幻想の終わりとスラップスティック・ワンダーランド

 今日も幻想郷の空は青く見事に澄み渡り、渡る風は肌に優しい。今日も一日良い日になりそうだった。 昨日から続く、穏やかな日が今日も始まるのだ。
「おはようございます、メリー。良く眠れましたか?」
「おはよう、阿求。良く眠りすぎて、寝過ごしてしまいそうだったわ」
 布団から起き上がり、伸びをするタイミングを見計らったかのように、スッと障子の向こうに小さな影が写る。私の返事に答えるように音もなく襖が開いて、この屋敷の主、稗田阿求の折り目正しい姿があった。因みにまだ私は寝間着のまま、阿求は既に普段の着物姿である。加えてこれは私が起きるのが遅いわけではなく、稗田邸の人々が早いだけである。私はいつも通りの時間に起きているのだ、そうなのだ。
「朝食の用意は出来ていますので、お早くいらしてくださいね」
「毎朝ごめんなさい。本当に私のことなら気にしないで頂戴ね。寝てたら寝かしておいてくれていいんだから。朝御飯くらいなら抜いても大丈夫だから」
「何を仰ってるんですか! 朝食はその日一日の活力の元! 抜くなんてもっての他ですよ!」
 私が少し自堕落なことを冗談半分に言うと、今のように真面目にお説教されてしまう。
「じゃあ今すぐ行くわね。この格好のままで」
「ちゃんと着替えて来てください! お膳は逃げないんですから!」
 ピシャリと軽快な音を立てて、襖が閉じられる。こちらにきてからの、いつもの朝の光景だ。この阿求の真面目な反応が面白くて私はついついからかってしまう。蓮子をからかうのとはまた違った愉しみがあって、これはこれで癖になりそうだ。
 私ことマエリベリー・ハーンは、訳合ってここ、幻想郷にいる。より正確に言うならば、「幻想郷」という名の別の世界にいる。今までにも何度かファンタジーな目に合って来たが、今回ほどの特別製の超弩級は中々ないだろう。
 しかし異界に来たことの不便、例えば凶悪なモンスターに追いかけられたり、この世界を救う冒険の旅を押し付けられたりというような、ありがちな厄介事は全くなかった。それどころか元の世界いた時よりも快適な生活をしている。
「この茄子の漬物、サッパリしててとっても美味しいわ。新しく出したの?」
「それは裏のお留さんが、今朝早くに持ってきてくださったものなんです。時々分けてくださるんですが、これがどれも絶品で」
「それは素晴らしいお隣さんだわ。是非大切にすべきね」
「全く貴女という人は、現金な方ですね」
 何せ三食寝床付き、しかも使われる素材がどれをとっても取れたてピチピチの新鮮さで、それを見事な料理の腕で上品な和食に仕上げてくれるという破格の待遇なのだから、このままもう暫らく元の世界に帰らなくてもいいかな、などと思ってしまうのも仕方ないことだろう。あとテストが近いということもあるがそれはまた別の話、ということで。
「ご馳走様でした。今朝も美味しゅうございました」
「いえいえ、お粗末さまです。それでメリー、今日はこれからどうされますか?」
「そうねぇ……空飛ぶ船にも乗ったし、おとついは噂の巨大ロボットも見てきたし……今日はどうしようかしらねぇ」
 箸を置いて手を合わせながら、阿求が尋ねる。私は緑茶の香りで鼻腔を満たしながら、少し考える。こちらに来てから、そろそろ一ヶ月ほどが過ぎようとしている。その間、時に阿求に連れられて、時に彼女の友人たち――それも人間だけでなく、人外の妖怪たちも含まれるのだが――に連れられて、ほとんど毎日この世界を案内してもらったおかげで、今や私はこの世界の多くの住人よりもこの世界に詳しくなってしまっていた。最早私が足跡を残していない場所は、この世界にはないと言っても過言ではないだろう。
 暫らく考えていると、一人の顔が私の脳裏に思い浮かんだ。その顔は、暇だが特にする事もない時にうってつけの顔だった。
「特にすることもないし、霊夢の所にでも行って来ようかしら」
「……すっかり入り浸ってますねぇ……」
 呆れたように溜息混じりに阿求が笑う。霊夢こと博麗霊夢は、人郷と妖怪の山との中間、人と妖怪の間を隔てるその境目にある神社の巫女である。私のいた世界ほど忙しなくはないが、畑仕事や商売などでそれなりに忙しくしている幻想郷の人間にあって、暇人のカテゴリに分類される人種である。おかげで私のようにこの世界の住人ではない暇人の暇潰しの話し相手には持って来いなのである。阿求も阿求で、稗田家の代表として人郷を取り仕切ったりしていることもあり、いつも私の相手をしてくれるわけではないので、大助かりなのである。それに博麗神社にいれば、私の他にも同じような暇人が集ってくるので、知り合いも増え面白そうな話が入ってくるので、一石二鳥三鳥なのだ。
