幽冥の華の満開の下

「みーせーて」

「駄目です」

 薄暗い冥界の空を威勢の良い声が突き抜け、切れ味鋭い返答が切り返された。

 大階段を登りきった白玉楼の大門の前に、真っ白い日傘と、側に半魂を連れた小柄な人影があった。

「どうしてよ〜。減るもんじゃなし、ちょっとくらい良いじゃない」

 トレードマークの日傘をまわし、四季のフラワーマスターこと風見幽香が幼子のように駄々をこねた。

「駄目なものは駄目なのです。さっ、そうそうにお引取りを」

 犬猫を追い払うように、魂魄妖夢は手を振った。門前の掃除の途中だということを主張するように、わざとらしく音を立て箒で辺りを掃いた。掃除の
邪魔だといいたいらしい。

だがこの程度のことで引き下がるような幽香では、もちろんない。

「またこのパターン? どうしてこうどこでも嫌われるのかしら? 嫌になるわ」

 悩ましげな溜息をつき、幽香が拗ねたように言う。どうやら直ぐに立ち去る気がないらしい。妖夢があからさまに嫌そうな顔をした。

「自分の胸に手を当てて聞いて下さい」

 それでも性分なのだろう、妖夢は律儀に答えた。その言葉に素直に従い、幽香は自分の胸に手を当て目を瞑り、自分の胸から聞こえる呟きを拾おうと
するように小首を傾げた。

胸に手を当てた時、その女性的な胸元が「プニョ」と形を変えた様を妖夢が憎しみを籠めたような厳しい眼差しで凝視していたことに、目を瞑っていた
幽香は気がつかないかった。もし気がついていたのなら、そのことで妖夢のつつましやかなその姿をからかうであろうことは、想像に難くない。

 妖夢がたっぷりと煩悶できる時間を置いて、おもむろに幽香は瞳を開き静かに微笑んだ。胸に視線を張りつけさせていた妖夢が慌てて視線を外す。妖
夢の動揺など知らぬ気に口元を軽く歪め、幽香はその豊かな胸を誇らしげに照らして高らかに宣言した。

「残念ながら心当たりは皆無ね。これはつまり私はここを通っても良し、ということね!」

「どうしてそうなるんですか!」

 妖夢が何もない地面で、幽香の言葉につまづいた。そして思わず絶叫する。そんな妖夢に、幽香は不服げに頬を膨らませた。どうしてそんなにピリピ
リしているのか、理解できないようである。

「え〜。じゃあどうして通してくれないのよ。霊夢や魔理沙、それにあのスキマ妖怪ですら通してるのでしょう?」

「まぁ、八雲の皆さんは幽々子様のお友達ですし……けどそれ以前にあの人たちを通した記憶がなくとも、何時の間にかお屋敷の中をうろ
ついているんですけれど……」

 ソッポを向いて少し拗ねたように妖夢がブツクサ言った。だがすぐに背筋を伸ばし空咳を一つ吐き、真面目な顔で言葉を紡ぐ。

「それに貴女を通さない理由はそれだけじゃありません。貴女は紫様と違う。……そう、貴女はどこかその身に破滅を呼ぶ雰囲気をまとっている」

 まるで自分が携える二振りの刃のような光をその双眸に宿し、妖夢はわざとらしく悲しそうな顔をしている幽香を睨んだ。そうして続ける。

「あなたは自分が滅ぶ事も厭わずに、ましてや周囲のことなど考えず、平然と暴力を振りまく。貴女の破壊願望に巻き込まれて滅びるのは
真っ平御免だと、誰もが思うでしょう。そして私は、そんな者を白玉楼に招き入れることは出来ない」

 そう言うと、妖夢は玉砂利を鳴らした。空気が肌を刺すように冷たくなったことを、幽香は肌で知る。特に自分の右の首筋、左の脇腹に今正に凍えた
水から引き出したばかりの鉄を押し付けられたような冷たさがあった。二人の間の距離はわずかに三、四歩。無論、その程度の距離、二人にとって問題にな
るはずがない。

その感覚に幽香の頬がほんのわずかに歪んだことを、妖夢は見逃さなかった。何かが合図となった時、この妖怪は仕掛けてくるだろうと、妖夢は直感し
ていた。

二人の緊張の間を、どこから飛んできたものか一枚の葉がヒラヒラと舞っていた。

冷ややかに笑う幽香の視線を横切り、真直ぐに突き刺さる妖夢の眼差しを過ぎ越すと、その葉は、石畳に、落ちた。

その瞬間、妖夢の中の全ての感覚が爆ぜ、研ぎ澄まされる。見えるもの、聞こえるもの、全てがゆっくりと流れていく。何ものも見逃す事無く、何も聞
き逃すことが無いと感じられる。その感覚にあって、妖夢は幽香のどんな攻撃にも対応できる自信はあった。相手の攻撃が届くよりも早く、己の双剣が相手
を三分割、否、それ以上にする切断する自負があった。

しかし、実際には何も起こらなかった。否、正しくは、妖夢の想像したようなことが起こらなかった、というべきだろう。幽香が寸断されることも、妖
夢が消し飛ぶこともなかった。

あったことといえば、幽香が悩ましげに溜息をついたという、ただそれだけの、なんでもないことだけだった。

「わかった、わかったから。今日は出直すわ。だからそんなに睨まないで頂戴」

「……へっ?」

 乱暴に緊張の糸がブッツリと切られ、妖夢は間の抜けた声を出した。

今にも切りかからんとするような妖夢に降参したのか、幽香は両手をあげたのである。そして素直にクルリと踵を返した。

肩透しを食った形になったが、それでも妖夢は気を抜けなかった。もしかしたら自分をからかっているだけで、突然心変わりして攻撃してくるかもしれ
ないと、妙に素直な幽香の背中を、妖夢は疑わしげに半眼で監視し続ける。また何かよかならぬことを企んでいるのでは、という疑いが捨てきれないのであ
る。

「……今日はえらく素直ですね」

「何よそれ? それじゃあまるで私が気に入らないことがあれば暴れだす乱暴者みたいじゃない?」

 疑問を自分の中だけに留めておくことに耐え切れなくなったのか、妖夢は疑いを凝り固め呟いた。それに幽香が微苦笑を浮かべ、可憐に振り向くと批
難がましい声を上げた。だが妖夢は何も言わない。ただジィっと幽香の顔を穴の開くまで見つめるだけである。

