三人の箱庭(1)

 私が彼女たちと何時出会い、何故出会ったのか、そして彼女たちは誰だったのか、そんなことはどうでもよいことである。

 私は間違いなく彼女たちを愛していたということだけが確かならば、それらに付随する意味というものはそれほど重要ではないだろう。

 ただ、彼女達は美しかった。一卵性双生児であった彼女たちは、とても美しかった。

 瞼を閉じればいつでも彼女たちの姿を写真の如く鮮明に思い描くことが出来る。肌理細かい白磁を思わせる柔肌に、
白いミルクドレスを着た姿は夜陰に浮かぶよう。あらゆる人の作り上げた芸術を嘲笑する、神の造作を体現するように彼女たちは美しかった。

 そして彼女たちは実に良く笑った。彼女たちが無邪気に、楽しそうに笑う姿は、華が綻ぶようにという言葉が彼女たちのために作られたのではないかと夢想させる程であった。

 彼女たちは生まれる以前は一つの存在であったが故か、実に仲が良かった、いや、単純に『仲が良かった』と表現するだけでは確実に足りない。
譬え『愛し合っていた』と表現しても、それでも全てではないと思える。それ程の濃密な関係を、彼女たちは持っていた。

 それは肉親の情というにはあまりに行き過ぎ、淫靡だった。
本来ならば一つとして生まれてくるはずの、不幸なことに二つに分かれてしまった不完全な二つの欠片が、元の完全な姿に戻ろうとしている。
それは男と女が惹かれあうよりもなお強いものなのだろう。
彼女たちは誰に憚ることなく―といっても時は真夜中、場所は視界を覆うように緑が蔓延る植物園の中でなのだが―お互いの身体が溶け合い、
混じりあうことを望むかのように強く、優しい抱擁を繰り返した。
二つに分かれた魂魄を一つに戻す儀式であるかのように、貪欲に互いの唇を求め合った。
咽返るような深緑の臭いに包まれた硝子の伽藍の底、狂おしい月光に照らされ、夜の黒を舞台に白々と浮かび上がる、シンメトリーに抱き合いくちづけに興じる双子の姿は、
まるで荘厳な一枚の宗教画のようでもあり、二体の淫魔の戯れのようでもあった。

 彼女たちはお互いを名前で呼ばず、双子のどちらも相手のことを『姉さん』と呼んでいたので、私には実際のところどちらが姉で、どちらが妹なのか、最後まで分からなかった。
それほどまでに彼女たちの間に違いはなく、見た目、声、性格、細かな仕草に至るまで、
そのことごとくが完全に同じものであった。そして彼女たちは私のことも『貴方』と呼ぶだけで、決して名前で呼ぶことはなかった。

 私たちはお互い名無しであった。

 私と彼女たちが会うのは、全面をガラスで覆い、中に一杯の緑を蓄えた植物園であった。
その植物園は彼女たちが住む広大な屋敷の片隅で、その異様な姿に似つかわしくなく、ひっそりと佇んでいた。もしかしたら自らの異形を、肩身が狭く思っていたのかもしれないなどと、
私のくだらない妄想を彼女たちに話すと、彼女たちは可笑しなことを言う人だと笑った。それから少しだけ悲しい顔をして、植物園の底から緑に染まる天井を見上げて続けた。

「私と姉さんは、此処がとても気に入っているんです」

 私の右手に座る少女が、真直ぐに私の目を見て言った。

「此処は私と姉さんのような場所なのです。だからそんな悲しいことは言わないでください」

 私の左手に座る少女が、華奢な指でティーカップの縁をなぞりながら言う。

「私たちまで、この世の全てから見放されているように感じてしまいます」

 右の少女が、血の通う様が透けて見える程透き通った右手を伸ばし、

「だから貴方からそんな悲しいことは、言わないでください」

 左の少女が、力づけるように、力を分けてもらうように、その手に同じ左手を重ねた。

 私としては、そこまで彼女たちが過敏に反応するとは思いもよらず、だから自分の失言を詫びねばならなかった。
私は素直に彼女達に謝った。すると彼女たちは全く同じ顔で嬉しそうに微笑えんでくれたのだった。

