今日という日の永劫回帰 〜Recurring Nightmare

「……また、……今日か」

 気だるそうに布団から体を起こすと、普段穏やかな上白沢慧音にしては珍しく、忌々しそうに呟いた。乱暴に頭をかき、のろのろと布団から這い出す
と顔を洗いに手水へ向かう。水甕から水を桶に注ごうとしたところで、慧音は何かを思い出したようにピタリと動きを止めた。そして何を思ったのか、手に
持つ柄杓で桶の縁を何度か軽く叩き始めた。大して力は入っていないようだったが、五度目に柄杓が桶の縁に触れると、その年季の入った桶に巻かれていた
箍が裂けてしまった。しかし乾いた音を立てて散らばる桶の板を眺める慧音に驚いた様子はない。否、むしろどこか予測していたことのように、ウンザリし
た顔でただ肩を落しただけだった。それから慧音は柄杓の水を別の桶に注ぐと手早く顔を洗い、寝所に戻るとろのろと身支度を済ませ、朝餉を準備するため
に土間に下りた。

そこで再び慧音は奇妙なことをする。ツカツカと竈に歩み寄るとおもむろにその縁を蹴ったのだ。奇妙なことである。しかしほどなくその蹴りの真意が
明らかになった。まるで泰山が鳴動したとでも思ったのか、竈の奥からネズミが一匹、慌てて飛び出してきたのである。慧音は逃げるネズミを目で追い沈鬱
な溜息をつくと、黙々と朝餉の支度にとりかかった。しばらくして朝餉は出来上がったが、二人分あった。作り過ぎたわけではないらしい。その証拠に、朝
食はキチンと二膳、用意されていたからである。そのうちの一つに慧音は箸をつけた。そして慧音が食べ始めて間もなく、膳を用意されていた人物が現れた。

「……もう起きてるか、慧音」

「ああ、妹紅。朝からご苦労様。入ってくれ。それと飯の用意ならそこに出来ている。遠慮なく食べてくれていいぞ」

 慧音の声にそろそろと戸を開けて現れたのは藤原妹紅である。そうしてすでに用意されているらしい自分の膳を見て、不思議そうな顔をした。

「……妙に手回しがいいね。それともただ作りすぎただけ?」

「……ああ、まあ、そんなところだ。気にしないでくれ」

慧音は曖昧に頷く。どうやらそのことについてあまり話したくないらしい。そんな様子を察したのか、妹紅も黙って頷いただけだった。そしてそれ以上
何も言わずに黙々と箸を動かす。妹紅の食べる姿を慧音はしばし箸を休めてぼぅと眺めていたが、食べることに集中しながらも上目づかいに自分の様子を窺
っている様子に気がつき、思わず苦笑した。

「……そうだ、済まないんだが、それを食べたら私の分も片付けておいてくれないか?」

「……? ん、それはかまわないけど……」

 もの問いたげな表情の妹紅に、やはり慧音はそれ以上詳しく説明する気はないらしい。慧音はそのまま心ここにあらずという面持ちだったが、ふと何
か思い出したように付加えた。

「……そう、それと」

「それと?」

 慧音は少しの間、言おうか言うまいか逡巡していた。しかしあれこれと考えることに疲れたのか諦めたように溜息を吐き、その後の言葉を続けた。

「それと寺小屋まで一走り頼む。子供らに今日は休むと伝えてくれ」

 慧音の言葉に、妹紅が箸を止めた。目が皿のように丸くなっている。

「珍しいね。慧音が寺小屋を休むなんて。何か用事でもあるの?」

 顔をしかめ、慧音はガリガリと頭をかいた。

「ああ。少し人と会ってくる」

「へえ。誰と?」

「それは……」

「今日が繰り返す、ですか。それはそれは大変ですね」

 慧音の話を聞いて開口一番、稗田阿求は言った。危機感のないのほほんとした感じは、生まれついての気質なのだろう。しかしその穏やかさが、今の
ささくれだった気持ちの慧音には有難かった。

 朝餉を食べ終わると、後のことを妹紅に任せ慧音は稗田家を訪れた。求聞持の力により代々の稗田家の記憶を引き継いでいる阿求に、自分の陥ってい
る苦境を何とかできないかと助けを乞うたのである。

 朝早くにも関わらず、阿求は慧音の来訪を歓待した。自分の座敷に通すと、阿求は慧音の語る荒唐無稽とも思える話に笑いもせずじっと耳を傾けていた。

「そうなのです。こんなことは今までもなかったので、どう対処してよいのやら皆目検討がつかないのです。そこで阿求殿にお知恵を拝借しようと、突
然の、しかも早朝からご迷惑かと存じましたが……」

「そ、そんな! 頭を上げてください、慧音さん! そんな風にされるほど私は偉い人じゃありませんよ!」

 折り目正しく座し深々と頭を垂れる慧音に、阿求が恐縮したように両手を顔の前で振る。もちろん慧音が譲るわけがない。深く頭を垂れたまま言葉を続ける。

「しかし御阿礼の子である貴女が、このような不躾の訪問を快く迎えていただいたばかりか、二人だけの席まで設けていただいたのです。少なくとも私
には礼を尽くさねばならない義務があります」

 頑として頭を上げる様子のない慧音に、阿求が困り果てたように苦笑いを浮かべた。

「う〜ん。困りましたねえ。そんな風に堅苦しいのは苦手なんですが……。それに慧音さん、私は全然迷惑なんて思っていませんよ。私を頼っていただ
いたことは、むしろ嬉しいくらいなんです。だから私でお力になれることでしたら、幾らでもお手伝いさせていただきたいのです。……ですが……」

 と、そこで阿求が困ったように小首を傾げ頬をかいた。

「ですが?」

 先を続けるのに戸惑っている阿求に、伏した顔をほんの少しだけ上げ慧音が先を促した。その瞳に思わず阿求が顔をそらした。弱々しく打ちしおれた
その瞳を見た時、目の前でかしこまっている慧音が、雨に濡れて震える子犬のように見えたからである。しかしそれほどまでに弱り果てた姿を見なかったこ
とに出来るほど、阿求は器用な人間ではなかった。結局、その視線から逃げられないと悟ったらしく、子犬の視線に真直ぐに向き直ると柳眉をひそめた。

「……はあ。それがですね、今日がずっと繰り返すということについて代々の稗田の記憶には何もないんですよ。それに私自身も見たことも聞いたこと
がなくてですね……」

まだ阿求が何かを喋っていたが、慧音の耳には届いていなかった。否、阿求の言葉に目の前が真っ暗になったような衝撃を受けて、かき消されてしまっ
たのである。そしてその闇に面食らい、慧音は呆然として言葉を失った。

「……そう、ですか」

 それだけ言うと、慧音は全ての気力を使い果たしてしまったように、暗くうち沈んでしまった。失望は漆黒のベールが慧音の全身を包み込み、慧音の
姿をひどく朧気なものにした。

「はい。本当にすいません。折角尋ねていらしてくださったのに、何のお力にもなれず」

 粛々と頭を下げる阿求に、慧音が「頭を上げてください」と言った。

「いえ、いいのです。それは貴女のせいではない」

そしておずおずと申し訳なさ気な顔を上げた阿求に、強いて笑顔を浮かべてみせた。

 阿求はもう一度「すいません」と頭を下げると、力になれないことが余程悔しいらしく、ありったけの知恵を絞り、深い深い記憶の底までさらうかの
ように、腕を組みきつく目を閉じ考え込みはじめた。

「……しかし同じ日がずっと続くですか。ずっと、ずっと、ずっと……」

 咀嚼するように何度も何度も「ずっと、ずっと……」と呟く。しばらくそうして言葉を噛み締めていたが、何かに気がついたらしく、はたと顔を上げ
た。晴れやかな顔には、雲間から射し込む陽光にも似た希望がのぞいている。

