超弩級ギニョルは舟幽霊の夢を見るか?  〜Do Grand Guignol Dream of drown ghost? 〜

プロローグ 〜少女と海〜

 

あそこまでもう少し。
もう少し、あと少しなのに。

篝火はもう目の前だというのに。
手を伸ばせば、ほら、もう届きそうだというのに。

どうしてこんなに息苦しいのだろう。
どうしてこんなに体が冷たいのだろう。
どうして、どうして私の体は沈んでいくのだろう。

吐く息は喉を焼く程に熱い。
体は氷のように冷たい。
手足はまるで鉛のよう。
自分の体なのに全く思うようにならない。
グルグルと回る視界を、地獄を写した走馬灯が走る。
濁った灰色の空。
夜が溶けた黒く渦巻く海。
助けを求めて伸ばされる腕。
浮いて沈んで見え隠れする苦悶の表情。
それが永遠に続くかのように、順繰りに。

聞こえる音はこの地獄から這い出そうとする阿鼻叫喚と、それを呑み込もうとする逆巻く濁流の咆哮。自分の声すら聞こえない。
臓腑が捻じ切れるほどの叫び声を上げる。あるいは飢えた猟犬のような吼え声を。だがその声すら、音の形をした死の前に、成す術なく掻き消える。

黒々とした濁流は、まるで地の底から溢れてきた死そのもの。乱暴に私の体を掴み、己が故郷に引きこもうとする。
私は何度も何度も無様に抗うが、死の力は強く、気がつけば私は四方を奴らに取り囲まれてしまった。

 息ができない。手足が動かない。鼻の奥が痛い。視界が霞む。何も聞こえず、耳鳴りだけが頭蓋の中でガンガンと響く。神鳴に似たその鐘の音が数を重ねる度、私の意識は白濁し、白く白く薄れていく。
死が私を連れ去っていく。死してなお冷たく暗い死の底に、彼の故郷に私を連れて行く。
死が私に染みこんでいく。目から、鼻から、耳から、口から、毛根から染み込んでいく。
体のあちこちから私を蝕み、咀嚼し、同化し、私を死へと変えていく。
強姦にも似た理不尽な暴力に抗しなければならない。だが死に全身を思う様蹂躙され、慰み者にされた私には、既にそんな力は残っていない。
私にはただただ死へと沈みながら、遥か彼方の水面を見上げることしか出来ないのだ。
死の淵を越えたこちら側は、本当に静かだった。あの揺らぎの向こうは、未だ止むことのない暴力が渦巻き、地獄を作り上げているというのに、ただただ穏やかで、静かだった。
それが残念で、悔しくて、無念でならなかった。辺りが穏やかであればあるほど、私の心中はあの渦のごとく、逆巻き、暴れ、激しく波打つのだ。
ようやく、ようやく、やっとあの灯りが見えてきたというのに。
ああ、あの篝火は、あんなに温かそうに、煌々と輝いているのに。
私は二度とあの暖かさに触れることはできないのだ。あの灯を瞳に映すことは叶わないのだ。
この腕が動かせないことが、口惜しくて堪らなかった。
だから私は、胸元で感覚のなくなった手をギュっと握りしめることしかできなかった。
そこに何かがあったかのように。
今、ぽっかりと開いたその場所には、心臓を抉り取られたような、生々しく無残な疵があった。
その疵が疼くたび、私はただただ深く、冷たく、暗い海の底で、あの篝火の灯と温かさを羨むしかないのだ。いずれその灯も温かさも忘れてしまい、なぜ羨むのか忘れてしまったとしても、魂に刻み込まれた無念という名の疵が、羨望という名の疵が今日のことを幾度も思い出させ、私を苦しめるだろう。

 