 私は私の都合で彼女たちの住む屋敷を訪れるのだが、私が訪問した時は必ず彼女たちが私を真夜中のお茶会に招いてくれるのだった。

 私はそんな彼女たちに対して、親愛の情より深い気持ちを持っていたが、そんなことはおくびにも出さなかった。
そもそも私のような者ごときが、彼女たちに対してそのような気持ちを抱くことさえおこがましく思えたし、
彼女たちが私のことを嫌っているとは思わないが、それ以上の、つまり私と同じような気持ちを持っているとは考えもしなかった。

 故に彼女たちの片割れが、私に好意を寄せていることを告白した時は、私は柄にも無く酷く慌て、それから気持ちのままに飛び跳ねたいほど嬉しかった。
私は敢えて言葉にしなかっただけで、自分も同じ気持ちであったことを少女に伝えた。

 私の言葉を聞くと、少女は頬を少しだけ蒸気させ、私に滅多に見せたことのない嬉しそうで、そして少し悪戯っぽい笑みを浮かべて見せた。

 そんな彼女に見蕩れて何も言えない私に、彼女はそっと口づけをしたのだった。

 それは彼女たちが交わす激しいくちづけではなく、触れるか触れないかというような、それこそ彼女たちに似つかわしいささやかなくちづけだった。

 真紅の薔薇を思わせる少女の唇は想像していたように柔らかく、そして驚くほどに冷たかった。私の手に控えめに重ねた少女の掌と同じように、冷たかった。

 それから少女と私の、奇妙な交際が始まった。

 少女と私はこの緑色の閉じた空間で二人だけになろうと、それこそ滑稽なほど色々なことをした。

 お茶会の途中で、少女の片割れにポットの湯がなくなったので、屋敷まで汲んできてほしいと頼んだり、
三人で植物園でかくれんぼや鬼ごっこ―それこそ隠れる側、逃げる側にとって著しく有利であることは言うまでもない―などをして遊んでは、
二人だけでほんの僅かな秘密の時間を楽しんだりした。

 ただ二人だけの時間を作って何をするのかというと、それこそ彼女たちがするように、本来ならば恋人たちが交わすような睦言めいたことは全くといってなく、
少女らしい恥じらいと、微かなくちづけと、固く手を握り交わす程度のことで満足していた。そしてそれは私と彼女の必要十分を満たしていた。

 三人でいる時より二人でいる時の方が私と少女の口数は少なかった。穏やかに沈黙を楽しんでいたと言ってよいかもしれない。
二人の時間では、私から何も話しかけなかった。二人が言葉を交わすのは、少女が私に話しかけた時ぐらいだった。
少女は傍で咲いている花が綺麗だ、とか、あの蕾は明日明後日で開きそうだ、とかそんなとりとめもないことを時折思い出したように言うだけだった。
それでも少女にとっては十分満足だったようだ。ただ少女はそんな表情を私に見せるのが恥ずかしいのか、嬉しそうな顔を私に見せまいとするようにいつもやや俯いていた。

 そんな様子を見て私はハッキリと少女の顔を覗きこんでやろうという悪戯心を起こすことが幾度かあったが、結局その計画を実行に移すことはなかった。
ただ、それでも退屈そうな顔を私の前で見せることは無かったと思う。少なくとも私は少女の満ち足りたような穏やかな顔しか見ていなかった。
だから私も現状以上の進展を望むことなく、ただ少女との静かな時間を過ごすことで十分だった。

 それは唯の自己弁護に過ぎないのかもしれないが、だからこそ『気づかなかった』。

 それとも私は薄々気づいていながら、それを楽しんでいたのかも知れない、などと今となっては埒の明かぬ想像を廻らせる。
もしくは私には甲斐性というものが欠如していたのかもしれない。あるいは注意力が散漫だったということも考えられる。

