半獣転生

その頃は未だ侍が幅を利かせていた時代で、寺の力が強く、神社の力は今より弱かった。そんなご時勢であったので、青年は各地を回る旅の修行僧とし
て半ば浮浪者に近い生活を送っていた。僧とは言っても名ばかりであり、経を唱えるくらいは出来たものの、どの宗派の何処の寺に属しているかなどは訪れ
た土地によって変えていたものだ。

 それというのも青年は一つ所に落ち着けるような者ではなかった。偶々出くわした旅の僧が病に倒れて死に行く様を見取ってやり、遺言を頼まれた通
りに届けてやった。その代わりに、生きるのに都合良さそうだからと僧の持ち物を頂いたのだ。

 それ以来は旅の修行僧を名乗って生活している。だからそれまでよりは行く先々の村や町に受け入れられ易くなった。旅の修行僧ならばあからさまに
追い立てられることがないのだから。

 しかし、追い立てられることが少なくなるようにと狙ってはいたものの、それ以上のことなど狙ってはいなかった。そこでのことはひどく予想外だっ
たのだ。

せいぜいひと月程度しか一つ所に留まることをしてこなかったのに、あんな風に長居する羽目になったり、人に近付きすぎたり、と。

季節は秋ごろ、長月を経てもうじき神無月に差し掛かる頃だった。そこを訪れたのは、いつも通りに道を適当に進んでいたからだ。

目的地があるわけでなく、たまにどこかの町や村に辿り着くことがあればそれでいい。この道を行けばどれくらいでどんな所に出るのか、たまに出くわ
す人間に聞いては適当に進む道を決める。そんな考えでもって山の中にある細い道を歩いていた。犬や熊に襲われたりしなければそれでいい。山道の用心も
そんな程度だ。ゆっくり歩いて、疲れたら休んで。旅人が気にすべき事の多くを無視して生きるのは、そこそこ気持ちのいいものだった。

「へえ……なかなか良い土地じゃないか」

 綻びだらけの袈裟を風が揺する。錆の浮いた錫杖を鳴らし、少し深めの被り笠を押し上げて眺めると、ついそんな言葉が口をついて出た。

旅路の途中でとある山間の村に辿り着いた。長閑な良い村だ。

 青年がその村を視界に納めたのは、曲がりくねった山道の中。視界を埋める木々の隙間から見えた。山々に囲まれた盆地のような地形を中心として広
がる、なかなか大きな村だった。

 盆地といっても標高自体はそれなりにある。四方を囲む山々の継ぎ目が長い年月をかけて埋められたのか、非常になだらかになっているのだ。

 四方の山から流れる川があり、土を肥やす栄養が流れ込む。余った水は山々の隙間から更に低い土地へと流れていく。よその土地から離れ過ぎ、更に
はここへ至るまでの道のりが険しい事を除けば非常に良い土地だ。尤も、娯楽や情報、医者などには困るだろうが。

 そんな事をのんびりと考えながら山道を歩いていけば、やがて村の入り口が見えてくる。村の入り口はゆるい下り坂になっており、見通しが良い。
だから村の入り口付近で遊ぶ子供の姿がはっきりと目に映った。

未だ幼い、四つか五つといった年頃か。ちょろちょろと動き回るが、幼い故に頭が大きく不安定に見える。村の向こうに面した山肌に広がるのはススキ
を育てる茅場があり、そこから取って来たであろうススキを振り回しながら駆け回っていた。

 やがて近付いてくる僧の姿に気付き、子供らしく興味を隠す事もなくじっと見つめてくる。こんな山奥の村では確かに珍しいだろう。なにせこの辺り
には寺もないそうなのだ。最も近い小さな寺でも一日歩かないといけないらしい。