「……慧音さん、諦めるのはまだ早いですよ。もしかしたら、あの方なら何かご存知かもしれません」

「それはどなたのことです?」

その希望を照り返したかのように、慧音の表情にも輝きがもどる。そして弾む声で慧音が尋ねた。声には抑えても抑えきれない喜びが溢れている。膝を
乗り出し、今にも阿求に抱きつきそうである。しかし次の阿求の一言が、慧音の喜びに水をさした。

「永遠亭の、八意永琳さんですよ」

 慧音の時が止まった。そして再び動き出した時には、慧音の喜びは肺腑の奥からの溜息となっていた。

「……永遠亭……ですか……」

 複雑な思いで表情を曇らせる慧音に、阿求が穏やかに、しかし諭すように言葉を続ける。

「確かに永遠亭の方々と妹紅さんとの間のわだかまりが、貴女にも引っかかっていらっしゃるかもしれません。けれど今の様子ですと、そのことはそん
なに思い悩むほどじゃないと、私は思います。それに……」

「それに?」

 口ほどに物を言っている顔の慧音に苦笑しながら、阿求は辛抱強く言う。

「それに永琳さんも月の民ということで多少変わった人ですが、悪い人はではないと思いますよ。……まあ、多分に読み切れないところはありますが」

「……確かに、そうですが……」

 阿求の言葉に渋々と頷く慧音。あまり乗り気ではない慧音に、阿求は「私に任せろ」と言わんばかりに小さな拳で反らした薄い胸を「ドン」と叩いた
。ついでに可愛らしくウィンクもしてみせる。

「ご存知でしょう。私は何度も輪廻転生を繰り返してきたんです。ですから人を見る目においては、多少の嗜みがあると思いますよ」

 その芝居じみた仕草に、思わず慧音が小さく吹きだした。それと同時に、肝を括ったのか、あるいは阿求の言葉に折れたのか、先程までの悩みの影が
薄くなっていた。

「分かりました。貴女がそこまで仰るなら、これから永遠亭に言ってみることにします」

「それがよろしいですよ。案ずるより産むが易し、です」

 そう言って阿求はニコリと微笑んだ。

「今日が繰り返すねー。面白いじゃない」

 慧音の話が終わると蓬莱山輝夜が無邪気にそう言い、慧音は鉛色の溜息をついた。溜息の中には、「コイツに話しても仕方がなかったな」という声が
何重にも響きわたっているようだ。

 慧音が稗田家から重い腰をあげたのは、昼を少し過ぎた頃のことだった。稗田家を後にすると、慧音は重い足取りとそれ以上に重い気持ちを引きずり
、今となっては通いなれてしまった迷いの竹林を歩いていた。険しく、まるで苦行者の如き重苦しい空気をまとい竹林を抜けて行く慧音に、竹林の奥から能
天気な声が跳ねてきた。

「あら? 今日はお客さんが多いことで。蓬莱人の次は半獣人とはねー」

 その声に苦笑いを浮べ、慧音が答える。

「全くその通りだよ、てゐ。お前は千客万来でさぞや商売繁盛なのだろうな」

 慧音の言葉に何匹かの妖怪兎を引き連れて、ひょっこりと因幡てゐが生い茂る竹の向こうから顔を覗かせた。慧音の端々にのぞく角に気がついていな
いのか、いつもと変わらなぬ暢気さで答える。

「そうでもないわー。郷の人間を助けるのにお金をとっちゃいけないって、お師匠さまに念を押されてるしねー」

「そうか。まあお前が黙って人の言うことを聞いているとも思えないがね」

 皮肉げな慧音にも、てゐはあまり気にした様子もない。両手を後ろにまわし、クルクルと踊るように飛び跳ねる。

「それは酷い言いがかりよー。私だって大人しくしていることだってあるのよー」

「そうか。まあ、それはいい。それよりそのお師匠殿だが、おられるか?」

この妖怪兎の言うことに付き合っても仕方がないとばかりに、慧音は話題を変える。ピコピコと耳を動かし、てゐは答えでも書いてあるのか空を見なが
ら答える。

「うーん。朝は見かけたけれど、今どうしているか知らないわ。ま、特に用事がなければ、今頃なら永遠亭にいるはずだけどね。何? お師匠さまに何
か御用かしら?」

 何とも頼りなげな返事のてゐに、慧音は疲れたように吐息をついた。

「そのようなところだ」

「そう。それは大変ねー。何があったかしらないけれど、頑張りなさいよー。それと、そんな顔してちゃ長生きできないわよ。スマイル♪ スマイル♪」

 そう言っててゐは慧音の頬に手を当てると、固まった頬をマッサージするようにムニムニと動かして無理矢理に笑みにして、自分もニッコリと微笑んだ。

「……忠告、感謝するよ」

 無理矢理に笑みの形に頬の皮を伸ばされ、それでも悪気がないらしいてゐに怒るに怒れず、慧音は震える声で答えた。

「そうそう。その調子♪ その調子♪」

慧音の答えを聞くと満足したのか、あるいはこれ以上すると怒りだしそうなことを察したのか、てゐは慧音の頬を開放した。

少し赤くなった頬をさすりさすり、慧音はてゐに別れを告げた。パタパタと辺りを跳ね回る妖怪兎と「じゃあねー」と手を振り見送るてゐに見送られ、
慧音はノロノロと永遠亭に向かった。

「あら? これは珍しい。妹紅の所の半獣人じゃない。何? 今日は妹紅の代わりに、お礼参りにでも着たのかしら?」

「上白沢慧音だ。どうしてお前や、お前のところの兎達は人のことを半獣人だ何だと呼ぶんだ」

 永遠亭で慧音を出迎えたのは、意外にも永遠亭の主である蓬莱山輝夜であった。馬鹿にしたような輝夜の笑みと物言いに、慧音がムッとした顔でぶっ
きらぼうに言った。かなり不機嫌な様子の慧音に、輝夜は鈴が鳴るような透き通った声で嘲るように笑う。

「それは私がそう呼んでいるからでしょうね」

「それじゃ、お前の監督不行き届きだな」

 そういうと慧音は眦を吊り上げ、涼しげに笑う輝夜を切りつけんばかりに睨みつけた。「そんなに睨まないでよ」と言い、ワザとらしく怯えたふりを
して輝夜は着物の袖で慧音の視線から顔を隠し、なおもクスクスと笑う。

「ペットの言葉遣いまで私の責任にしないで頂戴な。それに名前なんて唯の記号に過ぎないでしょうに」

「ほう」と漏らすと、慧音が強いて落ち着いた声で尋ねる。

「なら私もお前のことは月人と呼ぶが、それで構わないんだな」

「そんなこと、怒るに決まっているじゃない」

 不快そうに顔をしかめて、輝夜は即答した。

「……あのなぁ」

 さも当然と言わんばかりに腰に手を当てる輝夜に、慧音が疲れたような声を上げた。そんな慧音の反応が気に入らないのか、輝夜は慧音の鼻先に指を
突きつける。

「私は姫様なのよ、特別なの。当たり前でしょう」

 輝夜の主張に、慧音は頭痛を振り払うように額にきつく拳を押しつけた。そして何度か軽く頭を振って気を取り直そうとした。

「……まあいい。お前が客の出迎えとは珍しいな。こんなことは面倒臭いからやらないとおもっていたんだが」

慧音はの言葉に輝夜は腕を組み、拗ねたように唇を曲げ不快感を隠すことなく言う。

「面倒よ。けれどそれ以上に退屈なのよ。永琳が因幡達を引き連れて山の方まで薬草狩りに出ていてね、誰も私に構ってくれる人がいないのよ。こんな
ことなら私もついて行けばよかったわ」

そう言って輝夜は頬を膨らませた。しかし慧音にはプリプリと怒っている輝夜のことなど気に止まらないようであった。ただ永琳の不在という事実から
来る徒労感に耐え切れないように、肺の空気全てを搾り出し、長く重い吐息をついた。