 つまり、私は彼女たち二人が代わる代わる私と逢瀬していたことに気がつかなかったのである。
このような鈍い私が、そんなことが行われていると自発的に気がつくはずもない。つまり彼女たちがあまりに無反応な観客に業を煮やして、自ら手品の種明かしたのである。

 それはいつものように植物園の中心でお茶会を開いていた時のことである。
植物園の入口の傍に生えている、背が高く赤い花を咲かせている木について三人で話していた。
結局三人の結論として、その木の下に死体が埋まっていて、その養分を吸ってあの木は花を咲かせているというところに達し、そこで丁度話が途切れた。

 その沈黙に後押しされるように、私の右手に坐っていた少女がティーポットの蓋を取り、中を覗き込んだのである。
そうして少女はいつも私と二人の時に間々そうするように、私を驚かせようとする時にだけ見せる少し意地の悪い笑みを浮かべて、私の左手に坐る少女に言ったのである。

「ねえ、姉さん。今日はどちらがポットにお湯を汲みに行きましょうか?」

 これはいつものことで、この後少女たちのじゃれ合いのような面倒事の押し付け合いを経て、結局言い出したのとは違う少女がポットに湯を汲みに行くことになるのである。
そうして私と、お湯が無いと言い出した少女は暫しの逢瀬を楽しむのであるが、私の左手に坐る少女も全く同じ意地の悪い笑みを返した。

「あら、姉さんが行ってくださいな。だって今日のデートは私の番ですもの」

 そう言ったのだった。そうして彼女たちは私に向かってシンメトリーに笑って見せた。

「……ああ、そうだったのか。道理で」

 その時になって漸く鈍い私にも納得できた。二人の時に少女いつもが俯いて、いつもより口数が少なかった理由の一つにである。
因みに「道理で」といったのはそのほんの僅かな発見と、多大な見栄からである。

「道理で貴女がたはあんなに無口で、ほとんど俯いて顔を上げなかったんですね」

 少女たちはいつもの様に悪戯っぽく笑った。

「そう、顔を上げて貴方の顔を見てしまったら、笑い出してしまいそうだったから」

 私の右手に坐る少女が可笑しさを堪えるよう、右の掌を命一杯広げて口元を押さえた。

「そう、貴方に話しかけてしまったら、私が姉さんじゃないことを思わずばらしちゃいそうだったから」

 私の左手に坐る少女が嬉しそうな口元を隠すように、左の掌を命一杯広げて口元を押さえた。

 私は小さく溜息をついた。そしてその吐息が空気を振動させる程度の声で、「道理で」と再び、今度は三度つぶやいた。

 それは新たな発見と、その発見に納得した分と、その発見に少々落ち込んだことを表したかったからである。

「如何されたのですか?」

 右の少女が笑みを畳んで、怪訝な表情を作った。

「何処か御加減が優れませんか?」

 左の少女が喜色を拭い、不安で顔を曇らせた。

「ああ、いや、大したことじゃないんです。ずっと不思議に思っていたことの答えが、今になってやっと分かったものですから」

 私は煮え切らない返事をすると、

「私の勘違いなんです。気にしないでいいですよ」

 と、できるだけ内心の落胆を知られないように、いつもと変わらぬ調子で言った。

「あら? 何を勘違いされていたのです?」

 右の少女は不思議そうな顔をした。まるで猫の瞳のようにコロコロと表情が変わる。

「姉さん! きっと私と姉さんが悪戯をしていたと、今までずっとからかっていたと思っていらっしゃるのですわ!」

 左の少女が強く右の少女の服の裾を引いた。少女の表情は何時のまにか今にも涙がふり出しそうに曇っていた。

 そんなもう一人の自分の様子で、私の言葉の意味に気がついたらしく、右の少女も驚いたように言った。

「そんな! 私と姉さんは決して貴方に意地悪をしていたわけじゃないんです。ただ、そう、貴方が驚くところが見たくて……
けれど貴方は、全然気がつく素振すらなくて……それで、つい・……だから、もし悪戯が過ぎたのなら謝ります! だから今までのことが嘘だったとお思いにならないで!」