「ちょっと、ちょっと! 黙ってないで何とか言いなさいよ!」

 妖夢の沈黙に腕を命一杯振り回し幽香が悲しそうな悲鳴を上げるが、妖夢はそれでも黙ったまま。

「……言葉にして欲しいですか?」

 深く長い沈黙の後、妖夢がおもむろに尋ねた。言葉にするまでもなく、それが答えに等しいといっていいだろう。無論、幽香にもそれが伝わらないわ
けがない。悲しげに溜息を吐くと、拗ねたように唇を尖らせた。

「もうっ! いいわよ、その顔で何を言いたいのか分かったから!」

 そう言うと、トボトボと白玉楼の長い大階段に向かう。そのまま帰るのかと思いきや、数歩行くと真っ白い日傘が翻った。肩の力を抜こうとしていた
妖夢が驚いてそちらを見る。

「……忘れていたわ」

 振り返った幽香は、穏やかに微笑んでいた。明るい笑みにもかかわらず、妖夢には冥界の空よりも暗い何かを含んでいるように見えた。それは恐らく
妖夢だけにしか見えないものなのだろう。あえて言葉にするのならば、いじめっ子の意地のようなもの。

 幽香は可愛らしく小首を傾げると、緊張を漲らせた表情の妖夢に優しく言った。

「覚えてなさい」

 思わず妖夢から溜息が漏れた。

「……しっかりと捨て台詞は残すしていくんですね」

 片目を閉じて眉をしかめ、妖夢が言った。幽香はそれに答えることなく、ただアルカイックな笑みを浮かべると、今度は振り返ることなく白玉楼を後
にした。

 揺れる白い日傘が見えなくなっても、妖夢は緊張を解けなかった。わざわざ最上段まで行くとそこから見下ろして、幽香の姿が消えるまで目を離さな
かった。

「……はぁ。何だか疲れた」

 日傘が見えなくなってからもしばらく妖夢は、再び幽香が戻ってくるのではないかと、視線を外さなかったが、ややあって張り詰めた緊張を解いた。
解かれた緊張が妖夢の小さな肩に、ずっしりと圧し掛かった。

 突然、その肩に疲れとは別の重さが加わり、妖夢の髪が逆立った。

「どうしたのぉ、妖夢?」

「ひゃあ!? ゆ、幽々子様! 驚かせないでくださいよ!」

 不意をつかれた妖夢が大声をあげて跳び退ると、そこには白玉楼と妖夢の主人である西行寺幽々子が、幽霊のように両手をダランと垂らしてつっ立っ
ていた。

「私は何にもしてないわよぉ。妖夢が勝手に驚いたんじゃない。それより、誰か来ていたようだけれど」

その過剰までの反応に、幽々子は心外そうに頬を膨らませ、妖夢の背中の向こうを覗き込んだ。

「はい。花の妖怪が西行妖を見せろと押しかけて参りまして……」

 乱れた襟元を正し、妖夢が答える。それを聞いて幽々子が残念そう眉をひそめた。

「それで追い返しちゃったのね。折角来てくれたんだから見せてあげればよかったのにぃ」

「駄目ですよ。あの人は何をするのかよく分かりませんから」

 のほほんとした幽々子に、妖夢は語気強く答える。

「そうかしら。ただのお花好きだと思うのだけれど……」

 鼻息荒くそう言い切る妖夢の熱を遮るように、扇子で口元を隠して幽々子は呟く。だがそれも直ぐにどうでも良くなったらしい。何かを思い出して妖
夢に尋ねた。

「そういえば、妖夢。今度の宴会の準備は大丈夫かしら?」

 幽々子の呟きを聞き逃さず、さらにそれに反論しようとした矢先に、妖夢は出鼻を挫かれてしまった。乗り出した体を気まずげに引っ込めて、落ち着
いて報告する。

「ご心配なく。それほど大きな宴ではありませんので、手配は済んでいます。プリズムリバーの皆さんにも既に連絡してありますし」

「流石妖夢ね。まあ最初から心配なんてしてないけれど」

 のほほんと笑う幽々子に、妖夢は少しばかり照れたように俯いた。

 今度開かれる宴会は、幽々子の友人である八雲紫とその式神たちしか招待していない、そんな内々の小さな酒宴である。昔はちょくちょくと行われて
いたのだが、ここ最近は宴会があると知るや乱入して来て打ち騒ぐものばかりで、落ち着いて楽しめる宴が少なくなっていた。だから妖夢は今度の宴は、久
しぶりに幽々子と紫が落ち着いて楽しめるようにと、密に気を配っていたのだ。そのために妖夢にしては珍しい様々な工作をしていた。鴉天狗には予め餌を
与え、宴の買出しも複数回に分け、できる限り宴の気配を悟られないようにしていたのだ。それだけのことでも、日頃からそんなことなど気にせず生活して
いる妖夢にとって、知人たちを欺いているような気がして心苦しかった。しかしそれぐらいの心労では、妖夢が止まることはない。どうしても妖夢は幽々子
に静かに宴を楽しんで欲しかったのである。

 時の彼方に流れていってしまったあの頃の白玉楼のように。

 それはゆっくりとだが確実に時の変化を受けている白玉楼の、止まっていた時を、妖夢自身が思い出したかったからかもしれない。

「お任せください。宴を邪魔するものは、たとえ博麗の巫女であろうとも、白楼剣と観楼剣の錆にしてみせます」

 妖夢は力強く答え、薄い胸を叩いた。

 宴の日は、近い。

「ってなんで貴女がいるんですか!」

 そして宴の日。妖夢は思っても見なかった妖怪の姿に、叫び声をあげた。いつも通り現れたプリズムリバー楽団の中に、何時ぞやの白い日傘がクルク
ルと回っていたからだ。

「今日の私は臨時の楽団員なの。これなら貴女も文句ないでしょう!」

 戦慄く指を自分に突きつけて色を失くした妖夢に、幽香は勝利の栄光に満ちた笑顔で高らかに宣言した。それは妖夢にとっては死刑宣言に等しい。

「な……な……何ですってぇぇぇぇ!」

 周りの目など気にする余裕も無く、妖夢がまた叫び声を上げた。その声に、宴会の準備をしている幽霊たちや、談笑していた幽々子や紫までが何事か
という目を向ける。その訝しげな視線に、妖夢が火がついたように顔を真赤にして慌てて口を抑えた。舌鋒の鈍った妖夢に、幽香は腰に手を当てて胸を張り、追撃を仕掛ける。