 そこで彼女は気がついた。どうやら知らぬ間にうたた寝をしていたようだ。昔の夢を見ていた気がするが、それが何時のことなのか何処であったことなのか、それ以前にそもそも本当に自分に起こったことなのか、それすら判然としない。ただ夢と同じように固く手を握りしめていたらしく、指の先が白くなっていることだけが確かなことだった。
そもそも彼女は昔のことをほとんど憶えていない。記憶だけでなく、自分には名前すらなかったのではないかと、そんな風にすら考えている。
人間たちが自分のことを、「村紗」と呼んでいるらしいことは知っている。だがそんなことはどうでもいいことだった。どうせ暗い水底に沈めてしまえば、皆同じように口をつぐむのだから。そんな相手に何と呼ばれていようとも、彼女にとってはどうでもよいことだった。
そもそもどうして人間たちの乗る舟を沈めているのかさえ、彼女には分からなかった。虚ろな記憶を探れば、最初は妬みで舟を沈めていた気がする。もう少しハッキリした思い出での中では、自分がこの残酷な所業を愉しんでいたように思う。そしてその愉悦にすら馴れきった今となっては、舟を沈めることにさしたる理由もいらない、生活の一部となっていた。
ただ海に居て、時折通りかかる船を意味もなく沈める毎日を疑問にも思わず淡々と過ごす。満足もないが、深い絶望もない、そんな無味乾燥な日々を送っていた。
そんな彼女にも野望のようなものがないわけではなかった。野望とは、陸にあがることだった。陸に上がって、人間を襲いたかった。その理由も、彼女には分からなかった。どうしてそんなことを思うのか、本当に人を襲いたいために陸に上がりたいのか、それすら判然としなかった。
ただはっきりしていることが一つだけあった。それは 彼女が呪われた、しかし今の彼女が唯一存在を許されたこの海から何としても離れたいということだった。
そのために舟を沈めていた。目的が、いつしか手段と化していたのだ。ただ只管に通りかかる舟を我武者羅に沈め、人間の恐怖と畏れを喰い、喰らい続けて妖怪としての力を増し、一刻も早く自分を繋ぎとめる見えざる頚木を引き千切りたかったのだ。
この海から離れるため、彼女はこの呪われた海域のシンボルとなるしかなかった。何度その皮肉に、彼女は苦笑を漏らしたろうか、自嘲したろうか。歯噛みし、頭を掻き毟り、狂ったように笑ったろうか。
だがそんな情緒の刃も、時がたてば朽ち、何度も胸にきりつければ刃こぼれして鋭さを失っていく。
いつしか村紗の心はそんな矛盾も飲み込み、ただただ漣一つ立たない、死の海に似た静かさを持つに至っていた。
その話が聞こえてきたのは、そんな矛盾が滑稽に感じなくなって随分とたった頃のことである。

 

 今日は正にそのためにはうってつけの日だった。
沈めた舟の人間が、今わの際に漏らした言葉。
曰く、「妖怪退治を生業とする僧侶を雇った」。つまり人間たちが自分を滅ぼそうとしているということ。それも生半可な手段や体裁をつけるためではなく、本気でである。並の妖怪ならば恐れて逃げ出すなり、何らかの手を講じるなりするだろう。だが彼女は何もしなかった。彼女はただその僧侶を待つだけだった。逸りもせず、猛りもせず、ただ淡々と自分を退治しに来る僧侶を待った。ほんの少しの期待を込めて。
何故ならその僧侶を沈めて殺せば、おそらく彼女の力は大きく増し、もしかしたらこの海の呪縛から逃れられるかもしれない。またその僧侶に倒されることになっても、それはそれで彼女をこの呪わしい海から解き放ってくれる。だからどちらに転んだとしても、彼女の願いは叶うことになるのだ。
どこかイカサマじみている、と彼女は少しだけ頬を緩めた。そうしてみると、笑ったことも随分と久しぶりだということに気がついた。舟を沈めることが愉しみから当たり前に代わって以来、初めてかもしれなかった。
「これは件の『聖様』とやらに、感謝しなくちゃいけないわね」
心中を言葉にして、我が耳でそれを聞くと、彼女はまたくすぐったそうに笑った。久しぶりに聞く自分の声に、美しい玲瓏の鳴る音を思い浮かべたからだった。だがその笑みは、光を通せば七色に輝く玉のような、可憐な少女のそれ。その笑みを見た者がいれば、彼女が次々と舟を沈める怖ろしい妖怪だとは到底信じられないだろう。それほどまでに今の彼女の笑みは、邪気も悪意もない、屈託のない少女のものだった。
雨が降りしきる暗く冷たい海の上でクスクスと笑っている丁度その時、水平線にポツリポツリと灯りが見え始めた。彼女は、その笑みを貼り付けたまま、愉しげにそれを眺めていた。
もうすぐ望みが叶うのだと思うと、彼女は笑みを抑え切れなかった。それは少女の可憐さと無邪気さをそのままに、この呪われた海に似た、底なしの邪悪を満たしているようだった。