 そうして右の少女が私の右手を取ると懇願するように私を見上げた。

「そうです! 私と姉さんが貴方を愛していることに嘘偽りはありません! それだけは間違いの無い真実なのです! 
だから、お願いですから、これまでの私と姉さんのことや、あの時交わした言葉を疑わないでください! お願いです!」

 左の少女が溢れんばかりに涙を湛えた瞳で私を見上げ、私の左手を取った。

 その時の私の気持ちを正直に言うならば、悪い気はしなかった。何せ両手に華であり、その可憐な花弁はうっすらと涙の雫に濡れて鮮やかに色づいているのである。
私の手を握り、私を見つめる彼女たちのその一途な姿が、その心が今自分だけに注がれているなどというのは、私の少しばかり存在する自尊心を刺激するには十分である。

 しばし私はそんな邪な満足感を味わってから、おもむろに口を開いた。

「大丈夫。大丈夫ですよ。私は、貴女たちが悪意を持って人の真心を弄ぶようなことはしないと知っていますから。だから、ほら、涙を拭ってください」

 ゆるりと、決して拒絶しているととられないようにゆっくりと、彼女たちの手を解くと、彼女たちの頭を撫で、指で眦に溢れた涙の雫を拭ってやった。

「……本当に許してくれるのですか?」

 暫しの沈黙の後に、左の少女が恐る恐るという感じで私に尋ねた。
私は少女の柔らかく肌理が細かい、そして少しだけのぼせたように暖かな頬に手をあてて、少女を安心させるように、できるだけゆっくりと、そしてできるだけ穏やかな調子で言った。

「許すも許さないも、そもそも私は怒ってもいませんし、気分を害したわけでもありません。寧ろ貴方たちのちょっとした悪戯に気がつかなかった私が悪いのですから。
それに今こうして貴方たちを不安にさせているのも、私のせいなのですから。私が貴方たちに怒っているなどということはありませんよ」

 そう言って私は少女を落ち着かせるようにゆっくりと頬をさすった。少女の頬は瑞々しく吸いつくようで、私は上質の絹のようだと妄想した。

 少女はしばらく不安そうな瞳を私に向けたそのままで私の慰撫に身を任せていたが、しばらくして私の手に自分の小さな手を添えると眼を瞑った。どうやら落ち着いたようであった。

 そうすると私ともう一人の自分の、二人だけで通じ合っているかのような姿を見た、もう一人の少女が、大きな声を出して不満を露にした。

「……もう! 姉さんが不安になるようなことを言うからいけないんですよ。この方はこれ位で怒ったりされる方じゃないって、そう言ったのは姉さんじゃなかったかしら! 
しかも自分だけ慰めてもらうなんて、本当にずるいのだから!」

 右の少女は左の少女に負けじと、私の手を取るとプクリと膨らませた自分の頬に押し付けた。
膨らんだ頬はその幼さを示すように肌に張りがあり、プニプにとした弾力が心地よい手触りを伝えてきた。

 私の手に添えた指先に、少しだけ力を込めて左の少女は言った。

「……今でもあの時の言葉、その後交わした言葉の数々は私の真実」

 左の少女の僅かに充血した瞳が私の視線を捉えた。そうして小振りで形の良い唇が緩々と、
私と二人だけの時のように、あの我が身を切るほどの切実で、美酒に酔ったかのように蕩けた声を紡いだ。