「そうか、永琳殿は留守か」

 そして酷く暗い声で呟いた。いつにない慧音の様子に、輝夜は気がついた様子はなかった。だが「永琳」という言葉には気がついたらしく、不機嫌だ
った表情がパッと笑みに変わった。

「そう、永琳は留守よ。……何だ、アンタ永琳に用事があったのね? 本当に殴りこみに来たのかと思ってちょっと期待してたのに」

 何故か嬉しそうに微笑んでいる輝夜に、慧音は苦笑いし、踵を返した。

「そんなわけないだろう。それでは邪魔をしたな。お前は引き続き退屈を持余してくれ」

 そう言って一歩踏み出そうとして慧音は立ち止まった。そうして自分の腕を掴む、透き通るほどに白く、人形のよう小さい手を見つめる。輝夜の手だった。

「……悪いがこの手を離してくれないか? これでは帰れないのだが」

 慧音は輝夜の手を腕をとり引き離そうとするが、かまわず輝夜は両手で慧音の袖を引く。そして真赤な唇を媚びるように甘ったるく緩めた。

「んもう。妹紅といいアンタといい、本当につれないわねぇ。こんな可愛いお姫様が退屈を持余しているのよ? これは私の退屈を潰すのを手伝ってあ
げるっていうのが、人情ってものじゃない?」

 そう言うとクイクイと袖を引く。満面で忌々しさを表現していた慧音だったが、何か思いついたのか意地の悪い笑みを浮かべ、輝夜の顔を見た。

「残念ながら私は半獣人なのでな、人情なんてものにはトンと縁がない」

 そういって少々乱暴に腕を振りほどこうとしたが、輝夜は慧音の腕に抱きついて離そうとしない。

「あ〜ん、そんなことまだ根に持ってんの? アンタも意外としつこいわねぇ。……そうだ! アンタ、永琳に何か相談が会ってきたんでしょう?
永琳ならそのうち帰ってくると思うし、それまで私がアンタの悩み相談を受け付けてあげるわ! どうこれっ! いい考えだと思わない?」

「……帰る」

「かーえーるーなー!」

これ以上ないというほど顔をしかめ、輝夜の胸からスルリと腕を抜いて慧音は歩き出した。輝夜は逃がすまいとまるで馬の手綱を引き絞るように、後ろ
から慧音の髪の毛を引っ張った。

「分かった! 分かったから髪の毛を引っ張るな! 痛い! 痛いというに!」

駄々っ子と大差がない輝夜に負けて、慧音は結局輝夜に事の次第を話すことになったのだった。

「しっかし、アンタも妖怪の癖に細かいこと気にするのねぇ。夜寝ちゃえば勝手に何もなかったことになるんだから、思いっきり羽目を外せばいいじゃない」

 しどけなく投げ出した両足をブラブラと揺らし、輝夜が言った。あまり行儀のいい仕草とはいえない。

「私はお前と違って良識というものがあるんだ。そんなことできるわけないだろう」

 客であるにも関わらず、何故か自分が淹れさせられる羽目になった茶をすすり、慧音が言う。ゴロリと転がってうつ伏せになり頬杖を突き、輝夜はき
っちりと正座している慧音を呆れたように見上げる。

「相変わらずお堅いわねぇ。……しかし、ま、そんな話じゃ永琳に聞いたって無駄ね」

「……どういうことだ?」

 何気ない輝夜の言葉に、思わず慧音が声をあげた。今にも怒り出しそうな、あるいはすぐにでも大声で笑い出しそうな、もしくは瞬く間に泣き出して
しまいそうな、今にも慧音の毅然とした表情が割れて砕けて、そんな表情がのぞいてしまうようだった。そしてやはり輝夜は慧音の変化に気がつく様子はな
かった。ただ慧音の奇跡ともいえる自制心の強さを考えれば、一概に輝夜が慧音の心中に気がつかないことも仕方がないことと言えるかもしれない。

 輝夜は所在投げに足をブラブラとさせ、滔々と語る。

「いくら永琳が天才だからってそんな珍妙奇天烈なこと知ってるわけないわ。そもそも自分だけが何度も同じ日を繰り返すのなら、他人にどうやってそ
のことを伝えるっていうのよ?」

「……そ、そうだ。確かにそうだった。誰も私の言葉を憶えていなかった。私は何度も何度もこの話をしたのに、朝になると誰も私が話したことを憶え
ていなかった。書き付けておいた言葉は、朝になると白紙に戻っていた。私の記憶以外、どうやっても次の『今日』に記録を残すことはできなかったんだ」

 輝夜の言葉に慧音は顔を覆ってうな垂れた。ただ頭を垂れることしかできなかった。輝夜は正しいことを述べているだけであることは、慧音には分か
っている。だがそれは、何度もそのことを自問し、その度ごとに恐ろしくなってそれ以上考えないようにしていた慧音にとって、言葉以上に重く、終わりの
ない絶望としてその身にのしかかってくるのだった。

 打ちしおれた慧音の様子に、得意げに喋っていた輝夜もようやく気がついた。黙って俯き、激痛に耐えてるように歯を食いしばり、今にも泣き出して
しまいそうなまでに目を赤く腫らしている慧音に、輝夜はどう言葉をかけていいのか分からずしばし呆然としていた。そうして我に返ると、まるで辺りを満
たす沈黙に溺れてしまったように手をばたつかせうろたえていたが、やっとのことで何か思いついたのか、それとも単に重苦しい空気を吹き飛ばそうとして
なのか、ことさらに明るい声をかけた。

「……そ、そうだ! ほらほら! 前に私の所に乗り込んできた吸血鬼とメイド!」

「……レミリア・スカーレットと十六夜咲夜のことか」

 自分に向けられた慧音の、その真赤に充血した目に一瞬怯んだ輝夜であったが、鬱々とした空気を追い払うように無理矢理に、さらに声の調子を上げた。
最早金切り声に近い。

「そ、そうそうっ! あいつら! あいつらなら何か分かるんじゃないかしらっ! 何せメイドに至っては時間を止められるんだから、きっといいこと
の一つや二つ言ってくれるに決まってるわ!」

「……果たして、そうだろうか……」

 しかし慧音は暗いまま。絶望に浸り切った心は、諦観することに馴れ過ぎているようで、わずかな希望にすがることすら難しいようだった。そんな慧
音に、輝夜は発破をかけるように慧音の肩をバンバン叩く。

「な〜に暗くなっちゃってるのよ、アンタらしくない! どうせ駄目元でしょうに! 駄目だったら、またもう一回今日を繰り返して、いい方策を考え
ればいいだけよ! 私なんてこんなに可憐なのに、アンタより長生きしてんのよ! 大丈夫よ〜」

 輝夜はよくわからない理屈を並べて、バシバシと肩を叩き続ける。そんな風にワザとらしく声を上げて馬鹿笑いする輝夜に、慧音は一度目をこすると、
無理矢理に微笑んだ。

「……ん、そうかもしれない。ありがとう、輝夜。すまなかったな。それと、……少し見直した」

 慧音の笑みにはまだ哀しそうな雰囲気が残っていたが、それでも何とかいつもの調子を取り戻すくらいには回復したようだった。わずかでも元気にな
った慧音に、輝夜は芝居がかった動作で腕を組み、不敵な笑みを浮かべてみせた。

「何言ってるの。私だって、少しはアンタたち穢き民にも温情くらいかけてあげる時くらいあるのよ。特に私なんて姫様なんだから、下々の者にもちゃ
あんと気をつけてるのよ、アンタらが気がついてないだけでね」