「ちなみに楽器は全く演奏できないわ!」

「そんなこと威張るな!」

 思わず妖夢が大声でツッコミを入れる。その反応が期待通りだったのか、幽香は満足そうに頷いた。

「そんなにお花見がしたかったのなら、そうと言ってくれればよかったのに」

そんな風に騒がしくしていると、楽しそうなことをしているとでも思ったらしく幽々子がいつものようにススッと寄って来ると、妖夢の肩に手を置た。

「ありがとう。けれど、あなたのところの庭師がね、どうしても私を入れたくないらしくてねぇ……」

 申し訳なさそうな幽々子に、幽香は気にした様子もなくニッコリと微笑んだ。その笑みは春の到来を察し、一斉に蕾を綻ばせた桜を思わせるほど艶や
か。しかしすぐに頬に手をあて、わざとらしく悩ましげな溜息をついた。その姿はまるで萎れた花のように痛ましく、折れてしまいそうな程に弱弱しい。

 その百面相を目の当たりにして、妖夢の頬がひきつる。対して幽々子はその変わり身の早さについていけなかったのか、溜息だけしか聞こえなかった
らしく気の毒そうな顔をした。

「まあそうなの。駄目よ、妖夢。そんないけずをしちゃあ。私はそんな子に育てた憶えはないわよぉ?」

 幽々子が眉をひそめて、妖夢の髪を優しく撫でる。だがその手は今の妖夢にはあまりに痛い。妖夢が悲しそうに幽々子を見上げた。

「し、しかし、幽々子様……」

「妖夢?」

 そんな妖夢に幽々子は優しく笑いかけ、いつもと変わらない調子で言った。多くの言葉を費やさずとも、妖夢にはそれだけ十分だった。悲しそうな顔
のまま、幽々子に頭を下げた。

「……はい。申し訳ありませんでした」

 だが幽香には頭を下げなかった。妖夢なりに意地悪をしたつもりであったが、そんなことは幽香には関係がなかったようだ。オジギソウのように萎ん
だ妖夢を見ているだけで満足らしく、二人のやり取りを見てニヤニヤ笑いを浮かべている。

「そうそう。半人半霊は素直が一番よ」

「貴女がいうな!」

 当然のようにヤレヤレと肩をすくめた幽香に、妖夢が声をあげた。

 幽香を交えて幽々子と紫が談笑し始めると、妖夢は再び宴の準備に戻った。しかし料理や宴の席を整えている幽霊たちに合流しなかった。辱めを受け
た羞恥と怒気で赤くなった顔で妖夢が突進していくのは、宴の席から少し離れた場所に設置されている雛壇である。そこはプリズムリバー姉妹の演奏が行わ
れる場所でもある。

 妖夢はそこで舞台設営をする幽霊たちを指揮したり、妹たちと演奏の打ち合わせをしているルナサを見つけると、目にも止まらぬ速さでルナサの首根
っこを引っつかみ、人目につき難い桜の木立へと引きずり込んだ。ルナサと打ち合わせていた二人の妹たちには、突然姉の姿が影も形もなくなったようにし
か思えなかっただろう。

 あっという間に人目につかないところまで来ると、事の成り行きについていけず目を白黒させるばかりのルナサに、間髪いれずに妖夢が叫んだ。ここ
まで我慢していたものが噴出したのだろう。今にも斬りつけんばかりの勢いでルナサに迫る。

「ちょ、ちょっと! これはどういうことです!」

「……えっ? えっ? ちょっと何? 話が見えない」

 色々な感情の昂ぶりですっかり話の主題を抜かしていることに気がつかない妖夢に、全く要領を得ないルナサが驚きと怯えで首をすくめる。ルナサの
目に、少しだけ光るものが溢れていたが、勿論今の妖夢が気がつくはずがない。

「どうして風見幽香が楽団員なんですか!」

 怯えたルナサに畳み掛けるように妖夢が怒鳴りつけると、ルナサが手をかざしてその怒声から顔を庇った。ルナサの瞳の縁に溜まった煌きが一筋、頬
を濡らした。

「……聞こえてる……聞こえてるから、そんなに怒鳴らないで……」

 嘆願するようなルナサの涙声に、ようやく妖夢は自分が随分と無礼な態度をしていたこと、いつも物静かなルナサを怯えさせていたことに気がついた
らしい。慌てて身を引くと何度も何度も頭を下げだした。

「……っ! ああっ! すいません! 本当にすいません! その、脅かすつもりなんてなかったんですけど、あの、私も動転してて……」

 まるでおきあがり小法師である。

「……うん。大丈夫、大丈夫、だから。私も、ちょっと気が動転してて、……ごめんね、妖夢。私こそ驚かせてしまって」

 掌でゴシゴシと涙を拭い、ルナサが無理に笑った。その笑みが痛々しくて、妖夢は再び頭を下げるが、ルナサは気まずそうに頬をかくと、妖夢の肩に
手を置いてそれをやんわりと止めた。

「もう大丈夫だから、ね? それより私に何か聞きたいことがあるんじゃないの?」

 その言葉に妖夢が顔をあげる。どうやらルナサに尋ねることがあることを、すっかり忘れていたようである。

「そ、そうです! そうでした! 件の花の妖怪が自分は楽団員だと名乗っていたのですが、あれはどういうことですか?」

 妖夢は勢い込んで尋ねた。今度は程ほどの節度を保って。

 それを聞くと、ルナサは困り果てたようにソッポを向いた。できれば話したくないようである。できれば話さずにすめば良かったのにと思っている様
子がありありと見て取れる。

「……そうなの。押しかけてきてはどうしても、というので仕方なく」

「どうして断らなかったんですか!」

 また胸倉を掴みそうな勢いの妖夢に、ルナサは薄暗く、皮肉げに頬を引きつらせて笑う。言うまでもないだろうと、そう言いたい様である。

「……そんな恐いこと、できるわけないでしょう?」

「……むっ、確かに、そうですが」

 そう言われると妖夢も言葉に詰まるしかなかった。確かに相手はあの風見幽香である。意にそぐわない返事をすれば、どんなことをされるか分かった
ものではない。プリズムリバー三姉妹も強力な騒霊とはいえ、音楽家である。争いごとには向かないことは明らかである。