「分かりました。今日、私は用事で一日屋敷を開けますので、お昼が必要なら家の者に申し付けてください」
「ありがとう。遠慮なくそうさせてもらうわ」
 中々食べられない美味しいご飯を無駄にするほど、私は贅沢者ではない。私は素直にそうさせてもらうことにする。
 お茶をもう一杯もらい、お腹が落ち着いたところで私は出かけることにした。出かけるには少し早いが、どこかで何か土産でも買っていくことにしよう。阿求から茄子の漬物を渡されたことだし、何か主食になるものを買っていってやれば、味噌汁と白米くらいは出してくれるだろう。
「……肉か魚ね」
巫女が生臭を食べるのかどうかは分からないが、私はそのどちらかにしようと決めた。



 今日も今日とて私たち秘封倶楽部は、特に予定もないのに集まっていた。と言ってもメンバーは私とメリーだけなので、集まっても何もないのではあるが。
 そんなわけで二人が揃えば秘封倶楽部が始まる。ちなみに大学非公認クラブなので部室のようなものはない。つまり私たちが揃った場所が部室なのだ。全く以て便利なことこの上ない。
「蓮子、これなんか面白そうじゃない? 如何にも曰くあり気なタイトルよ。『魔女に与える鉄槌』ですって。気をつけなきゃね、蓮子」
「メリーが何を言っているのか分からないけど、そんな分厚いの、読めるの?」
「何言ってるの? 蓮子が読むのよ?」
「……私がそれを読んでどうしろと?」
 因みに今は図書館で絶賛活動中である。今日の目的は面白そうな、主に不思議な本を探そうという趣旨である。うちの大学は歴史の長さを売りの一つにしているので、そんなトンデモ書物やらオカルト本やらがわんさと埋もれている。今回はそれを発掘して楽しもうと、そういう企画だ。我ながら実にインテリジェントな企画ではないか。因みに部活動が始まってからの約一時間、書物の山は幾つも出来上がれど、斜め読みがいい所で、一冊もまともに目を通さず、結局いつものお喋りに終始している。
 何処かに設置されたスピーカーから流れ出た静かな曲で、図書館は一杯だった。
 もうすぐテストが近いとはいえ、まだまだそんな先のことに備えようとする殊勝な学生は少ないらしく、吹き抜けの図書館に私たちの他は人影は疎らだった。おかげで少々声高に話したところで誰かに迷惑をかける心配もない。
 そうやって私たちが手当たり次第に本を開き、とりとめもないお喋りをしていると、唐突に手元のページに金色の光が差し込んだ。それに気がついて、メリーがふと私の背後の大窓に顔を向ける。
「あら、もうこんな時間なのね?」
「そうね。けれど時間は私の担当のはずなのだけれど、メリーにも時間が分かるようになったのかしら?」
「きっとそうよ。ずっと一緒に居過ぎたから感染っちゃったのよ。今の時間が分かっちゃうなんてやあねぇ、何だか急にせっかちになったみたい。狭い世間、そんなに急いで何処へ行く。24時間働けますか、よ」
「ふふっ、何よそれ」
 背後の大窓を振り向く。夕日が目に痛いほど突き刺さった。流石に私も太陽の位置から今の時間を知ることはできない。しかも目視もままならないとなっては、どうにもならない。しばしその光に晒されるまま目を瞬かせていると、差し込む夕日を遮るように紫色の影があらわれた。突然の影に、メリーも不審な感じを受けているのが気配で分かった。
「何か面白い本でも、見つかりました?」
 紫の影から、聞きなれぬ声が聞こえた。それは空気を振るわせるというよりも、空気の層を突き抜け直接脳髄に声として届く、そんな感じの声だ。私は額に手を当て、差し込む光を少しでも和らげ、その影に目をこらした。金色の黄昏を背負った紫の影、それは女だった。それも物凄い美人だ。その美人が、怖気を奮わせるほどの美しさで微笑んでいた。紫の影と見えたのは、彼女のまとうスーツの色のようだった。片手に何やら年代物らしい古々しい和綴じ本を抱えている。察するに、どうやら司書らしい。初めて見る美人司書だ。落ち着いた紫のスーツに、見事なブロンドの髪を結い上げている。三角形のレンズを嵌めた眼鏡越しに覗く瞳は、紫色を黒くなるまで煎じ詰めたようで、時折光の加減で表面に浮ぶ紫色の輝きが、見る者にその深みと、底知れない知性を湛えていることを知らせる。ネームプレートには「リラ・ヴァイオレット」とあった。勿論、知らない名だ。とはいえ、私もあまり馴染みのない図書館職員を全て把握しているわけではない。以前から勤めている職員だったとしても、見覚えない人は沢山いるだろう。