 

 船内から外へと出た刹那の瞬間、昼の白い光の向こうに、彼女は何時ぞやの白昼夢を見たような気がした。
外の世界の温暖化とやらの影響なのだろう。幻想郷でも夏の暑さは未だ秋に主役を譲らず、観客の批難を物ともせずに舞台の上で頑張っていた。その迷惑な夏の演技に付き合わされている客の一人が、遮るもののない空を見上げる。続いてちらりと大地を見下ろし、太陽に近い分地上よりもここの方が暑いだろうと考えた。地面には、夏の日差しから緑を守るように巨大な影が落ちている。地上よりも太陽に近いだけでなく、自分たちの船が涼を生んでいることに気がついて、夏の観客である彼女は天と地に等量の不満をぶつけた。天にはそもそもの原因を改善することを。地には自分の船への感謝が足りないことを。
キャプテン・ムラサこと村紗水蜜は、今日も今日とて聖蓮船の船長として勤務に精励していた。とはいうものの、船は行き先さえ指定してしまえば後は放って置いても目的地へと着いてしまう。だから船長といえどさして仕事があるわけではない。強いて言うなら、人妖問わぬ乗客たちの接客が主な仕事といえる。だから今も船内の警備という名目で、甲板をフラフラして暇を潰しているのである。つまり好き好んで暑い所に出てきているわけで、暑いのは自業自得なのだ。だから暑さを何かの所為にするのはおかしいのだ。だが村紗はそんなこと気にしなかった。暑くて気にできなかったともいう。
と、そんな風に恨めし気に空を見上げる村紗に、よってくるこれまた暑苦しい影が一つ。
「なんだなんだ。船長自らこんな所でサボリか?」
「ええ。私が気張ると舟が沈んでしまいますから」
「確かに。舟幽霊が商売にせいを出されても困るってものだしな」
村紗以上に溶けてだらけているのは、見ているこっちまでも暑くなりそうな黒白の衣装に身を包んだ少女だ。手には彼女のトレードマークの一つ、空飛ぶ箒を持っている。
霧雨魔理沙。幻想郷で彼女を知らない人妖はいない。そして強いて知り合いたいと思う人妖もいないだろう。残念ながら村紗は既に知り合ってしまった後であった。
「貴女は? 今日は飛ばないの?」
「こんだけ暑くちゃ、自分で飛ぶのも億劫なんだ」
そう言って魔理沙は肩をすくめる。その仕草にもいつもの覇気やけれんみがない。だが村紗にしても、それにツッコミをいれられるほどの元気があるわけではなかった。だから彼女も同じように、融けたバターのように肩をすくめるだけだった。
「商売といえば、随分と流行ってるじゃないか」
「ええ。おかげさまで」
「成功の秘密を教えて貰いたいものだ。私以外が」
「教えないでもありませんよ」
「ほう。それは是非ご教授願いたいもんだ。私以外が」
さっきまで暑さに項垂れていたのが嘘のように、魔理沙が元気良く身を乗り出した。近づくだけで暑苦しさを憶える少女を押し止めるように、開いた掌を向け、舟幽霊は笑う。屈託なく、邪気もない笑み。そうして彼方を指差した。
「勝利の鍵は、アレ、ですよ」
魔理沙はその指の先を追い、額に手で庇を作り、目を凝らし、
「成程ね。観光スポットがあれば客の入りも変るってわけか。……にしてもあれでも客は来るんだ、不思議なもんだなぁ」
そうして感心したような呆れたような声を出した。
村紗の指の先、魔理沙の視線の先には、数多の妖怪が住まう山々の頂があった。そして指と視線の二点は、剣のように鋭い峰と峰が鍔競り合い、火花を散らすその一点で結ばれている。そこにはそんな二人のことなど知る由もなく、一体の巨大な空操人形がフラリフラリと漂うように浮んでいる。