 眉間に皺を寄せる妖夢に、ルナサはほんの少しだけ明るく笑った。

「大丈夫。貴女が心配するようなことは起らないわ。それに楽団員に雇ったというのは、唯のハッタリじゃないのよ? 彼女は一応、今回
のライブの奥の手なんだから」

 その言葉には妖夢を安心させようと言う以上の自信が感じられた。こと音楽に関してプリズムリバー三姉妹、それもその長女であるルナサ・プリズム
リバーが言うのである。それは十分に信頼に値する言葉である。しかしあの花の妖怪に関して、妖夢はどうしても一抹の不信感が拭えないのである。ルナサ
の言葉も、生来のトラブルメイカーの暴走の前には、溺れるものが掴む藁よりなお細く頼りなく見えてしまう。しかも先程の本人の言葉も気になっていた。
だからそれを尋ねた。

「……けれど楽器は何にも演奏できないって威張ってましたよ……本当にあてにしていいんですか?」

 それを聞いてルナサの笑みに影が戻ってきた。ついでに不安そうに頬がピクピクと動いている。普段のルナサである。

「……そ、そうなんだぁ……一週間くらいで何かを何とかするって言ってたけど、どうするつもりなのかしら……」

「……今、何か不安なことを呟きませんでしたか? ……本当に、ほんとぉーに! 大丈夫なんですよね?」

 言葉の最後は聞こえないように言ったつもりなのだろうが、妖夢の耳にはしっかりと届いていた。疑わしげな眼差しに痛々しくも悲しみの光を宿した
妖夢に、珍しくルナサが元気づけるように言う。

「大丈夫、大丈夫よ。私たちに任せて。私たちがライブを失敗することはないわ。たとえ彼女が失敗したり、暴れだしたりしてメチャクチ
ャにするとしても、何とか立て直して見せるから」

 そう言ってルナサは細い腕をクイッと曲げ、あるかどうか分からない力瘤を作って見せると、不器用にウィンクして見せた。

 両目を瞑ってしまっているルナサに、妖夢がつい噴出してしまう。つられてルナサも明るい声を上げて笑った。こちらは珍しいルナサである。

「貴女がそこまで仰るのでしたら、心配することすら失礼にあたるのでしょうね。分かりました。今日はよろしくお願いします」

「謹んでよろしくお願いされるわ」

 一頻り笑い合うと、妖夢が言い、ルナサが答えた。どこか頼りなさ気に見えるその力瘤に、しかし今の妖夢には頼もしく見えた。

 かくて妖夢の心配を余所に、宴は和やかに始まった。

 冥界の桜はいまだ蕾すらついていないのだが、幽冥の朧な空にその繊細な枝振りは良く似合っていた。

 酒を注ぎ、料理を運びながら、妖夢は幽香の様子を窺っていたのだが、妖夢が心配することもなかった。本人が宣言したとおり、騒霊たちの演奏にこ
そ参加はしなかったが、妖夢と同じように場を切り盛りし、和やかな雰囲気を演出するように努めていた。料理が均等に回るように、常に酒を絶やさぬよう
に、目立つことはないが宴が円満に進むように気を配っていた。また演奏の合間合間に騒霊たちにも酒食を運ぶその細やかな気配りに、妖夢は驚きを禁じえ
なかった。

どうやら今日は本気で、宴を演出する側に回る気のようだった。

 ふと見ると、幽香は紫の式神である八雲藍と式の式である橙の側で、色とりどりの花を咲かせていた。

「うわっ! すごーい! 綺麗な花ー」

 橙が目を輝かせて歓声を上げる。花を褒められ、幽香も満更ではないようである。

「これはハシリドコロという花よ。これを食べればどんなに疲れてても、野山を駆け回れるようになるという、すごい花なの」

「へぇ〜、すごーい!」

「橙に変なことを教えないでー」

 しれっととんでもない花を見せている幽香から橙を庇うように、藍が橙を抱きすくめる。それを見て幽香が妖しげに笑う。

「あらあら。本当に変なことを教えてるのはどっちかしら?」

「どういうことでしょう、藍様?」

「橙は気にしなくて良いからね」

 真直ぐで純真な瞳で自分を見上げる橙の頭を撫で、藍が慌てて諭すように言うが、すかさず幽香が横から茶々を入れる。

「いやいや子猫ちゃん。ここはちゃんと聞いておくべきよ。好奇心旺盛だと、きっとご主人様も喜んでくれるし、もっと可愛がってくれる
わよ」

 それを聞いて、橙の顔がパアッと明るくなった。

「そうなんだ! 藍様! もっと色々教えてください!」

「うーがー! 余計なことを言うなー!」

 素直に喜ぶ橙の様子にクスクスと忍び笑いをもらす幽香を藍が威嚇する。しかしその様子に橙が驚いて、身を竦め恐る恐る尋ねる。

「どうしたんですか、藍様! もしや私に何も教えたくないとか……」

「そ、そんなことあるわけないじゃないか、橙! もー! あんたが余計なことを言うからー! あっち行けー!」

「何だか妖夢が心配するまでもなかったわねぇ」

 感心した端から、橙と藍の目の前で花を咲かせては悪戯している幽香に、妖夢が呆れたように肩を落す。そんな妖夢に幽々子が言った。なんだかんだ
と言いながら、幽々子も幽香の存在を気には止めていたようである。それを聞いて紫が鼻で笑った。

「貴女は心配しすぎなのよ、妖夢。派手な宴会なら、それはそれでいいんだから」

「はい。すいません」

「まあいいじゃない、紫。それだけ妖夢が頑張ってくれたってことなんだから」

しゅんとしおれた妖夢を励ますように、幽々子が優しく妖夢の髪を撫でた。

 紫はそれに答えず、分かっているといいた気に杯を一息に飲み干した。

「ありがとうございます、幽々子様」

 妖夢は照れ臭そうに呟くと、そっと幽々子の微笑みに目をやった。

「さて、こちらも楽しんでらっしゃるかしら?」

 その声に妖夢が顔を上げると、すぐ側に幽香がいた。どうやら式神たちをからかい飽きたようだ。

「あら。おかげさまで、良い心地よ」

 紫が杯を掲げ、それに答えた。

「妙なる調べに、気の置けない友。芳醇なる美酒に、美麗なる華と揃えば、文句のつけどころもないでしょう? ねえ、幽々子?」

「そうねぇ。今日は久しぶりに落ち着いてて、風情があってよかったわぁ」

「そう。それは良かった」

 紫と幽々子の賛辞に、満更でもないように幽香が艶やかに笑う。その笑みは何かを企んでいる時に見せる、意地の悪い笑みである。その笑みに紫がそ
っと幽々子と目配せを交わす。「そら来た」、そう言っているようである。