 とはいえ、私には少々彼女に引っ掛かることがあった。だがそれをメリーに伝えるようとする前に、彼女がヴァイオレット女史なる人物に話しかけてしまった。
「いいえ、まだですわ。でもどうして私たちが面白そうな本を探しているとお分かりに?」
「それだけ本を積み上げていれば、知りたくなくとも分かりますわ」
女史は「優雅とはこういうことだ」といわんばかりの上品な笑みを浮べ、私とメリーの間の本で出来た渓谷を指差した。その道化た仕草に私は少しばかり複雑な笑みを浮べ、メリーは屈託なく笑った。どうやらメリーの方はこの美人女史を気に入り始めているようだった。メリーは何故私たちが神話の創造主よりも勤勉に、七日目の休息もすっ飛ばして本による天地創造に精を出しているのかを手短に話した。美人女史は私の隣の椅子を引き、音もなく座ると、組んだ両手に顎を乗せ、黙って興味深そうに彼女の話に聞き入っていた。
「では……え〜と、ミズ……ヴァイオレット? 貴女のオススメの本は何かあります?」
 一頻り説明を終えると、メリーがヴァイオレット女史に尋ねた。女史は「そうねぇ」と吐息混じりの生返事を返し、側に置いていたファイルを取り上げた。どうやらそれは図書館の蔵書リストらしく、それをペラペラと捲る。
「『錬金術に関する小冊子』」
「つまらなさそうだわ」
「『山海経』」
「可愛くないわ」
「『妙法蟲聲經』」
「虫は苦手なの」
「……こ、こらっ、メリー! 失礼じゃない!」
 流石に私も驚いていけしゃあしゃあとの無礼なことをのたまうこのお嬢様を止めた。流石にこれは不味かろうと、ヴァイオレット女史の様子を盗み見ると、女史はメリーの傍若無人さに驚きはしていたが、それで気を悪くした様子はなく、むしろどうすればこの我儘なお嬢さんを満足させることができるかということを楽しんでいるようだった。
 その後もリストから珍本奇本の名を上げたが、全くメリーが食指を動かされないのを見て取ると、仕方がないとばかりに小さな溜息をついた。そこでふとファイルを置いたその下の本に気がついたらしく、
「それじゃあこれはどうかしら?」
 とその和綴じ本を私たちに見えるように差し出した。古い和書にありがちな、ミミズののたくったような墨蹟で書名が記されていた。
「『幻』……『想郷』……『縁起』……『幻想郷縁起』と書いてあるのかしら?」
「何だか素敵なタイトルねぇ……こんなに古いのに感覚も今風で、中々珍しいわよね」
 私とメリーはお腹を空かせた雛鳥が目の前に餌を見つけたように、慌てて角突き合わせて古ぼけた表紙を覗き込む。興味を覚えて私が中を覗こうとすると、それを遮るようにスッと処女雪のように真っ白な手が伸び、和綴じ本を手元に引き寄せてしまった。
「ごめんなさい。少しゆっくりしすぎましたわ。私、そろそろ仕事に戻らないといけませんの」
 訴えかけるような私とメリーに向かって、ヴァイオレット女史は悪戯っぽく微笑んで見せた。
「そんな顔しないで。今はまだ、この本を読ませてあげられる時ではないの。でもその時が来たら、好きなだけ読ませて差し上げますから。だから、今はさよならを」
 そう言うと現れた時と同じように音もなく立ち上がり、私たちに声を出す間も与えずに、その美しく妖しい司書は立ち去っていった。
 夕日に溶けてしまったかのように、ヴァイオレット女史はあっという間にいなくなってしまった。私たちはまるで手品によって消えた鳩の行方を真剣に追う子供ように、息を詰め、衣擦れの音すらさせずに驚きに支配されていた。今この時この場所は、驚きと少しの不安で一杯の風船だった。風船は破裂することなく、少しずつ萎んでいき、やがては萎びたゴムの塊になる。
「……はぁ」
 少しして、私は肺に溜まっていた二酸化炭素を吐き出した。
「やだ、蓮子ったら。そんなに緊張してたの?」
 胸を撫で下ろしている私を見て、メリーがクスクスと笑い出した。私はムッとして頬を膨らませる。
「ええ、ええ、緊張してましたとも。美人には免疫がないものだから、ガチガチになっちゃったわ」
「全く、蓮子ってば本当に美人に弱いんだから」
 そう言ってメリーはまだクスクスと笑っている。その笑い方が、つい先ほどまで私たちの目の前にいた、あの妖しげな司書の笑みと重なる。まるであの妖女がメリーに乗り移ったのではないかと愚にもつかない妄想を沸き立たせる。