悲想天則。それは河童たちが作ったという木偶である。姿は外の世界の『ロボット』という自動人形を元にしているらしい。頭部に仰々しい棘を生やし、巨大な鬼のように見えなくもない。
「あのお人形を目当てに乗船する方、結構いるんです。やっぱり、かわいいですからねえ」
頬に両手を当て、村紗がイヤイヤと身悶える。その言は、どうやら演技やお世辞の類ではなく、本気でそう思っているらしい。初心な乙女みたいに本気で照れている村紗に、着ている服と同じように目を黒白させた魔理沙が裏返った声を上げる。
「かわいいぃ? はっ、お前の感性も大概飛んでるな」
「それは空飛ぶ船の船長にとっちゃ、これ以上ないくらいの褒め言葉ですよ」
小馬鹿にしたような魔理沙を気にもせず、村紗はにこやかに笑ってみせた。暑気さえ散らしてしまう軽やかなその笑みに、魔理沙は降参とばかりに両手を高々と掲げ、そのまま回れ右と踵を返した。疑問符を浮かべてその背中を見送る村紗に、魔理沙は振り返りもせずただ手をヒラヒラとさせる。
「はいはいご馳走様。そんなお暑いのを頂いちゃ、ただでさえ暑い看板が鉄板みたいに熱くなっちゃうよ。これだけ熱くちゃ、瘴気の満ちた舟の中の方がいくらかましだ。体がダルくなるのも、この際我慢だな。否、寧ろ体を動かす気にならなくなる分、そっちの方がいいかもしれん」
「船室を使われるなら、追加料金が必要になりますよ」
「幾ら?」
「魂一つ」
「ツケといてくれ」
そんな戯言を置いて、見るだに暑苦しい黒の三角帽が船内に続く階段の向こう側に消える。魔理沙の姿が見えなくなると、村紗は一仕事を終えたように軽く息を吐いて額の汗を拭った。まるであの黒白がいなくなっただけで、周囲の温度が2度3度下がったかのように感じられる。別段それほどの気迫やらオーラやらというような大層なものを発しているわけではないのだろうが、どうも彼女がいるだけで空気が騒がしくなるのは確かだった。その見た目も相まって、こんな日に相手をしたい者ではない。
暑さにやられ溶けてしまったのか、あみだになった帽子の位置を整えると、村紗は再び巡視という名の散歩を再開した。
「見て見て、おじいちゃん! おっきな人形さんが手を振ってるよ!」
舷側では茹だるような暑さも気にならないように、孫が傍らの祖父の裾を引き、山間の巨大人形を指差して嬉しそうにはしゃいでいる。そんな孫に、祖父は目を細め、グシャグシャと少し乱暴に、しかしたっぷりの愛情を込めて、その頭を撫でている。
そんな様子を村紗は眩しげに、どこか遠い異国の景色をみるような、そんな遠い目で眺めていた。舟のこちら側は先に魔理沙に説明したとおり、あの超弩級ギニョル目当ての乗船者でごった返していた。右と左でこれだけの不均衡があれば、普通の舟ならば傾いてしまうだろうが、舟幽霊の操る空飛ぶ舟には関係のないこと。凪の海原を行くように、聖蓮船は薄雲の波を掻き分け空を進む。
改めて辺りを見渡して、聖蓮船にこれほどの人間たちが乗り合わせることになろうとは思わなかったと、村紗は感慨深げだった。
そんな感慨に耽っていると、一時雲間に隠れサボっていた太陽が自分の仕事を思い出したらしく、サッと照り輝く顔を覗かせた。
突然の陽光が、村紗の目を鋭く射る。目が眩み、村紗の意識が、一瞬、白い光に覆われる。その眩暈にも似た感覚に、村紗の意識はフッと体から遠のいていった。

 

続きは本編で

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