 その言葉に、何故か私は答える義務を持っているように感じた。
そしてその所在不明の義務感に突き動かされて、私は答えた。

「ええ。私は貴女の言葉の一つでも、疑ったことはありません。
私は貴女たちの言葉それ自身を疑ったことはありませんよ。そもそものところ、私は貴女たちが私に悪心を起こすほど興味があるとも思っていませんでしたから」

 そう言って笑った。そうである。
そもそも告白されてから当分の間、私は嬉しいと言うよりも、当惑していたといったほうがよいだろう。
彼女たちの情事とも取れるスキンシップを傍で見ていれば、私の存在などは空気のようなもので、
いや、たとえ私がいなくなったところで彼女たちは生きていけないということはないのだから、間違いなく空気よりも存在感はないだろうと、そう思っていたのだ。
そんな気体よりも希薄な存在である私に少女は愛を告げたと思っていたので、少女の真意が全く読めなかったのである。
まさか本当に単なる――いや単なると評するのは失礼なのは承知しているが――抑えきれない感情の吐露であるとは思わないであろう。
空気をありがたいと感じる人は少なからずいるかもしれないが、空気を愛する人というのは、世界広しとはいえ恐らくいないだろう。

 そう考えて、自分が彼女たちにとって私が空気よりも存在感があり、そして愛を告白するというぐらいなので、
世の見知らぬ、そして見知った人々の大部分よりも重い価値を与えられているという、至極尤もな理由に思い至るまで、 随分時間を要した。
これが私が生活する世界において生じたことならば、もっと早く、正確に自体を把握したであろう。

 しかしここは違うのである。ここはガラスに切り取られ、名も知らぬ木々を封じた、双子の少女たちのための世界なのである。
日常と地続きの異界なのである。私の手を取るシンメトリーの彼女たちのためだけに存在する箱庭の世界なのである。

 彼女たちが知る全てがこの世界の理であり、彼女たちの認識する全てがこの世界に存在する全てなのである。

 私は、この世界においては異邦人であるこの私に彼女たちが愛するだけの価値を置いていることを知り、単純に嬉しかった。
だから私にとって彼女たちは、彼女たちが私を愛する以上に重要なものなのである。

 陳腐な言い方をするならば、私の全てなのだ。
箱庭の住人となった今では、その世界の創造主である双子の少女の寵愛を一身に浴するということは、身に余る光栄であり、
それに私は私の持つ全てで以って応えなければならないと思っていた。

 そんな私の内面を知る由もないのだが、右の少女が私に言った。

「何てことをいわれるのですか、貴方は。貴方は、私と姉さんにとって唯一の人なのですから。そんな悲しいことを言わないでください。
貴方という方が存在することを知ってしまった私たちに、世界は貴方なしでは存在しないのですから。
……もうっ! 笑わないでください? これは私と姉さんの嘘偽りの無い、真実真の気持ちなのですから」

 しかし私はついついふきだしてしまった。クスクスと声に出して笑ってしまった。
無論、「笑わないで」と言った彼女たちの目の前で、それを無視して笑っているのだから、これは彼女たちにとって間違いなく愉快なことではない。
当然、不愉快であること表明する反応、つまり怒るか、悲しむかする。
そして、私は彼女たちが悲しむであろうということは、彼女たちを良く知る私にとって、容易く想像できることであった。

 私が笑い出したのを見て、やや落ち着きを取り戻していた左の少女の瞳から、堪え切れなくなった涙が一筋零れ、少女の頬に触れていた私の手を濡らし、染み込んだ。

 少女は何か言おうとして、逡巡するように口をパクパクと開いては閉じを繰り返し、
結局何も言わず、無慈悲に笑う私を責めるような態度を取ることもなく、ただ沈黙を続けた。
その姿がじっと悲しみに耐えているように思えて、自分の浅慮な行動が私の思った以上に彼女たちの心を深く傷つけているのに漸く気がつき、慌てて笑うのを止めた。
しかしそれは既に手遅れだったようだった。

