職を捨てよ恋をしよう 〜All's fair in love and war

プロロオグ〜職捨記

 全ては一通の辞令から始まった。
最初に辞令を手にしたのは、幻想郷の最高裁判官であり、幻想郷で最も早起きの人物の上位十指に入るであろう四季映姫である。


映姫の朝は早い。朝も昼もない彼岸のぼんやりとした暁を、のんびりお茶を啜りながら待ち構えるくらい早い。誰よりも早く登庁し、誰よりも遅く退庁する、それが四季映姫である。なのでその仕事はピンからキリ、多種多様に及ぶ。是非曲直庁の最高責任者は、死人の裁判から前庭の掃き掃除や郵便物の仕分けなどの雑用までこなす。予断だが、上司が万事この調子である。そのため彼女の下で働く鬼たちは、登庁時間どおりに来てすら心苦しいらしい。遅刻などしてしまうと、その心苦しさに映姫の小言まで加わって非常に精神衛生上良くない。だからだろう、是非曲直庁付の鬼たちは胃痛持ちが多いと、まことしやかに囁かれている。


そんな神経に優しくない職場にあって、図太く怠惰な日々を送っている死神が一人。それがこの辞令を与えられた張本人であった。

一通り朝の雑務をこなすと自分宛の郵便物を抱え、映姫は執務室に戻る。背筋をピンと伸ばして椅子に浅く腰掛け、一息つくこともなく一日のスケジュールを確認。次に郵便物に目を通し、すぐに返事が必要なものと各部門に照会が必要なものに分け、それらを見事な螺鈿が施された一揃いの文箱に仕舞う。そしてようやく茶なぞ淹れて一服をいれる。それが朝の映姫の日課だった。彼女はこの日課を、寸分違わず毎日繰り返していた。彼女の日課を組み込んだ時計を作れば、それは未来永劫狂うことのない時計が出来上がることだろう。

だが今日はその日課は途中で止まってしまった。

「……なっ……なっ……なななななっ…………!!」

映姫が件の辞令に目を通すや、手が瘧にでもかかったようにブルブルと震えだした。額には玉のような汗が浮んでは、タラタラと美しい曲線を描く顎へと流れていく。理知を蓄えた瞳はグラグラと揺れ、文面に焦点を合わせることが出来ない。否、その書面が伝える意味を理解したくない主の無意識に忠実なだけなのかもしれない。
吸いついたように手から離れない辞令を、意志の力を奮って引き剥がし、映姫は両手で額を押さえ執務机に倒れるように顔を伏せてしまった。

「……こういう日が来るとは判っていました……心構えもしていました……送る言葉も……けど、いざその日が来てしまうと……不思議ですねぇ……溜息しかでませんよ?」

その言葉の通り、長い長い息を吐き、頬だけを歪めて力なく笑った。その皮肉な笑みを形作るだけで精一杯だったのか、映姫は完全に執務机に突っ伏してしまった。もしこの部屋の調度品たちに意識があったとしたら、さぞ驚いたことだろう。どれほどの書類と仕事の大軍に忙殺されようとも、ピンと背筋を伸ばし凛として毅然とした姿勢を崩さなかった映姫の、これほど弱った姿を見たことがないだろうからだ。否、彼女らに限らず、この是非曲直庁に勤務する者、否否、幻想郷で彼女のことを知る誰もが、こんな彼女は見た事がないだろう。普段の彼女が幻想郷印絶対零度の剃刀だとしたら、今の彼女は製造番号も不鮮明なカッターナイフがいいところだ。それも鉛筆すらも削れない、錆びついて使い物にならないカッターナイフだ。その証拠に、まだまだ山になっている書簡の類をほったらかし、だらしない姿のまま件の書簡を手の中で弄んで、溜息をつくことしかしなくなってしまった。

 

 件の辞令にはこう書かれていた。

「三途の川・幻想郷河岸担当 一級案内人 小野塚小町に対し、是非曲直庁は是非曲直庁本部への異動を命じる」

これが元凶である。

 

 

続きは本編で

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