「そのようだな。確かに伊達に姫様をやってるわけではなさそうだ」

 道化てみせる輝夜に、慧音は今度こそ屈託なく笑えることができた。

「今日が繰り返すね。興味深い話ではあるけれど、聞いたことがないわ。貴女は、レミィ?」

 パチュリー・ノーレッジが、自分の隣で素知らぬ顔をして紅茶を燻らせているレミリア・スカーレットに視線を送る。

「パチェが聞いたことがないことを私が知っていると思うの? 咲夜は? 時間は貴女の受け持ちでしょ?」

 レミリアがその視線を受け流し、傍らに控える自らの従者・十六夜咲夜を見上げる。

「いつから私が時間担当になったのかは分かりませんが、私も聞いた事はありませんねぇ。申し訳ございません、お嬢様。ごめんなさいね、慧音」

 咲夜が困ったように笑いながら、ティーテーブルに色とりどりのケーキを並べる。

 慧音が永遠亭を辞したのは、夜が竹林のあちこちに降り始めた頃であった。

「今からいけば、吸血鬼どもが起きてくる頃には紅魔館に着くでしょう」

 そこまでしなくていいという慧音の意見に全く耳を貸さず、輝夜はわざわざ門の所まで見送りにきた。

「そうか、ありがとう……その、輝夜……」

「何かしら?」

 門をくぐったところで慧音は態度を改めて輝夜に向き直る。それを見て輝夜が「またか」と言いた気な呆れ顔で見つめ返した。

「その、何と言えばいいか分からないんだが……」

「もぅ、また! はいはい、もう十分わかったから。本当に礼なんていらないって言ってるでしょうに。暇潰しに丁度よかっただけなんだから」

 頭を下げようとする慧音の鼻先に輝夜はすかさず広げた掌をかざして、慧音のお辞儀を止めた。そうして得意げな顔をしている輝夜に、慧音は照れた
ように頭をかき、微笑した。

「否、それでも礼を言わせてくれ。ありがとう、なんだか胸のつかえがとれたような感じだ」

「そう。それは良かったわ。ならもし途中で永琳たちに会ったら、私がお腹をすかせて待っていると伝えて頂戴。礼はそれで結構よ」

 慧音の律儀さに呆れたのか、輝夜のお腹を擦る仕草をしてみせた。その仕草に慧音が笑う。

「分かったよ。伝えておこう。では失礼する」

 そうして今度は邪魔されないように一歩距離を置いて、慧音は軽い会釈した。

「ええ、さようなら。今度は妹紅も連れて私の永の無聊を慰みにいらっしゃい」

 気安く手を振りながら、輝夜も別れを告げた。頭は下げなかった。

「流石にそれは肝が冷えるな。……いや、うん。近いうちにそうするよ」

 一瞬、困ったような表情をした慧音だったが、すぐに何かを思い直したように力強く頷いた。

 結局慧音が永琳達と出会うことはなかった。

 迷うことなく竹林を抜けると、慧音は夜の黒の中、紅い館へと急いだ。どうしても新しい『今日』が始まってしまう前に、紅魔館の悪魔たちと会って
おきたかったのである。

 慧音が『今日』にいられる時間は、朝に目が覚めてから、夜の十二時、日付が変わるまでの間であった。それだけの時間の長さに相当する間だけ
『今日』に留まることができた。たとえ歴史を操作しようとも、それだけの時間が経過すれば何があろうと、慧音の『今日』は終わってしまうのだった。

慧音が紅魔館の門番に来意を告げ、主たちが寛ぐ紅い居間に通された時には、『今日』に残された時間はわずかなものになっていた。

 そうして慧音は今日三度目になる説明をした。同じことを一日の間に三度も説明すると説明も随分と上手くなるものだと、慧音は自嘲気味に笑った。

「咲夜じゃわからないわよ。そもそも、時間を操るということと、歴史を操るということとは根本的に違うもの」

 咲夜に意見を求めたレミリアに、分厚い魔道書に顔を埋めたままパチュリーが言う。

「そうですねぇ。やっぱり違うと思います」

 咲夜が主の表情を窺いながら答えた。

「確かにその通りだな」

 慧音も頷く。

「どう違うっていうの? どっちも似たようなもんでしょう。強いて言うなら咲夜のほうが強いってことぐらいで」

 自分がのけ者扱いされていると感じたのか、レミリアが不機嫌そうな声をあげた。咲夜は「強いかどうかは分かりませんが」と恐縮し、レミリアの隣
で黙って本を読み耽るパチュリーに説明を頼むように顔を向けた。興味なさ気に俯いたまま文字を追うパチュリーが、どうやって咲夜の意図に気がついたの
かは分からない。しかし予めこの時が説明するために自分に用意されていたと知っていたかのようなタイミングで、抑揚の乏しい小声で話し始めた。

「時間というものは森羅万象の変化を指す言葉なのよ。対して歴史はその変化をある観測点から記述することを言うの。例えば戦争の歴史なんてものを
想像してみてれば分かるとおもうけれど、勝者から見た歴史と敗者から見た歴史が異なっていることがあるでしょう。戦争という時間、つまり変化は同じだ
としても、それを記す者の立場が異なると、歴史は大きく異なる、そういうことを言いたいのよ」

「ふうん、よくわかったわ。ま、何となくだけれど」

「お嬢様。それはよく分かったとは言わないのではないでしょうか」

パチュリーの説明が終わると、退屈そうに頬杖をつきながらティーカップを傾けていたレミリアが言った。主の言葉に従者が苦笑する。レミリアは咲夜
に嘲笑を返すと、黙々と読書を続けるパチュリーに嘲りを込めて尋ねる。

「そんなことは瑣末なことよ、咲夜。で、時間と歴史の講義はそれとして、その知識が何か役に立つのかしら、この歴史の先生の受難に?」

「全く役に立たないわ」

「ね、咲夜?」

 パチュリーは無機質に答え、その言葉に「それ見ろ」とばかりにレミリアがニカっと牙を剥き出して笑った。

「『ね?』と仰られましても……」

 その満面の笑みにどう答えてよいのか分からず、咲夜がまたパチュリーに助けを求めるように視線を泳がせた。相変わらず書面から視線を動かしてい
ないにもかかわらず咲夜の意を汲み取ると、パチュリーは言葉を紡ぐ。視線を向ければ語りだす、まるでオルゴールか何かのようである。

「私は時間と歴史の違いを尋ねられたから答えただけよ。その違いが慧音の役に立つとは一言も言っていないわ。それに今回の問題は私よりも貴女の方
が役に立つことができると思うのだけれど、レミィ?」

「私?」

 思わぬところで自分の名前が出てきたことに、レミリアが小首を傾げる。

「そう。歴史とは物語のようなもの。出来事と出来事を何らかの関係性で結んで行く。点と点をつなげて線を作るようにね。特に個人の歴史なんてもの
に限って言えば、その個人の認識という無数の点の集合みたいなもの。これって何かに似ていないかしら、レミィ?」

 パチュリーの言いたいことが飲み込めたらしく、レミリアが小さく手を打った。

「成程。パチェは運命と似ていると言いたいわけね」

音を立てて魔道書を閉じると、パチュリーが紅茶を一口すすった。

「そう言うことよ。で、運命のプロとして、こちらのアマチュアの方に何か役に立つアドバイスはないかしら?」

「う〜ん。……そうねぇ……」

 椅子に浅く腰掛け背筋を伸ばし緊張した面持ちで座っている慧音の姿を、レミリアは目をそばめてすかし見る。正しく慧音の向こうに横たわっている、
運命の流れを垣間見ているのだろう。レミリアはそのままジッと何かを見つめ続けていたが、ややあって何か気に入らないものでもあるように顎に手をあて
首を捻った。

「う〜ん。……特に、……ないわね」

「ほら。貴女も役立たずじゃない」

 すました顔で紅茶をくゆらせながら、すかさずパチュリーが切り返した。

「う〜、役に立てなくて悪かったわねぇ」

「まあまあ、お二方とも」

 拗ねたように口を尖らせ小さく切り分けた紅いケーキを突くレミリアに、宥めるように咲夜が声をかけた。

「……で、では、他にこのようなことに詳しい人に心当たりはないだろうか?」

 議論が暗礁に乗り上げたことを察して、慧音が慌てて尋ねた。紅魔館の面々の先程までの議論も、実は慧音の耳にほとんど入っていなかった。何故な
ら慧音の聴覚は、それ以外の音に支配されていたからである。

