る。しかしその衣装もどこか偏ったイメージを元に、褒められたものではない幻想を加味した姿だった。

 三角形のレンズが嵌まったメガネ。胸元には聴診器。意味もなくバインダーに問診表を手挟んで小脇に抱えるというような、そんな小道具類はまだマ
シなほうだった。問題は魔理沙の言うように、回りのウサギたちと同じく危険なまでに丈を切り詰めたスカートである。白磁のように白く透き通り、絹
のような肌理をもつ太腿を晒すその姿は、妖艶を過ぎ越し最早目の毒に近い。猛毒である。僅かでも取り込めば、死に至るのは必死である。

 そんな二人の不躾な視線にも、永琳は動じることはない。スカートの裾を抓み、「ああ、これね」と言うと、何でもないことのように続ける。

「いいのよ。ある意味ではそれが狙いなんだから。ここに来る客のほとんどは、この丈の短さに浪漫やら羞恥心やらその他の諸々を賭けてるんだから」

「……何か、それは救いがないわね」

 霊夢が重い溜息をついた。そんな霊夢に、永琳は嫣然と微笑み、とあるテーブルを指差す。

「そうかしら? 私にはむしろお客様は救われているように感じるけれど。人は現実の中で行き続けることはできない。そう、それがハリボテに過ぎな
いということを承知していたとしても、人は生きていくために幻想が必要なのよ」

 霊夢と魔理沙が永琳の指の先を見た。そして二人して顔を引きつらせた。

 そこには郷の住人であろう青年と、

「ほーら! 足舐めなさいよ! あんたみたいなのは、こういうのが好きなんでしょ!」

 一際華美なナース服に身を包み、入ってはいけないスイッチを全力で押し込んだ感じの輝夜の姿があった。二人とも既に目が彼岸へと飛んでいる。

 それは奇妙な光景だった。給仕であるはずの輝夜が傲岸に顎を反らし胸を張り、尊大にテーブルに腰掛け足を組んでいる。対して客であるはずの青年
はというと、椅子に座るでもなく地べたに這い蹲り、輝夜の足元に跪いていた。

 青年を見下ろし嘲笑を浮かべ、輝夜がパンプスを履いた足を青年の目の前でブラブラと揺らす。見下ろされる青年は、まるで目の前に人参をぶら下げ
られた飢えたウサギのように、揺れる足にぎらついた視線を向ける。

 揺れている足が青年の目の前でピタリと止まり、まるで誘うように爪先がピクリと上がる。それを合図に、青年は誘われるままにその爪先にむしゃぶ
りついた。

「ありがとうございますぅ! 舐めさせていただきますぅ!」

「うわっ! 本当に舐めてるんじゃないわよ! 気持ち悪いわね!」

 輝夜はパンプスにむしゃぶりついた男の頭を、もう片方の足で蹴り飛ばす。自分で舐めろと言ったり、舐めたら舐めたで蹴り飛ばしたりと、一体何が
したいのか分からない。しかし蹴られた当の青年はそれで満足らしく、蹴られながらも喜悦に頬を緩めている。

「もっと! もっと罵ってください!」

 そしてあろうことか、口角泡を飛ばしてそんなことを叫んでいた。

 そんな光景を前にして、霊夢と魔理沙は表情をなくしてただあんぐりと口をあけるしかなかった。その光景はすでに二人の理解の限界を突破していた。

「……何か、見てて悲しくなってくるぜ」

 悲しみを搾り出すように、魔理沙が彼方を向いて呟いた。

「……末期ね」

 霊夢の呆れが音となって口から出た。頬が無意識の間にピクピクと痙攣している。

「末期よ」

 天気の話をするような気安さで永琳は答えた。既に目の前の光景には慣れてしまっているのだろう。

「病人を増産してどうすんのよ?」

 素知らぬ顔の永琳に、霊夢は呆れた視線を移した。

 永琳が肩を竦めた。「勘違いしないでほしい」というジェスチャアのようだ。

「失礼ね。ああやって日常の憂さを晴らしてもらってるのよ? ……まあ、あそこまで堕ちたら、もう抜け出せないでしょうけどね」

「……ここは阿片窟か何かの間違いとちがうんか?」

 魔理沙が胡散臭そうに周りを見て、香を嗅ぐように鼻を鳴らした。

 そんな魔理沙の視界に、また別のテーブルの姿が入ってきた。そのテーブルは一見すると実に和やかなムードに包まれて、先程の見た業の塊のような
有様が何かの間違いかのように感じられる。

 そのテーブルには見覚えのある妖怪ウサギと、痩せた中年の男性が座っていた。

「ねえねえ、お兄ちゃん。これ、これも美味しいんだよー」

 中年の隣の席に座って頬杖を突き、てゐが目の前に広げたメニューの一つを指差した。どうやら和菓子と緑茶のセットのようなのだが、その値段には
何処で発生しているのか定かではないサービス料金がふんだんに盛り込まれていた。高かった。