シャンシャンと錫杖を鳴らしつつ、その子供に近付いていく。じいっと見つめる子供は藍染の着物を着て、長い髪を結わえる事もなく背に垂らした女の
子だった。遠慮なく、怖がる事もなく見慣れない大人を見つめるような子供だ、きっと好奇心旺盛で物怖じしない子なのだろう。

「やあ、こんにちは」

「……こっ、こんにちは」

 初めて見る大人の観察に夢中になっていたのか、少女の反応は一拍遅れてやや慌て気味のものだった。

「僕は旅の坊主でね。少しばかり寝床を借りたいんだが、村長に会わせて貰えないかな?」

「むらおさ?」

「ああ、村で一番偉い人だよ」

 きょとんとした顔で聞き返す少女に、青年は少し柔らかな笑みを返す。子供には笑顔でもって友好を示すのが手っ取り早いことを青年は知っている。

「えらい人? うんっ、こっち。ついて来てっ」

 少女は偉い人という言葉で要領を得たのか、笑顔で案内してくれた。長い髪を翻して駆け出していく。青年もまた、置いていかれぬように少し足を速
めて少女を追う。

 途中、田畑で農作業している何人もの村人と互いを視界に納めるが、少女の先導と坊主のナリで警戒はされなかったらしい。向けられたのはただの驚
きの視線だった。

警戒されなかったがために、かえって恥ずかしくなる。

そんなに子供と追いかけっこする坊主が珍しいか、と青年は心中八つ当たり気味に毒づく。

 気恥ずかしさから普段よりも、より顔を隠すように笠を深く被る。

 やがて少女は他の家々に比べて大きめの家に辿り着くと、勢いよく戸を開け、中に駆け込んで叫んだ。

「かかさまーっ、坊さまが呼んでるよー」

 喜色を満面に含んだその声は、外にいても良く聞こえてきた。青年はまだ家の前に辿り着いていないというのに、だ。

「かーかーさーまーっ」

 『かかさま』が見つからないのか、少女は先程よりも大きな声で呼びなおす。

まさか、ここの村長はあの子の母親なのかと青年は驚く。

 少女が最初に読んだときには聞き間違えたかと思った。しかし、やはり確かに『かかさま』と呼んでいるように聞こえる。

 普通、村長などの役には男がなるものだ。それも若い男ではなく年かさの男が。でなければ村をまとめられない。村長とは腕力に頼るものではないが、
村をまとめる権威が求められるものなのだ。

 年若い女では、なめられる。

 そんな思索に興じていると、がたん、と大きな物音がした。少女の駆け込んだ母屋ではない。その裏手にちらりと見える納屋の方からだった。

 物音は、がたん、がたがた、ごとっ、と連続して聞こえ、最後にがらがらっと戸を開けるような音がしてから止んだ。

 じきに母屋の裏から駆け足で回ってくる女の姿が見える。綺麗な黒髪は光の加減で青みがかって見える瞬間すらある、少女に良く似た顔立ちの女だっ
た。二十歳を迎えたようにも、まだまだ迎えていないようにも見える賢そうな女。それが青年の目の前まで駆け寄ってきて、まず頭を軽く下げた。