 それは慧音の正面に設えられた、大きな柱時計が時を刻む音である。傍らで紅茶を嗜んでいる魔女の声よりもさやかな音で、残酷なまでに正確に慧音
の意識に時を刻んでいた。その無機質な小さな音が、慧音に声高に告げていた。慧音に残された『今日』という時間が、もうほとんど残っていないことを。
もうすぐ『今日』が終わり、何度と繰り返された新しい『今日』が始まろうとしていることを。それは終わらない無為の輪廻の始まりを意味している。だか
らこそ、慧音はここまで辿ったこの手がかりを失うわけにはいかなかった。

 そんな慧音の心中を察したわけではないのだろうが、 パチュリーが人差し指をピンと立てた。

「一人、心あたりがあるわ」

「ああ、アレのことね」

 レミリアがケーキを刺したままのフォークを指揮棒のように振る。

「八雲紫のことですか?」

 パチュリーのティーカップに紅茶を注ぎ、レミリアの口元を拭い、咲夜が言った。

「そう。この幻想郷で起ることで、あの人妖が知らないことはないんじゃないかしら?」

「その心は?」

 慌てて慧音が尋ねると、何か思い当たる節があるらしくレミリアが呟いた。

「ああ、前にパチェが言ってたやつね。幻想郷の観測者が云々という」

パチュリーが首肯し、慧音の目の下にできた濃い隈を見ながら言う。

「そう。長いセリフは体に堪えるからそのへんの説明は省くけれど、アレは何よりも長生きしているからね、何か知っている可能性は高いと思うわ」

「全く魔女の癖に体が弱いんだから」

 レミリアが馬鹿にしたように哂う。

「違う。魔女だから弱いのよ」

紅茶の香にむせたのか、パチュリーが小さく咳き込んだ。

「そうか、八雲紫か。ありがとう。明日にでも早速……」

 口元を拭うパチュリーとその姿を見てニヤニヤ笑っているレミリアに、慧音が謝意を述べようとしたその時に、壁にかかった大時計がその存在を誇示
するように、高らかに吼え声を上げた。

「あら、もうこんな時間?」

今日の終わりを告げる音が、紅色の世界に虚ろに響く。

「……そうだな。『今日』も『終わり』だ」

 慧音は、そう、呟いた。

 そしていつものように慧音の周囲の世界が変化して行く。初めは、その変化はとても恐ろしく、慧音は自分が狂ってしまうのではないかと思ったほど
だった。しかしどんなに恐ろしいものでも、無限に等しいほど何度も味わっているうち、恐怖の鋭さも削り取られ、鈍磨していく。しかし変化になれること
はあれ、その変化が意味するところの恐怖は失われることはない。否、それどころか、繰り返せば繰り返すほど、無限の無為は狂うことなく耐え続けている
慧音の、尋常ならざる強靭な精神を、確実に削り取っていく。

それは無限に繰り返される無為の持つ恐怖。

慧音にはそれが恐ろしかった。少しずつ自分が壊されていくことの実感が、慧音には耐え切れないほどに恐ろしかったのだ。だから慧音にはこの『今日』
が終わるこの瞬間ほど、耐え難いものはなかった。崩れて行く視覚の中に紅魔館の住人たちの視線がなければ、この恐怖に耐え切れず、それこそ狂ったよう
に悲鳴をあげ、頭を掻き毟り、のたうち、この世を、そして我が身のみに降りかったこの悲運を、罵詈雑言の限りを尽くして罵っていたことだろう。

ただ慧音はその身を裂く衝動に、砕けんばかりに奥歯を噛み締め、ただされるがままに耐え続けた。

慧音の周りで世界が歪む。壁が溶け、天井が曲がり、全てが紅い混沌の渦に巻き込まれ、呑み込まれて行く。世界が唸りを上げて捻じ曲がり、色が混じ
り、音が混じり、一点に向かって収斂していく。

そうして慧音の世界が真赤に染まっていく。

「そういえばレミィ。さっき何か言いかけて止めたようだったけど、何を見たの? いや、大したことじゃないのだけれど、コイツの運命がね、今日の
真夜中十二時キッカリで途切れてるのよね。それは死ぬ、ということですか? お嬢様?」

 三人の声が反響し慧音を取り囲み、四方八方から鳴り響く。その声も世界の収斂に巻き込まれ、最早誰の声なのか判別することすら出来なくなっていた。

「いや、そういうわけじゃなさそうなんだけれど。何て言うのかしら、自然に切れているというよりも、不自然に断ち切られているという感じかしら?
あんな風な運命は見たことがないわ。普通、殺されるにしても自然死するにしても、運命の終わりは自然にほつれて消えているのだけれどね。それにあいつ
の運命の始まりも、妙でね。どうも今日が始まった瞬間に生まれたみたいになっているのつまり慧音は、今日生まれて今日死ぬ運
命しか持っていないということ」

 音も色も全てが渾然一体となり、夜より暗い黒点に向かって収束していく。そうしてあらゆるものが閉じていく。

 慧音の意識も黒点に向かって引き込まれ、飲み込まれ、途切れていく。

そして慧音の意識が闇に覆われ、終についえる。

その一瞬、世界の終わりのその一瞬に、慧音は無限の渾沌の中に響くパチュリーの呟き声をはっきりと聞いた気がした。

「ああ、そうか。彼女は点だったのね」

 そこで慧音の『今日』が終わった。

「……また、……今日か」

 そして慧音はまたいつもの『今日』と同じように、自分の家で眠っている自分を見つけるのだった。

 障子越しに霞んだ朝日が差し込む。無限に繰り返した朝であったが、今ほどこの朝を待ち焦がれた『今日』はなかった気がする。

 今日は違うのである。今の慧音は『今日』を終わらせる手がかりを掴んでいるのである。そのことが、慧音にはとてつもなく心強く感じられた。

 暖かい寝床から起き上がると、まだ少し肌寒い朝の中で、慧音は随分久しぶりにキビキビと身支度を整えた。

 顔を洗うと『今日』も来るであろう妹紅と自分の分の朝餉を用意しながら、慧音は日が暮れれば博麗神社に行こうと考えた。

「今日が繰り返すね、それはうらやましい。これ以上年取ることもないんでしょ?」

 扇子で打ち扇ぎ、八雲紫がにこやかに笑う。

「今日が繰り返すなんて、そんなのいつものことじゃない」

 博麗霊夢が何を今さらと言うように、呆れた顔をした。

 そうして慧音はいつもの「今日」のように桶を壊し、妹紅の分の朝食を用意し、いつものように寺小屋で子供たちに学問を教えた。そんな風にいつも
と変わらない日常を過ごすと、夕闇迫る誰そ彼刻に博麗神社に向かった。

 博麗神社に着いた頃には、境内のあちこちで静かに夜がまどろんでいた。時間も時間であったので、慧音は少々心苦しさを感じていたのだが、出迎え
に現れた霊夢はいつもと同じようなぶっきらぼうな口調で、しかし快く慧音を出迎えた。

「今日は疲れたからもう寝ようと思っていたのだけれど。しかし珍しいわね。アンタがこんなに日が沈んだ頃に。何? わざわざ郷のお賽銭を届けに来
てくれたのかしら?」

「残念ながらそうじゃない。今日は紫殿に会いに来たんだ。おられるかね?」

 霊夢の憎まれ口と冗談に慧音が来意を告げた。それを聞くと、霊夢はいぶかしげな表情をした。

「紫に用事なんて珍しいわね。けど、あいつがいるかどうかは分からないわ。居て欲しくない時にいる類の奴だからね、居て欲しい時には居ないかもし
れない。ま、実際に呼んでみないことには分からないわね」