「じゃあこれ!」

 間髪いれず、男はそれを注文した。だらしなく緩んだ顔についた双眸は、既にメニューに記載された値段が映らなくなっているのだろう。

「あっ! こっちのもオススメ!」

「じゃあこれも注文しちゃおうかな」

 ニコニコと微笑み、無邪気にあっちこっちと指差すてゐに釣られ、男は言われるがままに注文を繰り返す。

 メニューを指差しながらも、てゐは男の注文をイソイソと伝票に記す。しかしその手が不意に止まった。ペンの走る音が止まったことに、男が訝しげ
にてゐの様子を窺う。その気配にてゐが伝票から顔を上げた。

「……ごめんなさいお兄ちゃん。てゐ、伝票間違えちゃった」

 男の顔を見上げたてゐの瞳は、ウルウルと涙で満ちていた。声も少し鼻にかかったような涙声。そして中年に手にした伝票を見せた。伝票には中年が
頼んだメニューの他に、注文されていない別のメニューがいくつか書き足されていた。しかも書きたされたメニューの方が、男が頼んだものより高かい。

「……っ! いいよいいよ! じゃあそれもついでにたのんじゃおう!」

だが中年はわずかも顔をしかめることもなく、かてゐの上目遣いの破壊力の前に胸を押さえて仰け反り、そしてそれを注文するしかできなかった。

「わーい! ありがとう、お兄ちゃん」

 万歳と両手を挙げたてゐの口元に、一瞬だけ嘲笑するような影が差したが、もちろん中年の目にとまることはなかった。

その笑みはこう語っている。

「鴨を見つけたこんな時に、私が伝票を書き間違えるもんかよ」

 と。

「……アイツ、いくつだっけ?」

 てゐと中年の方を指差して、魔理沙が永琳に尋ねた。

「女性に年齢を尋ねちゃ駄目よ」

 永琳が答えにならない返事をした。

「すごい活き活きしてるな。水を得た魚ならぬ、鴨を得た兎か」

 まともな返事などはなから期待していなかったのか、魔理沙は一人納得したように頷いた。

「そう言えばアンタの弟子は? まさか裏方ってこともないでしょうに?」

「きゃあ!」

 霊夢が尋ねるのと黄色い悲鳴が上がったのは、ほとんど同時だった。

 声のしたほうに三人が視線を向けると、一際きわどいナース服を着たウドンゲが、客の前で尻餅をついている姿が見えた。ウドンゲが運んでいたと思
しきグラスは、まるで帽子のように客の頭の上に乗っている。言うまでもなくその中身を客は頭から被る羽目になっていた。

 しかし客は怒っていなかった。否、むしろ怒りを忘れていた、と言った方が正確だろう。客の視線は目の前で転んだウドンゲに釘付けになっていたか
らである。何が起こったのか理解するよりも早く、客の意識は目の前に転がる幸運に浴することを優先したのだった。

「す、すいません。すぐに新しいのをお持ちします。ああっ、じゃなかった! 先に汚れを拭かないと、染みになっちゃう! ……ってどこ見てるんですかっ!」

 慌てて立ち上がろうとしたウドンゲが、客の視線の吸い込まれていく先を目で追って、慌ててスカートの裾をずり下げた。そして反射的に片手で傍ら
の盆を引っつかむと、躊躇なく客の脳天目がけて振り下ろした。振り下ろされた盆は、客の頭に乗っているグラスも叩き割る。パラパラとグラスの破片
を浴びながら、客の体がグラリと前後にゆっくりと揺れる。そして一度ピタリと止まると、白目を向いてゆっくりと後ろに倒れてしまった。

「ああっ! お客様! 大丈夫ですか! く、薬を! ああ、けど早く拭かないと染みになる! ああっ! どうしよう!」

 白目を剥いて倒れた客の前で、ウドンゲが頭を抱えてオロオロと右往左往する。そんな暇があるのなら介抱するなり汚れを拭くなりどちらかを選択す
ればよさそうなものなのだが、そこまで考えが回らないらしい。ただ倒れた客の周りをグルグルと回ることしか出来なかった。

「……あーいうのはお約束っていうんだろうか」

 魔理沙が呟いた。

「お約束ね」

 霊夢が即答し、

「お約束よ」

 永琳があっさりと認めた。

「お約束なのかよ」

 そんな言葉を振り払うように、魔理沙が辺りを見渡す。

 あちこちでナース姿の煩悩の化身と、それに群がる亡者の群れが見える。

「このゲス! ゲス! ゲス!」

「ああっ! 姫様ー」

「ねー、おにいちゃん。てゐ、喉が渇いたのー」

「よーし! じゃあこれを追加で二つだー!」

「きゃ! すいません! ズボンのお尻に穴を開けてしまいました!」

そこはまさしく煩悩の坩堝だった。

魔理沙が珍しく神妙な顔つきで帽子を目深に被り直す。そして度し難いというようにゆっくりと首を振った。

「……帰ろうか、霊夢」

「……そうね。ここは地獄だわ」

 隣で佇む霊夢の肩に手を置き言った。霊夢の言うように、ここは紛れもなく地獄だった。煩悩渦巻く地獄の三丁目に違いなかった。煩悩にとりつかれ
た亡者たちが蠢く魔女の大釜の底に違いなかった。