 黄昏の重く鈍く暗い橙色の光が図書館に充満する。もう閉館する時刻だからだろうか、静かに響いていたあの音楽は今は聞こえない。テスト勉強をしていた者たちも帰ったのだろうか、人の気配すらない。
 今やこの図書館は、邪なる黄昏と、妖しげなる笑声で満ち満ちているのだ。
 私の背後にある大窓から差し込む黄昏が、私の友人を照らす。今、私の目の前にいる少女は、本当にマエリベリー・ハーンなのだろうか。私は唐突に不安に襲われた。
「……メリー?」
「どうしたの? 蓮子? 変な顔して」
 思わず私は彼女の名を呼んでいた。笑い声が止み、いつものメリーの声が返事した。自分がどれだけ馬鹿なことを考えていたか気がついて、私は苦笑しながら首を振った。
「ううん。なんでもないの。さ、そろそろ閉館時間みただし、帰りましょう」
「……? 変な蓮子ねぇ」
 不思議そうな顔をして小首を傾げるメリーに、私は微笑んで見せる。
「いつも通りでしょう?」
「そうね。確かにその通りだわ」
 メリーも頷いて、微笑み返してくれた。
 そうして私たちは、黄昏満ちる図書室を後にした。
「さっきの司書さん、綺麗な人だったわね」
「そうね……」
「あら? 蓮子はそう思わなかったの?」
 図書館を出、学舎を出ると早速メリーが言った。私が素っ気無く答えると、メリーが不思議そうな顔をする。あの司書が美人に見えないのなら、一体何に見えるのか、とそう言いたいらしい。
「確かに美人だったし、知的で素敵だった。けどね……」
 そこで私は言葉を止めた。そう、確かに非の打ち所のない美人だった。だが、私がかの司書を見た時感じたものが、メリーのように素直に彼女を褒めることを躊躇させていた。
 何となく、何となくではあるが、彼女は胡散臭いのだ。
 どこがどうというわけではないので、そう感じた所以を説明できないのだが、どうにも気を許すことができないのだ。
 それだけではない。どうしてもあの司書が、メリーと重なってみえてしまうのだ。確かに顔立ちは似ている気がする。が、彼女にあそこまでの妖しさ、『妖艶さ』がない。目の前で下らないことでキャッキャと笑う彼女に――まぁ、一万歩譲って年相応の可愛さがあったとしても――、あの司書のように他人を狂わせる美貌はない。そしてあの何もかもを隠しているとしか思えない司書と違い、メリーは喜怒哀楽を素直に、あけっぴろげに表現する。それこそメリーの場合、猫の瞳のように千にも万にも表情を変えるので、見ていて飽きないどころか、ついていくので精一杯になる。
 似ていない。そう思う。けれど重なる。その矛盾する感覚が、喉に刺さった魚の小骨のように、考える度にジクジクと不快感を感じさせる。
「どうしたの蓮子? そんな難しい顔して。そんなにあの司書さんが気になるのかしら?」
「……ん、そういうわけじゃないけど……」
「私のことより、気になるかしら?」
「……なっ!?」
 唐突にズイッと顔を寄せて、メリーがそんなことを言った。顔が近い。息がかかる程に近い。メリーの癖のある巻き毛が、かすかに頬をくすぐる。綺麗な睫毛に縁取られたパッチリと大きな瞳が、ジッと私を見つめている。ビスクドールのような滑らかな肌。私は思わず息を飲み、固まってしまう。
 私たちはしばし無言で見つめ合う。
 それは刹那の間だったのだろうか。それとも一分ほ程だったのか。もしかしたら一時間くらい経っていたのかもしれない。まるで大昔の学者が言った相対性理論みたいな時間だ。
 ややあって、メリーがプッと吹き出した。私の真面目腐った顔が、余程面白かったらしい。
「やっぱり蓮子はからかいがいがあるわねぇ」
 そう言って、彼女はケラケラと笑った。
 だが私は笑わなかった。憮然とした顔のまま、楽しそうに笑う彼女をジトッとした目で見つめていた。



 何故私はこの時彼女と一緒に笑わなかったのだろうか。今も後悔している。
 この後、私たちはいつものカフェで珍しく、つまらないことで大喧嘩するのだ。こんなことが彼女との最後の記憶になるなんて、私には耐えられそうにない。




続きは本編で(*本文は予告なく変更される可能性があります)

サークル名:LASTABOUT
配置:5号館 い−28b
配布本:「幻想の終わりとスラップスティック・ワンダーランド」(東方project 秘封倶楽部小説本)
文:黒狗
頒布価格:未定

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