「そうか。では申し訳ないのだが、呼んではくれないだろうか」

 気が乗らない霊夢に、慧音は丁寧に頭を下げた。そのいつも以上に慧音の真摯な態度に何かを感じとったらしく、霊夢はそれ以上何も聞かず、一つ頷
いた。しかしその代わりに心底面倒臭そうに顔をしめた。

「まあ、呼ぶのはかまわないけれど、あいつを呼んだって、多分ろくなことしないわよ? それでも構わないのね?」

「まあ、それでも構わんさ」

 慧音は念を押す霊夢が少々気の毒に感じた。余程日頃からろくでもない目に合わされたのだろう。そして同時に本当に紫を頼っても大丈夫なのかと言
う不安が過ぎった。一度霊夢に相談した上で紫を頼るかどうかを決めた方が良いのではないか、という考えが頭の片隅によぎった。慧音はそのことを霊夢に
伝えようとした。

「おーい! 紫ー! 客よー!」

 が、遅かった。霊夢は口元に手を当て、腹の底から響く大声で紫の名を呼んだ。否、叫んだ、と言う方が正確かもしれない。突然の霊夢の絶叫に慧音
は身をすくめ、頭の中で未だに残響している音を塞ぐように耳に手を当てた。

「……呼ぶってそういうことか」

 そうして恐る恐る、腰に手を当てて仁王立ちしている霊夢に言った。

「当たり前よ。何を想像してたのよ」

 何を今更という顔で霊夢が言う。

 しかしその言霊は直ぐに効果を表した。声に答えるように、霊夢と慧音の目の前に一筋、空間に裂け目が走る。裂け目はゆっくりと開くと、その向こ
うに広がる、紫色の得体の知れない何かが毒々しく渦巻く空間からヌッと長手袋をはめた腕が現れると、親しげに手を振った。

「はーい! 何かしらー?」

「あんたに客よ」

 霊夢が握手するようにその手を軽く握った。

「そう。ちょっと待ってね、今行くわー」

 その手は霊夢の手を軽く握り返すと、一度紫色の中に引っ込んだ。そして、

「呼ばれて飛び出て、じゃじゃじゃじゃーん」

どこから用意したのか色とりどりの紙吹雪を撒き散らし、意味も無く両手を高々と上げ、満面の笑みをたたえた八雲紫が飛び出した。

「客よ、紫」

 そんな紫に霊夢はつれなくクイっと親指で慧音を指差した。

「相変わらずつれないわねぇ霊夢。なぁに? 昨日、あんなにお預けを食らわせたこと、まだ怒ってるのかしら? ……と、あら、貴女はいつぞやの」

白けた顔をしている霊夢の頬を、シルクの長手袋をはめた手でさすったりひっぱたりと弄りながら紫がワザとらしい哀しげな声をだす。「そんなわけな
いでしょう」と自分の頬を突く紫の手を鬱陶しそうに振り払う霊夢をニヤニヤしながら眺めていた紫が、そこでようやく傍らで手持ち無沙汰にしている慧音
に気がついた。

「お久しぶりです、紫殿。今日は貴女のお力を拝借したく、こうしてまかりこしました」

「あらそう。堅苦しいのいらないわ、紫で結構よ。私でよければ力になってあげるわ。そのかわり、キッチリお代はいただきますけど」

 慧音が丁寧に頭を下げる。紫は興味なさげに適当に答えながら、嫌がる霊夢の頬をしつこく突く。今は霊夢にちょっかいを出すことに夢中なようだ。

「霊夢、これよこれ。この年長者に対する慇懃さが、貴女には足りないのよ」

「五月蝿いわねぇ。あんただって今堅苦しいのが嫌とか言ってたじゃない」

 五月蝿そうに紫の手を跳ね除けながら、霊夢が言う。

「気持ちの問題よ、気持ちの」

「……あのー、お取り込み中申し訳ないのだが、それでその、私の話を聞いていただけるのだろうか?」

「ん? ああ、そうね。霊夢が余計なことを言うから、忘れるところだったわ」

「人のせいにしないでよ」

 二人のやりとりに置いてきぼりを食わされた慧音が、気まずげに尋ねた。慧音の様子に、紫は霊夢をおちょくるのにも満足したのか、宥めるように霊
夢の頬を撫で、そして霊夢の文句は聞こえないふりをして、慧音の顔を見た。

「じゃあこんなところで立ち話もなんだから、あっちのみすぼらしい座敷で、粗茶でも飲みながらお話をうかがいましょうか」

「なにがみすぼらしい座敷よ。それにどうせ私が茶を淹れるんでしょ」

 紫の言葉に霊夢が噛み付く。そう言いながらも既に足は台所へと向かっているところが、霊夢らしいともいえる。

「あら? 分かってるじゃない。お願いするわねぇ、霊夢」

 口元を扇で隠す紫。それでも目元でニヤニヤと笑ってるのが分かる。

「すまないな、霊夢」

 対して慧音はすまなさそうな顔をして頭を下げた。

「別に構わないわ。どうせいつものことなんだから。ささっ、あんたも入った入った」

 霊夢は情けない顔で悄然と立ち尽くす慧音の背を押して居間へと押し込むと、台所へ向かった。そして霊夢が茶を運んでくるのを待ち、慧音が二人に
自分の窮状を説明した。

「ふ〜ん。面倒臭い話ね。どうせなら、こうスパッと解決できる問題を持ってきてよ」

 湯呑を手の中で弄び、霊夢が言った。それを聞き、紫が馬鹿にしたように笑う。

「あんたはもうちょっと頭を使うことを憶えたほうがいいわ。そんなのだから賽銭だって貯まらないのよ」

「五月蝿いわね。お賽銭が少ないのは関係ないでしょ」

一々扇で口元を隠して目元で笑う紫に、霊夢が悪態をつき睨みつける。そんな霊夢の頭を、紫はポンポンと優しく叩く。幼子をあやすようである。

「はいはい。おねーさんたちはちょっと難しい話をしますから、大人しくあっちで今日の夕飯の準備でもしてなさい」

「分かったわよ。どうやらこの手の面倒臭いのはあんた向きみたいだしね。御飯ができるまでに解決しておくのよ」

 自分の頭に置かれた手を乱暴に振り払うと、霊夢は「よっこいしょ」と歳に似合わない掛け声をかけ立ち上がった。意外に素直である。余程頭を使う
面倒ごとが嫌いなのだろう。さっさと行けというように扇を扇ぐ紫に、霊夢は口中でブツブツと文句を呟きながら座敷を出て行った。そして霊夢の背中で襖
が閉じると、紫は慧音の顔をマジマジと見つめた。

「さてと、お子様もいなくなったことですし。……本題に入りましょうかね。慧音」

「何かな?」

 改まった表情の紫に、慧音も気を引き締める。居ずまいを正した慧音を見て、「そんなに緊張すると疲れるわよ」と紫が妖しく笑う。

「しかし災難だったわね。もっと早くに私の所に相談に来ていたのなら、そんなに苦しむこともなかったでしょうに」

 と、何でもないことのように言った。

「そ、それでは、まさか!」

 紫の言葉に、慧音は思わず上ずった声で前に身を乗り出す。恐らく何らかの解決の目途が立つのではないかとは漠然と考えていたが、まさかこうもア
ッサリと、しかも解決するらしいとは思ってもみなかったのである。

「ええ。私にできないことは……ふふっ、そうね、ほとんどないわ。けれどその前に少しつまらない御託を並べても構わないかしら?」

紫が扇子越しにうっすらと微笑む。その笑みは紫がいつも浮かべている、どこか含みのある笑みである。霊夢あたりならば「胡散臭い」と言い切って、
耳をかさないであろう笑みである。