「宴も酣ということなら、そろそろ始めましょうか」

 その言葉に妖夢の片眉がピクリと動いた。

「……何を始めるつもりです?」

 その問には答えず、幽香はただ得意気な笑みを浮かべるだけ。そうして三人から離れると、ルナサに意味ありげな視線を投げた。それに応じてルナサ
が頷き、妹たちに合図を送る。

 その合図で一斉に音が止んだ。

一同が何事かと、騒霊達と意味ありげな笑みを浮かべて佇む幽香に、もの問いたげな視線を送る。辺りを見回し、満場が自分たちに注目していることを
確かめると、幽香はおもむろにスカートの裾を抓んで恭しく一礼した。

幽香の一礼を合図に、騒霊たちの演奏が再開される。

それは先程までの緩やかに、漂うような穏やかな楽曲とは違う、荘厳で力強い旋律。

 幽香が一歩前に出ると右手を伸ばし、左手を胸に当てる。

 幽香が歌う。

 澄み渡る湖面を思わせる涼やかで清浄な声で、永い時間を生きる者たちの友情を歌う。

よからぬ事をするのではないかと片膝を立て、何時でも飛び出せるようにしていた妖夢が驚きのあまり表情を失くした。幽々子と紫は意外なものを見た
と、思わぬものを聞いたと、口をポカンと開ける。ワイワイと騒いでいた橙でさえも、その歌声に声を失っている。

 予想通りの反応に、幽香は微笑すると、驚いている幽々子の目の前で握った拳をゆっくりと開いた。そこには一輪の蓮の花が咲き誇っていた。幽香は
芝居がかった仕草で跪くと、その花を捧げるように幽々子に手渡した。

 幽香が詠う。

 数え切れぬ夜の夢に咲く、蓮の華の歌を。

 幽香が右手をそっと差し出し、紫の胸元を指し示す。紫の胸元に小さな蓮の花が、ブローチのように慎ましやかに咲いた。

 幽香が謳う。

 傍らで眠る者の夢で育まれる、未来に綻ぶ蓮の蕾の歌を。

 幽香が藍と橙の手を取り重ね合わせる。二人の手のその中に、一輪の薄いピンク色をした蓮の花が咲いた。

幽香が歌う。

 幾千の夜の夢の華を、幾万の邂逅の華を歌う。

 紫がそっと幽々子を見た。幽々子が微笑み、紫の手を取った。

 二人の手の中に咲いた華に釘付けになっている橙に、藍がそっとその頭を撫でた。

 幽香が歌う。

 蒼穹の夢の下に咲き誇る、大輪の蓮の華の歌を。

妖夢は幽香の歌声にただ呆然とたゆたっていた。だから何時の間にか目の前に幽香の笑みが合ったことに気がつくことができなかった。幽香は驚く妖夢
の髪をそっと撫でる。一瞬怯えたように体を引いた妖夢だったが、髪に置かれた手の優しさに幽香の笑みを見上げた。妖夢の髪に幽香は蓮の花を髪飾りのよ
うに咲かせた。

「……う、うわっ。か、可愛いかも……」

驚いて頬を赤らめる妖夢に、幽香は優しく微笑んだ。

 幽香が謳う。

 遥かな時間の果に咲き乱れる、蓮の華の夢を。

 幽香が両手を広げた。

その手の導かれるように、宴の空に綺羅星の如く見事な蓮の華が咲き乱れ、辺りを夢幻の美しさと芳香に包み込んだ。

幽香の歌声が終わると、宴の席に水を打ったような沈黙が舞い降りた。誰もが声を出すことを忘れ、耳朶に残る歌声と蓮の美しさに酔いしれているよう
だった。

その沈黙を破る、籠もった拍手の音がした。紫が手を打ち鳴らしていた。その音を呼び水にあちらこちらから拍手が起こる。それはいつしか万雷の拍手
へと変わっていた。

鳴り止まぬ賞賛の中、幽香はスカートをつまみ、優雅に一礼した。

「意外ね。貴女にこんな特技があったなんて」

 してやられたというような顔で、紫が言った。幽香は三度恭しく一礼し、苦笑いを浮かべた。

「お褒めに預かり恐悦至極ですわ。それにしても意外とは心外ねぇ。歌なんて誰でも歌えるでしょう?」

「いやいや。貴女の歌は素晴らしかったわ〜。何と言うのかしらね、聞いた事のないはずの歌なのに、こう懐かしいというのかしら。そ
んな不思議な歌だったわぁ」

 複雑な様子の幽香に、幽々子が幼子のように素直にパチパチと手を打ち鳴らし賛辞を送る。しかしその賛辞に、幽香は軽く首を振った。

「それは奏者が良かったからじゃないかしら?」

 賛辞を独り占めにすることに気が引けるのか、幽香が壇上の三人の騒霊に水を向けた。しかし壇上では当の奏者たちですら幽香に拍手を送っていた。

「いや、私たちも驚かされたよ。まさか、ここまで歌えるとは思ってもみなかった」

ルナサが軽く手を叩きながら言う。

「どうせ口から出任せか、大したことないもんだと思ってたもんね」

 ルナサの言にリリカが余計なことを付け足す。ルナサがリリカの頭を小突いた。そんな寸劇に、宴の席に笑いの花が咲いた。

「ね? 言ったとおりでしょ? 今日の私は楽団の一員だって」

 口をポカンと開けたまま固まっていた妖夢に、幽香は悪戯っぽい笑みを向けた。

「……正直に申しますと、貴女がこんな優しい歌を歌えるとは思っても見ませんでした」

 ややあって抜け出た魂か魄かを取り戻し、妖夢がオズオズと幽香の顔色を窺うようにして言った。

「あら、失礼ね。そんなこと言うと、イヂメちゃうわよ?」

 言葉ではそう言ったが、幽香は穏やかな笑みを浮かべたままである。ただ機嫌のいいときの方が性質が悪いと言えなくもない。妖夢もそう考えている
のか、慌てて首を振った。

「ほ、本当にすいません。あの、私、そんな意味で言ったわけではなく、その、あの……」

 妖夢は顔の前で両手を振り、幽香のサディスティックな視線を振り払おうとするが、その手をすり抜け、幽香の手が妖夢の頬を妖しく撫でる。

「ダーメ。貴女に残された道は、いい声を上げて私にイヂメられる道しか残っていないの」

「えっ! えっ! ちょ、ちょっと待って! ちょっとそこ! お二人も見てないで、……た、助けてくださぁぁい!」

 どこかのスイッチが入ったらしい幽香の艶かしい視線から顔を背け、妖夢は幽々子と紫に助けを求める。その視線に紫は気がつくが、しかし助けの手
を差し伸べるどころかいやらしく唇を吊り上げた。