「あら、もう帰っちゃうの? まだ何も注文してないじゃない? もっとゆっくりしていきなさいな」

 そんな看護婦欲望地獄の只中で唯一人、平生と変わらぬ平静を保っている永琳は、涼しげな顔で二人に言った。ナースカフェの人間とっては、こんな
惨状など日常茶飯事なのだろう。地獄すら住めば都なのだろう。あるいは地獄すら生ぬるいのかもしれない。流石、月から都落ちした月人はタフである。

「遠慮するわ。ここにいちゃ、真っ当な神経が幾らあっても足りないもの」

 対して色々と執着しない楽園の巫女は、狭い空間を満たすどぎつい煩悩にへきへきしていた。疲れたように片手を振る。

「霊夢も巫女ということを活かして何か始めれば、今より信仰は増えるかもよ」

 こりを解すようにグリグリと肩を回している霊夢に、ふと思いついたように永琳が言う。霊夢はその言葉に悪意がないことを確かめるようにジッと横
目で永琳の様子を窺う。そうして当て付けや嫌味の類ではないと判断すると、吐き捨てるように、だが正直に言った。

「嫌よ。客商売なんて面倒臭い」

「そんなことだからあの神社に人が来ないのよ」

 その答えを予測していたのか、永琳は直ぐに切り替えした。永琳の苦笑いに、「別にそれはそれでいいのよ」と霊夢が答える。

「そもそも巫女は商売でやってるわけじゃないんだから」

 そう続け、肩をすくめた。その飄々とした様子は、見栄や痩せ我慢で言っているわけでもないようである。むしろ本気であるからこそ、余計に性質が
悪い。

「巫女喫茶なんて、いいかもしれんじゃないか?」

 魔理沙が霊夢に歯を見せた。

「嫌よ。神社がこんなに暑苦しくなるくらいなら、人が来ない方が何倍もマシよ」

 霊夢は本気で嫌そうな顔をした。その返答の速さは、想像する必要すらなかったことを魔理沙に知らせた。

「そう、残念ね。ま、いいわ。それじゃ、店の者に出口まで送らせるわね」

「それくらい自分たちで帰られる」と、霊夢と魔理沙がそう言おうとした時、既に永琳は送迎役を呼んでいた。

「藤原さん、お客様がお帰りですよ」

 永琳は接客中の一人のナースに声をかけた。

 その名に、霊夢と魔理沙の体が、今日何度目かの硬直を味わった。最後の最後に、最も信じたくない事実を突きつけられたように。

 二人は顔を見合わせる。「何、藤原なんて良くある名前さ。たまたまそういう名の妖怪ウサギがいただけのこと」と、二人して暗黙の了解を交わした。
そうして現実から目を背け、希望を確保したのだ。しかしそれは無駄なことだった

「畏まりました。では、お客様。お帰りは、こち……ら……」

現れたナースの顔を見て、二人の硬直はピークに達した。最後の希望までが打ち砕かれた、そんな絶望に塗れた表情である。余談ではあるが、石化の視
線を持つ怪物の洞窟には、こんな表情で固まった石像がゴロゴロしているそうだ。

 それは相手のナースも同じであった。三人はまるで生き写しのようにソックリな表情を浮かべて、固まった。まるで鏡越しに自分の石化の視線を跳ね
返された化物のよう。

 しばし石像同士の沈黙。ややあって、霊夢と魔理沙は神妙な顔で溜息を吐いた。

「……あんたも一味だったのね」

「……何だか幻滅したぜ」

 霊夢が霊峰富士が火山活動を再開しても鎮火せしめるのではないかというほどの冷たい瞳と言葉を投げ、魔理沙はまた小さく溜息などついて顔を背け
た。

「ちょ! お前ら! 何勘違いしてるんだっ! 私は月のウサギにどうしてもっていわれて、仕方なくだな……」

 恥ずかしさが噴火でもしたのか、藤原妹紅が顔を真赤にした必死の表情で訴えるが、二人の耳には届いていないようだった。否、届いてはいるのだろ
う。

「……そう、皆そういうんだ」

「……いいのよ。趣味は人それぞれだもの」

 しかしその言葉の一片すら信じられなかった。

「変な納得をするな!」

 妹紅が叫ぶが、二人は聞く耳も持たない。そればかりか案内役の妹紅を放っておいて、先にたって竹林の出口へと向かって歩いていく。

「お、おいっ! ちょっと待て! 私の、私の話を聞け! 誤解するまま帰るなよ! ……た、頼む。頼みますから、ちょっとだけでも話を、話を……話を聞いてえぇぇ!」

 情けない絶叫を上げ、妹紅が慌てて二人の背中を追いかける。これではどっちが先導役なのか分からない。

「また来てね〜!」

 その背にかけた永琳の声に、妹紅の上げる声に掻き消され二人の耳に届かなかったのか、それとも届いたが聞かなかったことにされたのか、二人は一
度も振り返えらなかった。

to be continued……

Nurse Cafeへようこそ!!(後編)へ

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