「……貴女の言葉ならば、それは何か意味を持っているのだろう。是非に清聴させてもらうよ」

 だが、胡散臭いとしりつつも慧音は頷いた。ひとえに慧音の性ゆえであるとしか言いようがない。

 慧音が頷くと、紫はまるで慧音が寺小屋で子供たちにしているような調子で話し始めた。

「歴史が何ものであるかについて、もちろん知っているわね?」

「ああ。自分でも了解しているつもりだし、この前の『今日』の時に、パチュリーから聞かされたよ」

「そう。あのビブリオマニアから話を聞いたのなら間違いはないでしょう。しかしあの子の語る言葉以上に、貴女にとって歴史とは重い意味を持ってい
る、そのことにはどこまで気づいているのかしら?」

「……どういう、ことかな?」

 慧音が生唾を飲み込んだ。

「歴史とは時の流れだけを意味するのではない。歴史には人の意思が流れている、人の血肉が備わっている。故に歴史は人に祟る、人に憑りつく」

紫はうっすらと気味の悪い笑みを浮かべ、蒼褪めた慧音の顔を面白そうに上目づかいに見やる。そうして少しの間を置き、「歴史を操る貴女なんかには、
特にね」と付け加えた。

「生まれる前に死んでしまった未来の歴史、殺され消えてしまった過去の歴史。概念に過ぎない歴史は明確な意思をもたない故に、長く留まりそして何
かの拍子で牙をむく。もしかしたら、今の貴女の苦境は、貴女が消し、修正した歴史の、その降り積もった怨嗟の故かもしれないかも、なんてね」

 紫は朗々と言葉を紡ぐ。その言の葉の一つ一つが、深遠なる知識が時折見せる、浅慮なるものたちへの悪意を孕んでいるよう。その悪意は慧音の耳朶
から染み渡り、ゆっくりと全身を蝕んでいく。

 慧音の顔からはすっかり血の気が失せ、額には玉の汗が浮かぶ。正座した膝元に置かれた手は、爪が食い込みはしないかと思われる程に固く握り締め
られ、小刻みに震えていた。その様子に、紫の口元が鋭利な鎌を思わせる形に吊りあがった。扇子を音を立てて閉じ、閻魔が死者を裁決するように慧音を指す。

「まぁ、そんな歴史が憑りつくなんていう与太話はさておき、私が貴女の苦境の正体を、貴女の自身の真実を教えてあげましょう」

「……私、の、しん……じつ? 一体、……一体、貴女は何を、言って……」

 紫の言葉に慧音がすくむ。その感覚は底の見えない深遠を覗き込んだときに感じる恐怖に似ている。目の前に開いた深遠から響く、姿なき者の声の反
響に、慧音が怯える。しかし、否、それ故に慧音は紫の双眸に穿たれた深遠から目を離すことが出来なくっていた。

「あなたは上白沢慧音の認識の、上白沢慧音の歴史の一部。本当ならば何の疑問も抱かずに、彼女の認識の中で『今日』を繰り返すだけの存在だった。
それがどういうわけか、継続した意識をもってしまった。それが貴女。だからこそ貴女は、無限地獄に苦しんでいる」

 紫は顔を引きつらせ、言葉も無く体を強張らせている慧音に顔を近づける。そうして戯れに扇子で顎を持ち上げ、呪詛のような言霊を吐き続ける。

「もしかしたら貴女は忘れられた過去かもしれない。あるいは作られた歴史によってつまはじかれた未来なのかもしれない。しかし、まぁそんなことは
結局のところどうでもいいことね。結局のところ、あなたは迷子になった歴史に違いないのだから。貴女は永遠に『今日』を繰り返すことを知ってしまった
哀れな歴史なのよ」

「……そんな、ははっ。……そんな荒唐無稽な話を信じろとでも……いくらなんでも、そんな冗談、誰も信じないぞ……」

 慧音が紫の瞳から引き離し、強いて乾いた声を上げて笑う。しかしそのかすれた声が慧音の自身の心中を雄弁に語っていた。

紫は強がる慧音につまらなさそうに肩をすくめると、先程までまとっていた妖しげなオーラを収めた。

「信じるも信じないも、それは貴女の自由よ。まあ、信じたくない気持ちも判らなくはないけれどね。でも貴女の話を聞く限り、この話にはかなりの信
憑性があると思うわ。そして……」

「……そ、そして?……」

 これ以上何があるのかと顔をひきつらせて尋ねる慧音に、口元に扇子をあてて紫はいつものように妖しく笑う。

「さっきも言ったように、私なら貴女を助けてあげられるわ」

「そ、それは、本当に本当なのかっ!」

 今までの恐怖も一転して喜色を浮かべて身を乗り出す慧音に、紫は何でもないことのように言う。

「簡単なことよ。貴女の意識を少々弄るだけ。そうすれば貴女は継続した意識を持たず、愚直に今日を繰り返すだけの存在に戻ることができる」

「……意識を、弄る、か……何か、こう、……恐ろしげな響きがあるのだが」

紫の言葉に慧音が音もなく身を引いた。慧音の顔がわずかに引きつっていた。今度は先ほどまでの正体不明の恐怖ではなく、目の前の人妖の恐ろしいま
での性質の悪い悪戯心に、である。気後れする慧音に、紫は妙な具合の猫撫で声で話しかける。

「大丈夫よ。大したことをするわけじゃないんだから怖がらなくても。……でももちろん、貴女を助けてあげるんだから、何かお礼がほしいわねぇ」

「……その、魂とか、命と同等の価値を持つものとかは勘弁してくれよ」

 色々な意味で身の危険を感じた慧音が、ニヤニヤと笑いながら本物の猫のようににじり寄る紫から少しでも離れようとジリジリ後退る。距離をとる慧
音に向かって、紫はヌッと腕を伸ばした。その先にはパックリと紫色のスキマが開いている。

「そんなもの、貰ったってしょうがないじゃない。大丈夫よ、別にとって喰おうってんじゃないんだから、そんなに警戒しないで頂戴。そうねぇ、それ
じゃあそのお願いは、あなたの意識にチョチョイっと刻んでおこうかしら。ウフフ……」

「ちょ、ちょっと待て! 何をするのかぐらい先に言ってくれ! だ、だから、待てというに!」

 スキマは慧音の鼻先で開き、紫と慧音の間の空間をつなげる。慧音は危険を察知して逃げようとしたがわずかに遅く、眼前に開いたスキマから伸びる
紫の手が、しっかりと慧音の顔を掴んだ。そしてその細腕からは考えられないような力でもって、これ以上慧音が逃げないようにその場に引き止めた。それ
でも逃げようと往生際が悪く暴れる慧音に、紫はゾッとする妖しい笑みを浮かべると口づけるように顔を寄せ、鼻にかかる甘い声で囁く。

「ウフフフ。痛いのは最初だけよ〜」

「だ、だからやめいというに〜!」

 最早慧音に泣き笑いの声をあげる以外、できることはなかった。

 そうして慧音の『今日』の意識は、眼前に迫る紫の笑みと赤い唇を最後に、途切れた。

「……ううっ……ふあぁぁっ……」

 慧音は気だるそうに布団から起き上がると、大あくびをしながら目一杯背筋を伸びをした。ピョンピョンと四方八方に跳ねた髪を簡単に手で整えると、
顔を洗いに手水へ向かう。水甕から水を桶に注ぎ顔を洗おうとしたところで、乾いた音を立て箍が裂けてしまった。

「……むぅ。朝からついてないな……」

水浸しになった地面を見てぼやくと、桶から外れた板を拾い集め、別の桶に水を張り直し顔を洗った。身支度を済ませると、朝餉の準備のために台所へ
降りる。そうして竈に薪をくべようと屈んだ時に、竈の奥の暗がりから何かが飛び出し、慧音のすぐ側を駆け抜けた。