「いや、すまないな。納屋の整理をしていて、ちょうど荷物を抱えていたものだから。待たせてしまったかな?」

 賢そうな女は、気さくな口調でそう言った。

「構わないよ、突然押しかけたのはこちらの方だ」

 青年も気さくな雰囲気を意識して答えた。なにせ突然現れて頼みごとをするのは青年の方なのだ。印象は良い方が良いに決まっている。

 まず最初に、好印象の旅の坊主という認識しかないうちに言質を取ってしまいたい。そう考えて青年が口を開きかけると、

「かかさまーぁあっ、どこにいるのぉーっ」

 先程よりも元気の無くなった、泣きと拗ねが入りかけた少女の声がする。

「ああもうっ、すまない。ちょっと待ってくれ」

 短くそう言って、女は母屋の玄関口に頭を突っ込んで少女に負けじと叫ぶ。

「お行儀が悪いぞっ、かかさまは外だ。お前も来なさい」

 女は綺麗な髪をサラリと揺らして、青年の方へと向き直って一つ咳払い。

「うう、お見苦しいところをお見せして申し訳ない」

「ははは、とんでもない。子供は元気が一番だからね」

「そう言って頂けるとありがたいな」

 女は照れながら長い髪の先を少し指先でこするように弄んだ後、仕切りなおすかのように咳払いした。少女が母屋の中をどたどたと走って向かってく
るのが聞こえる。

「私は慧音、上白沢慧音だ。貴方は?」

「僕は錫之助、見ての通りの旅の僧でね。出来れば納屋で構わないから寝床を貸してもらえるとありがたい」

 錫之助と名乗った青年は笠の前を少し持ち上げ、顔をさらして言った。

「……ふむ。旅の僧、か」

上白沢慧音と名乗った女は少し難しい顔で思案を始める。

 理由は分かっている。ふらりと現れたよそ者に納屋といえど寝床を提供するのはあまり良い事ではない。

ましてやひと目で分かる『光沢のある白の眉』と『金の瞳』という特徴。

大きな船でやってくる南蛮人という連中はこういった派手な色を生まれ持つそうだが、そんな事は学のない者たちには知った事ではない。そもそもそん
な遠い南蛮の者たちよりも、もっと身近にそんな特徴を持つ者たちがいるのだ。

つまり、妖怪である。

だからいくら髪を剃って遠目には分からないようにしていても、面と向かえば一目瞭然。そしてその距離は鍬や鋤、鉈や斧を振るうに十分な距離。

そこで僧侶という身分がものを言うのだ。なにせ御仏の道に身を置く者である。いくらかの情状酌量の余地はあろうというものだ。多少、怪しくとも、
妖しくとも、大人しくしておけば扱いは大分マシになるのである。

難しい顔でそんな葛藤を行っているはずの慧音を見ていると、奥からどたどたと走る音が聞こえてくる。

「かかさま」

 どすっ、と音が聞こえて来そうなほどの勢いで、先程の少女が慧音の背に飛びつく勢いそのまま頭突きをした。子供特有の、大人の体力を信じての全
力のじゃれ付き。

 慧音も大して痛そうにしていないが、少女の首は無事なのだろうかと思える勢い。体重を乗せての頭突きは首を痛めるのではないかと錫之助は思った。

「こらっ、お客様の前で暴れるんじゃない」

 背中に張り付く少女に手を回して捕まえ、胸前に抱える慧音。並ぶと良く似ている。

「このお坊様に挨拶はしたのか?」

 まだだと首を横に振る少女に対し、慧音はそんな少女を錫之助の前に差し出すように向かい合わせる。

「……」

「改めて、こんにちは。僕は錫之助だ。よろしくね」

 先程は自己紹介も何もなかったので、仕切りなおしに丁度良い。

 照れているのか口を開かない少女。慧音がそれをたしなめる前に錫之助は自分から挨拶をする。あざとくならない程度で友好的に振舞う。

あからさまに怪しい容姿は仕方がない。かといって友好的過ぎれば逆に怪しまれる。適度に距離を置きつつ友好的にというのが彼の学んだ処世術だ。当
たり障りのない事ばかりの手紙のやり取りのように。決して深入りしない。何よりそれは性にあっている生き方だ。