「それはいい酒の肴になりそうね」

「ちょ! 紫様!」

 明らかに楽しんでいる紫に妖夢が抗議するように声をあげる。それぐらいしかできないのである。そして紫ではどうにもならないことに気がついたの
か、今度は幽々子を見た。しかし幽々子も何時もと同じように優しく笑っていた。

「あらあら。それは覚悟した方がいいわねぇ、妖夢?」

「そ、そんなぁ! 幽々子様まで!」

 主の言葉に唯一の望みを断たれた妖夢が悲痛な顔をし、幽香が喜色を湛えた笑みを浮かべた。

「さぁて。ご主人様のお許しも出たことですし、あっちの方で楽しみましょうか? ……ふふっ、大丈夫よ。痛いの始めだけ」

 何時の間にか妖夢の背後に回りこむと、スルスルと蛇のように幽香の手が妖夢の体に巻きつく。その様は獲物を飲み込むアナコンダさながらである。
チラチラと唇から覗く真赤な舌も含めて。

「イヤぁぁぁぁぁぁ! 誰かぁぁぁ! 助けてくださぁぁぁい!」

 伸ばした妖夢の手は、藁すら掴むことはなく、ズルズルと食虫花に飲み込まれていった。

 そこでは数え切れぬほどの桜たちが、未だ訪れぬ春を静かに待ちわびていた。

 白玉楼の二百由旬の庭の奥、プリズムリバー姉妹の幻想の音すら微かにしか聞こえない、そんな場所に真っ白い蓮の花が一輪咲いていた。

「……やはり、ここにいたのですね」

「あら? 息巻いていたわりに、遅かったわね?」

 背後の妖夢の声に、待ちくたびれたように溜息をつき、幽香が振り向いた。

 妖夢の両手には二振りの刀が握られている。迷いを断つ白楼剣と妖を斬る楼観剣、妖夢の愛刀である。

「ええ。幽々子様は兎も角、紫様の目を欺くのに時間がかかってしまって」

「さてさて。本当に四つの目を欺けたのかしらね?」

 草臥れたようにこぼした妖夢に、幽香は意味ありげに微笑む。しかしそんな幽香に取り合わず、妖夢は手にした白楼剣の切っ先をその笑みに向かって
突きつける。

「一体を何を企んでいる? わざわざ楽団員だなどと戯けたことを言ってまで、ここにやって来た目的は何?」

 妖夢の切っ先から放たれる殺気にも関わらず、幽香は惚けたように顎に指を当て、わざとらしく悩んでみせた。

「目的? 目的ね。そうねぇ……」

 そうして幽香は妖夢に背を向けると、それを見上げて答えた。

「これが見たかったの。この桜をね」

 幽香の視線の先、そこには周囲の桜とは比べるべくもない程巨大な、一本の桜の大樹があった。

 西行妖。白玉楼が誇る、妖怪桜である。

 ある時は花に誘われ近づくものを死へと誘うと恐れられ、ある時はこの桜を咲かせようと幻想郷の春を集めさせることになり、冬を長引かせる元凶と
なった、曰くつきの桜である。

「どういうことです? わたしはてっきりあなたが西行妖を咲かせようとしているのかと思いましたが、違うというのですか?」

 普段の妖夢ならば、こんな質問などしないだろう。ましてや相手は花を咲かせる程度の能力を持つ、妖怪台風とでも言える風見幽香である。いつもな
らば、問答無用で切りかかっているところである。だが今日の妖夢はそうはしなかった。

「違うわ。私はただ確かめたかっただけ」

 幽香の声が、彼方からの幻の音と同調する。その声が、妖夢の耳に先程の幽香の歌声を思い出させた。

「確かめたかった? 一体何を?」

 ただ切っ先だけは幽香の背から外さない。そして幽香も、そんな妖夢を気にした様子もなく、無防備に背中を向けたまま詠うように続ける。

「そうね。この桜の心、といったところかしら」

 桜の木々を抜け、控えめに響く旋律が二人の間を満たしていく。妖夢はまるで自分が夢を見ているような、そんな心地よい眩暈を感じていた。

「この桜は、一人で寂しかったのでしょう。だからこそ、人を死に招いた。生者は彼女に近寄ることはできないから。だから側にいてもら
うためには、死人になってもらうしかなかったのでしょう。しかし今は、こんな風に宴会も開かれ、彼女も寂しくない。だから彼女はきっと幻想の春全てを
集めても、花を咲かせることはなかったでしょう」

 そういって妖夢に振り返った。思わず妖夢が息を呑み、切っ先を外してしまう程の穏やかな微笑を浮かべて。

「だって、そうしたらきっと彼女はまた一人ぼっちになってしまうもの」

 妖夢には、刹那、西行妖が満開の花弁を開いている姿が映った気がした。

その時、木々の間を枝葉を揺らす強風が吹きぬけた。

 幽香が髪を押さえ、妖夢が片目を閉じた。

 風が通り抜けると、幻は既に突風に連れ去られていた。妖夢の目にはいつもと変わらぬ西行妖だけがあった。

 呆然とする妖夢を、幽香は見守るように笑う。まるで妖夢が何を見たのか知っているようである。

「それに、この桜は私の力でも咲かせることはできないわ。この桜は花の姿をしているけれど、その本質はもう花ではない。この桜は結界。
すでに閉じた世界。この桜は封印しているものと封印されているもの、そして無数の魂魄が混じりあい溶け合って、すでに境目のない世界となっているのよ。
それを分かつことは、もう誰にもできないでしょう。なぜなら封印された者も、封印している者も、お互いを必要としているのだから」