「ひ! う、うわっ!」

情けない声を上げて尻餅をつきそうになる慧音。走り出した小さな影、一匹のネズミは驚く慧音を嘲るように一度振り返ると、何処へかチョロチョロと
走り去って行った。ネズミに驚いたことが恥ずかしいのか、慧音はキョロキョロと辺りを見回し誰もいないことを確認すると、空咳をついて何事もなかった
かのようなふりをして朝餉の準備に戻った。そして簡素な朝食を用意すると、静かにそれを食べ始めた。

「……もう起きてるか、慧音」

 その膳に二口、三口、箸をつけたところだった。戸外から控えめな声が聞こえてきた。

「ん? ああ、妹紅か。こんな朝早くからどうした?」

 現れたのは藤原妹紅である。妹紅は慧音に促され居間にあがり慧音の正面に座ると、目の前の、ほとんど箸のつけられていない慧音の膳を見ながら、
ボソボソと小さな声で話し始めた。

「いや、永遠亭で保護していた迷い人をついさっき家まで送ってたんだ。……それで、だから、そのー慧音……」

「何だ妹紅?」

 何か言いたいことがあるらしいのだが、モジモジとして先を続けない妹紅に慧音が尋ねた。しかし慧音が尋ねても、妹紅は恥ずかしそうにして中々言
い出さない。そのまましばらく無言で俯いていたのだが、

「グゥ」

と、大きな音が妹紅の腹から鳴った。その音に、妹紅の顔が一瞬にして茹で上がる。そして恥ずかしさで消え入りそうな、小さな声で言った。

「……その、もしよかったら……何か、食べさせて、ほしい……んだけど」

 恥らう妹紅に、慧音は何も答えず、目を皿のようにして固まっていたが、

「……っぷ、ふははははっ!」

何か答えることも忘れて、思わず吹き出してしまった。

「……あ、朝から何も食べてないんだから、仕方ないだろ!」

「ははははっ! ……はぁ、いや、すまんな。あんまり、その、タイミングが良かったものだから。はぁ、そうだな。そんなに腹がすいているのなら、
今箸をつけたばかりのものでよければ、これを食べてくれてもかまわないぞ?」

 顔を真赤にしながら抗議する妹紅を一頻り笑ってから、慧音が自分の膳を差し出す。

「……本当に、いいの?」

 そう言いながらも慧音の差し出す膳を、妹紅は物欲しそうな目で見る。慧音は「気にするな」と妹紅の目の前に膳を置いた。少しの間、妹紅は慧音と
その膳を代わる代わるに見ていたが、空腹には勝てなかった。すまなそうに小さく頭を下げると、その膳を勢い良く食べ始めた。よほど腹が空いていたらしい。

「そんなに慌てなくてもゆっくり食べればいい。誰も取らないんだからな」

 妹紅が勢い良くかきこむ姿を、慧音は嬉しそうに見つめる。穏やかな朝の一幕である。

「いるかしら?」

とそんな穏やかな朝の一幕に、早朝に聞こえるにしては珍しい声が、庭のほうから聞こえてきた。その声に驚いて慧音が庭に出ると、いつものように非
常識にも中空に開けたスキマから八雲紫が楽しげに手を振っていた。

「これは珍しいお客だ。まだ日は高いぞ、紫殿?」

「あら、私もたまには日の昇っているうちに起きてることもあるわ。例えば宴会の日、とかね」

「それはすごいな。で、今日は宴会のお誘いか何かかな?」

 気だるげに笑い、扇子の向こうで欠伸を噛み殺した紫に、慧音も爽やかに笑みを返す。

「そうじゃないわ。たまたま通りかかったから、顔を見に来ただけよ。すぐに行くわ」

 パタパタと扇子を扇いで否定する紫。紫の言葉に、慧音は頬を吊り上げ、皮肉げに笑う。

「貴女のたまたまほど当てにならないものも、ない気がするがね」

 如何にも胡散臭いといいたげな慧音に、紫は少しも気を悪くした様子もなく、否、むしろ当然であると納得するように流し目をくれた。

「あら信用がないわね。本当よ。ちょっとした用事のついでに、ちょっとした挨拶をしにきただけよ。『今日』の調子はどう?」

 紫は『今日』という言葉に妙なアクセントをつけたが、そのことに慧音は気がついたようすはなかった。紫の質問に「妙なことを聞くなぁ」といぶか
しげではあったが、それでも素直に答えた。

「こう見えても、体が丈夫なことだけが取り柄でね。今日は朝から色々と騒がしかったが、いい一日になりそうだ……っと」

 そこで、慧音が声をあげて、一度家の中に戻った。紫に背を向けた慧音が、スキマ妖怪の口元に浮かんだ邪悪な笑みに気がつくはずもない。そしてす
ぐに慧音は手に一升瓶を抱えて戻ってきた。

「いつだか言っていた大吟醸だ。私は酒はあまり呑まないので、来客用にでもしようかととっておいたんだが、よかったら受け取ってくれないか?」

「あらぁ? すっかり忘れてたわ、ありがとう。けれど、これってなんだったかしら? 何かのお礼だったっけ?」

 紫が扇子で口元を隠して実にワザとらしく言う。慧音は気がつかなかったが、扇子の隠れた口元には邪な笑みが浮かんでいた。あるいは迷いの竹林で
遊ぶ妖怪兎に似た表情とでもいえばいいだろうか。

「さあ、それが不思議なことに私もよく憶えていないんだ。ただ何かお礼をしなければならなかったことだけ憶えていてね。ま、気にせずにもらってくれ」

「そう。それじゃあ遠慮なく。悪いわね、何だか物を貰いに来たみたいになっちゃって」

 そういいながらも紫は慧音の前に開いた隙間からニュッと腕を突き出すと、一升瓶を受け取った。

「案外、その言葉通りなんじゃないか?」

「そ、そんなことないわよっ! 今日は本当に偶々の偶然なんですからっ!」

 イソイソとした紫の様子に慧音が意地悪そうにそう言うと、紫は慌てて扇子を広げて慧音から顔を隠した。そのついでに「全く、どうしてこう勘がい
い奴ばっかりなのかしら」と、慧音に聞こえないように呟いた。不思議そうに首を傾げる慧音を見、気を取り直すように音を立てて扇子を閉じると、紫にし
ては珍しい慈愛のこもった穏やかな笑みを浮かべた。

「しかし、まぁ元気そうでよかったわ。何にしろ平穏無事が一番だものね。それじゃ、今日も良い一日を過ごして頂戴」

「ああ、ありがとう。紫殿こそ良い一日を」

 結局紫の来意が分からない慧音であったが、閉じていくスキマに向かって愛想良く手を振った。完全にスキマが閉じるのを見届けると、慧音は大きく
伸びをした。

「本当に今日は朝から色々とあるな。まぁ、偶にはこんな賑やかな日があってもいいかもしれないが」

 そう呟いて、慧音はゆっくりと綿雲が流れる晴天を眩しそうに仰ぎ見るのだった。

 一方閉じたスキマの向こう側では、緩みっぱなしの頬に手を当てて紫がウキウキしていた。

「不味いわねぇ、これ、癖になりそう……さて、それじゃあ藍に御摘みでも作ってもらうとして、あとは幽々子でも誘って花見酒と洒落こみましょうか。
ウフフ」

 ウキウキと昼間から開く酒宴について、アレコレと想いをはせているのだった。

 かくて世はなべて事も無し。そんな風にして、幻想郷の『今日』はいつもと変わらず過ぎていくのであった。

Fin.

あとがき

と、いうわけで慧音受難編でございました。
何かね、こう、哲学的な感じと言うか、「歴史とは一体何なのか?」みたいなネタにしたかったんですよ。
……その結果がこれだよ……
時間はかかるわ、ホラーみたいな感じの、何か中途半端なガラクタになってしもた。今まで以上に。
ま、それはそれでよいかもしれないねー(棒読み)
結論。幻想郷にホラーはあわん。というか、俺には書けん
因みにタイトルはニーチェとMTGから。……なんという組み合わせ

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