だが、

「すぅずおすけ?」

 手紙の誤字、ましてや名前を間違われてそのまま見過ごすのは性に合わない。

「違う。錫之助、だ」

「すぅじゅのすけ?」

「す、ず、の、す、け」

「すー、ずー、のー、すー、けぇ」

「そう、錫之助だ」

「うんっ、すずおすけっ」

「……」

 幼いとは言え、幼いとは言え。

「っぷ、くくくっ」

 そのやり取りが面白かったのだろう。慧音が笑いを堪えきれない様子で声を漏らした。

 視線を少女から慧音に戻す。錫之助は仏頂面を自覚しつつも直す気はなかった。誰の娘が名前を間違っているのかと問い詰めてみたくなる。

「……ゴホン。いや、悪かった。面白くてつい、な。悪気はなかったんだが、すまないな」

 よっ、と声を出して慧音は少女を抱えなおして自分に向きなおさせる。

「この子もまだまだ舌っ足らずな所があってな。ほら、かかさまの後に言ってみろ。す、ず、の、す、け」

「すずおすけっ」

 何故か自信ありげに間違う少女に、慧音は苦笑でしか反応しない。錫之助は眉間のしわが深まっていくのを自覚している。

「うーん、では何か愛称のようなものはないかな?」

 慧音の問いに霖之助は溜息と共に返す。

「……そんなものはないよ」

「そうか、では……」

 慧音は数秒考え込んだ後に、良いことを思いついたといった顔になる。

「ではリンノスケというのはどうだ? ほら、言ってみなさい。リ、ン、ノ、ス、ケ」

「リー、ンー、ノー、スー、ケっ」

「おい。ちょっと、待ってくれ」

 錫之助が口を挟もうとしても、慧音は構おうとしない。

「そうだ、上手だぞ。リンノスケ、だ」

「うんっ、リンノスケっ」

「ははは、よく出来たな」

「リンノスケ、リンノスケ」

 にこやかに笑う慧音と、同じくきゃあきゃあ笑いながら少女はほめられた発音を繰り返す。

「待ってくれ。それはすず≠りん≠ノ読み替えたつもりなのか?」

「そうだが?」

 慧音の不思議そうな顔は、それがどうしたと言わんばかりだ。

「すずはすずでも、音を立てる鈴じゃあない。金属の、青銅の材料になる方の錫だ」

「あ、そうなのか?」

「そうだよ」

 この女、意外と大雑把だ。憮然とした錫之助の顔を見て笑う慧音を見てそう思った。

「まあいいじゃないか、それともずっと舌っ足らずな呼ばれ方をしたいのか?」

「そうではないがね。単純にその子が正確に発音すればそれで済む話だね」

「それは難しいな、しかしこの子がそれを達成できれば私も吝かではない。随分先の話になるだろうが。どうだ、お前がこの子に教え込んでみるか?」

「君は何様だ?」

「ふふふ」

 抱えた子の髪を撫でさすりながら慧音は答えの代わりに笑う。こんな娯楽は滅多にないといわんばかりだ。

「ふん、随分と子煩悩なんだな。甘やかしては碌な大人にならないと思うがね。それに、僕は長居をするつもりもない」

 立場としてはものを頼む側だ。しかし、そろそろ怒っても良い頃合でもあろう。錫之助はそう判断する。話した感じからして、慧音もそうそう怒りは
すまい。

「はは、そいつは無理な話だ。長い付き合いになるだろうよ」

「……どういうことだい?」

 錫之助は先程までとは違う種類の険しさを顔に出す。

「まあ、上がるといい」

 慧音は答えず錫之助に背を向けると土間を通り、草鞋を脱いで床へと上がる。

「子煩悩にもなるさ、何せ亡夫の残した一粒種だ」

抱かれた子が錫之助と目が合ってにこりと笑い、届きもしない手を慧音の肩越しに伸ばしてくる。

「ああ、何様だと言ったな? 私はこの村の語り部様さ。語って聞かせてやろう、この村が今、どんな状況で何故長い付き合いになるのかを」

言葉に詰まった錫之助に、顔だけ振り向いた慧音はニヤリと笑う。よく似た顔立ちと思えたはずの幼子と並んだその笑顔が、今は違うものに見える。

 生きた年月は人を変えていくものだ。自分はとっくに知っていると嘯いたことのある言葉を、酷く冷たく突きつけられた気がした。

C76告知ページその2へ