 そう言って意地悪く笑った。まるで西行妖の秘密に気がついているかのように。そうしてその笑みから、毒を抜いた。

「まあ、それはさておき、そんな訳だから、たとえあなた達が幻想郷の全ての春度を集めたとしても、この桜が満開になることはなかった
でしょうね」

 そうしていつもの意地の悪い笑みを浮かべて続けた。

「つまり貴女の努力は無駄だったってこと。ご愁傷様ね」

「……まあ、それは些細な問題です」

 俯き、妖夢が刀を下ろした。幽香に危険はないと判断したらしい。あるいは腕が疲れただけなのかもしれない。

 そんな妖夢に、幽香は優しく尋ねる。

「それに、あなたも桜を咲かせたくはなかったのでしょう?」

 その問いに妖夢は俯いていた顔をあげた。どう答えればいいのか困ったように、眉間には皺が寄っている。

「……さあ、どうなんでしょうか。確かに私はあの桜を咲かせることが良くない事は知っていました。……けれど、どうだったのでしょう
かね、本当のところは。……私にもわかりません。ただ私は幽々子様の願いをかなえて差し上げたかった。ただそれだけなんですよ」

 それを聞いて幽香が苦笑する。

「あなたもとことん苦労性ねえ」

 妖夢が不思議そうな顔をした。

「そうですか? これが普通ですけど」

「そこがなおさら不憫なのよ」

 そして幽香が珍しくその言葉どおりの顔をしたのだった。

「良い従者を持ったわね」

 妖夢が宴の席へと戻り一人になると、幽香はおもむろに西行妖に向かって声をかけた。否、誰もいない筈のその背後に潜む者に向かって話しかけた。

「あらぁ、何時から気がついていたのかしら?」

 小春日の縁側を思わせる穏やかな声と共に、紫色をした空間の裂け目から西行寺幽々子が姿を現した。どうやら紫のスキマを借りたらしい。

「最初から、かしらね」

 なんということもなく、幽香が答える。恐らく幽々子も最初から気がついていたということは分かっていたようである。宴の方に視線を向け、花曇の
ようにぼんやりした笑みを浮かべた。

「そう。あの子はいい子よ。真直ぐすぎるのが、少々気になるところだけれど」

 それを聞いて幽香が顔をしかめ、歎息した。

「ならいいわよ。私のところは二癖も三癖もある連中しかいないから、本当に困ってしまうわ」

「何と贅沢な悩みだろう」、道化てウィンクした苦笑から、そんな幽香の声が聞こえてきそうである。幽々子は口元を扇子
で覆い、優しい眼差しで幽香を見る。まるでその道化た姿の奥底にあるものを見透かしているように。

「あらあら。それは楽しそうですわねぇ」

 幽香が肩をすくめた。そのアクションが幽々子の慧眼に対してなのか、それともそののほほんとした言葉になのかはまでは分からない。

「おかげさまで、退屈はしないけれどね。……さて、と。それじゃあ宴会の席に戻りましょうか」

 そう言って幽香はクルリと踵を返した。その背に幽々子が声をかける。

「そうね。今度は私が貴女をおもてなしする番ですからね」

「おお恐い。手加減願いますわ」

 振り向いて幽香がわざとらしく身震いし、肩を抱く素振をした。

「そんなそんな。是非にも全身全霊のおもてなしを受けて頂戴な」

 そう言って幽々子が嬉しそうに笑った。

「だってこんなにも西行妖が嬉しそうなのですから」

 そして二人が西行妖を見上げる。

 二人の目には、その桜が美しく咲き誇る幻想が見えていたのかもしれない。

 風もないのに、西行妖の枝が微かに風に揺れた。

庭師YOMU

「こう落ち着いた宴も良いけれど、少し派手な催しが欲しいと思わない?」

 誰にともなく唐突に、紫が言った。その言葉に真っ先に反応したのは、勿論、妖夢である。幽々子に酌をしていたのだが、ギョッとして紫を見た。
「何を言い出すんだ」と喉元まで出掛かっている表情である。そして次に反応したのは、妖夢の予想通りの者である。勿論、妖
夢としては当たって欲しくない予想であったのだが。

「そうねぇ。今日は人様の宴会だからと遠慮していたけれど、やっぱりそういう賑やかしも必要よね」

そう幽香が答えた。幽香を見た妖夢の顔が、「乗ってこないでぇぇ!」と悲鳴を上げている。そんな妖夢に気がついていな
がら、紫は知ったことではないとばかりに膝を乗り出す。

「やっぱりそうよねぇ。何か酒の肴になることがないと、宴会とは言えないわよねぇ」

 音を立てんばかりに歯軋りしている妖夢に流し目を送りながら、紫がニヤニヤと笑う。

「あらあら。いじめっ子が二人に増えちゃったわねぇ、妖夢?」

 人事とばかりにころころと鈴の音のように笑う幽々子を、妖夢が恨めしげに睨みつけた。片や既に膝立ちになり、片や手にした杯の酒を飲み干し、凶
悪な二妖にんまりと邪悪な笑みを浮かべる。

「ちょっと、お二人とも! お願いしますから、今日だけは静かに過ごしてください!」

 場に妖しげな雰囲気が漂い始めたことに我慢できず、刃のような瞳で妖夢が二人の間に切り込んだ。

「むー。つまらない子ねぇ」

 真剣な様子の妖夢に、興を削がれたのか紫が唇を尖らせたが、それ以上しつこく食下がることはなかった。あまりイジメすぎると本当に刀を抜いてき
かねないと思ったのだろう。それに宴の席を台無しにするわけにはいかないという程度の意識はあるようである。

「仕方ないわねぇ。ここは庭師の顔を立てておくとしましょうか」

 対して幽香は妖夢の慌てる姿が満更でもないようで、声を殺して笑っている。

「もう! それじゃあいいわよ。代わりにもっと飲んでやるんだから! 妖夢! お酒を持ってきて! あと適当におつまみも!」

「あぁ、妖夢ぅ。私にも食べるもの頂戴〜」

意外にも幽香が素直に身を引いてしまい、暴れる口実がなくなってしまった紫が不貞腐れて手にした徳利を振った。そして紫に習って、幽々子も空の大
皿を振る。そんな二人の周りには空になった皿や重箱、徳利や一升瓶が死屍累々と積もっていた。まさしく一騎当千の宴の楽しみぶりである。

「あぁ、はいはい。少々お待ちください!」

 妖夢は宴の席を見回す。しかしそのどれもが空っぽであった。ほとんど休む事無く飲み食いしていれば、仕方のないことだろう。それも冬眠前のヒグ
マかうわばみもかくやというほど貪欲な面々である。いくら料理や酒があっても足りないのである。おまけに今日は思わぬ客(?)である風見幽香までいる。
宴が始まった時でこそ、甲斐甲斐しく働く姿しか見ていなかったのだが、よくよく見るとその合間にきっちりと飲み食いしていたのである。それも結構な量を。
料理を皿に取分ける時にしっかり抓み、何本もの徳利を受け取ると、そのうちの何本かは手元に残す。妖夢がそのことに気がついたのは、幽香の周りにも見
慣れた宴の残骸があったからに他ならない。

妖夢はどうしてこう力のある者ほど、健啖家で大酒呑みなのか不思議でならなかった。あるいは大食いの大酒呑みだからこそ、力を持つというものなの
だろうか。そんなことを考えながら、妖夢はひたすら料理を増産している台所へと駆けていった。

そんな必死の後姿を見つめ、幽香は一人ニヤニヤしていた。どうやら狩人の本能が、妖夢の中にイヂメられっ子属性に反応しっぱなしのようである。

「一振りは人の迷いを断って」

興が乗ってきたのか、幽香が即興で歌を口ずさむ。

幽香の見ている先で妖夢が厨房へ向かう途中でメルランに止められた。どうやらメルランも何か妖夢に何かを取ってきて欲しいらしいのだが、口元から
トランペットを放さないせいで何を言っても「プップープップー」と間抜けな音が聞こえるだけで、何を言っているのか分から
ない。おかげで妖夢が何度も繰り返し聞き返すのだが、本人が気がついていないらしく、一向に口元からトランペットを放そうとしない。

「二振りで世の妖を斬る」

「ぷっぷー!」と警笛よろしく一際甲高い音を響かせると、メルランが自分の音に興奮したように、躁音を撒き散らし宴の
席を飛び回り始める。

「お願いしますからっ! 騒がないでくださいー!」

 トランペットに負けないくらいに声を張り、宴の空に舞う躁者を追い、二百由旬も一足の歩行でもって庭師が宴の空を疾駆する。

「三度の恵みで宴の世話をして」

 自らの太刀筋のように一直線に踏み込む妖夢に、しかしメルランを捉えることができずにいた。目にも止まらない踏み込みなのだが、あちこちを跳ね
回る音のようにクネクネと捩れながら飛ぶメルランに翻弄されるばかり。

「四方をスペルの四円で囲む」

「六道剣『一念無量劫』!」

 スペルカードを発動させ、斬撃と弾幕でもってメルランを囲い込むが、当のメルランはというと、見事なまでにそれらの間をスルリスルリと抜けていく。

「きっー! 何て小憎らしい!」

 涙目で妖夢が歯軋りする。突然始まった鬼ごっこに紫とリリカが手を打ち鳴らして囃し立て、幽々子が声援を送る。

熱を帯び始めた宴を傍目に身ながら、幽香は微かに頬を紅く染め、程よい酩酊に漂っているルナサに酌などしていた。閉じかかっていた瞼をユルユルと
上げて、ルナサが幽香に杯を掲げた。

「休まず妖夢 働くよ妖夢 宴の席に全て足りるまで」

 チビリと酒を舐め、ルナサは手元にヴァイオリンを呼び寄せる。そうして口元を悪戯っぽく歪めると、幽香の歌声に合わせて即興で爪弾き始める。い
つもの鬱の音も酔いどれて、馬鹿笑いを上げている。

「たんととれツマミ ダントツに豪快に」

 自分をだしに小さな音楽会が開かれていることなど知る由もなく、妖夢は何とかメルランを羽交い絞めにして席に落ち着かせリリカに押し付けると、
厨房に突撃し、片手に料理を詰めた重箱を何段も重ね、もう片手に持てるだけの銚子を持ってきた。餌を待つ雛鳥のように口を開けて待つ幽々子に右往左往
し、お前も飲めと徳利を差し出す紫の酒を断れず、片手で大食いに餌を与え、片手で酔いどれの酌を受ける。

「パンパンにシャツを 酒食で張らし」

 リリカが妖夢を呼ぶ。慌てて片手で重箱を引っつかんで、中身全部を幽々子の口にぶち込み、紫の持つ徳利を奪うと一息に飲み干す。目を白黒させる
幽々子と妖夢の飲みっぷりにはしゃぐ紫を残して、妖夢が宴の席を走る。

「たんと飲め酒を 宴の空に」

 リリカと話し始めるや、こちらの都合など知ったことではないとばかりに空徳利をかざす紫と、重箱を振る幽々子。

 藍が妙に赤い顔をした妖夢を気遣うが、妖夢は軽く手を上げて大丈夫だと答える。

 腕を捲り、皿やら杯やらをかわして妖夢が右に左に走り回る。

あっと言う間に妖夢が幽々子の前にあらわれる。

「……妖夢?」

だが妖夢は、なぜか立ち尽くしたまま、何も言わない。幽々子が不思議そうに妖夢の顔を覗きこんだ。その時、グラリと妖夢の体が傾いだかと思うと、
バタンと頭から幽々子に向かって倒れてしまった。

「あらあら? どうしたのかしら」

「大方さっき一気飲みした酒が回ったんでしょう。飲めないのに無理して飲んで、すぐに走るもんだから。馬鹿な子ねえ」

幽々子の膝の上で目を回す妖夢の頭に手をおいて、紫が呆れたように笑った。

「働け庭師、休まず妖夢」

「みょん」

 幽香が悪戯っぽく笑い、「ポンッ」とルナサのヴァイオリンが間の抜けた音を歌った。

あとがき

幽香と白玉楼編でございました。こんな感じになりましたのことよ。それとなく西行妖のことにも触れてみたりしてみました。

作中で幽香が歌ってるのは、我らが心の師匠、平沢進氏の「LOTUS」でござさぶろう。歌詞が素晴らしいので歌詞を入れたかったのですが、諸々で自重し
ました。おかげでなんか分かりづらくなってしまった。未聴の方はぜひ一度聞いてみることを勧めるです。その代わりにオマケを、これまた師匠の「庭師K
ING」を替え歌にしてみました。万が一、怒られた引っ込めます。

ゆうかりんは声綺麗そう。みすちーの次くらいに歌上手そう。

何かそんな感じ。

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