 少女は、ただ泣いていた。ただ悲しんでいた。

 声も出さず、その身で悲しみを語る事もせず、ガラス張りの上天に、張りつくように輝いている月にも似た美しい瞳から、汲めども尽きぬ湧水の如くただただ涙を流していた。
本当ならば私は自らの心無い行動を詫び、少女の悲しみを癒さねばならないはずであった。だが、愚かな私はそれが直ぐにできなかった。

 私は泣いている少女に見入っていた。魅入っていたのだ。いや、魅入られていたのかもしれない。

 私は目の前で泣く美しい少女は、ただ涙を流すためだけに生まれたのかもしれないなどと、愚にもつかない妄想を抱いていたのだ。全く愚かなことである。

 私はこの時少女の涙を再び拭ってやることしかできずに、オロオロとうろたえて、結局必死に弁明することしかできずにいた。

「……ああっ! 違うんです! 決して貴女たちの気持ちを笑ったんじゃなくて、……あんまり、そう、貴女たちの様子があまりに必死にだったので、つい、嬉しくなってしまって」

 瞳から涙を流しながら少女が私を見上げ、小首を傾げた。

「……嬉しくなって? どうして?」

 まるで機械仕掛けの人形のような仕草に、頬から手を離し何度も口づけた柔らかな唇をそっとなぞった。何故か堪らなくそうしたかったのだ。そうして私は答えた。

「貴女が私を選んでくれたからです。それが私はとても嬉しかった。そして今そのことを貴女の言葉、貴女の仕草、貴女の全てで確認することができたから。
貴女たちが私と同じ気持ちだと知ることができたから。だから嬉しくて、つい。本当にこんな風に貴女を悲しませるつもりではなかったのです」

 そう言って私は少女の額に口づけした。その時の私は口づけるのが当たり前であるかのように思った。
そして少しでも少女に触れたいという欲望と、少しでも少女に触れねばならないと思う義務感で、
蜻蛉の羽のように白く透き通り、脈打つ真っ赤な命を感じることができる少女の柔肌に口づけたのだった。

 少女は私の突然の口づけに一言も発さず、全く反応を示さず、小首を傾げたまま濡れた黒真珠のような瞳で私を見つけ続けた。

 そうして暫く誰も身動ぎ一つせず、物音一つたてずにいた。私は自分がシュルレアリズムの絵の中にいるのではないかとまたしてもくだらない妄想を抱いたことを憶えている。

 彼女たちはどう思っていたのか私には想像することすら適わないが、今この時この場での彼女たちとの邂逅を、
私は妖しくも儚い淫らな夢物語の一篇に過ぎないのではないか、などと考えていたのであった。

 そんな私の邪まな考えを断ち切るというわけではないのだろうが、私の右手を握っていた少女が無言で私の手の甲を抓ったのである。
痛みがあるわけではないが、何となく少女が言わんとしていることが想像できた私は少女の顔を見た。少女はくちづけをねだるように顎を上げ、
空いた手で自分の額にかかった髪の毛を掻き揚げた。左の少女は相変わらず発条の切れた玩具のように小首を傾げたまま動かないが、
とりあえず落ち着いたように見えたので、私は次に左の少女とは正反対の感情が爆発しそうになっている右の少女を何とかしようと思った。
左の少女の涙をもう一度拭い、左の少女にもう一度はっきりと微笑みを投げかけると、
無言で私の口づけを急かす少女の要望に答え、蒼く血管が透き通って見える少女の額に口づけた。
微笑みから一転して涙を流した少女と対照的に、可愛く頬を膨らませて不平を表していた少女は、不機嫌の仮面を素早く脱ぎ捨て、
手垢のついた喜びの面を表情に被せると、その具合を確かめるように一度頷いて言った。

「ありがとうございます。流石、淑女に対する礼儀が出来ていますね。ほらほら、姉さんもいつまでも泣いていては駄目ですわ。折角の姉さんの美貌が台無しですよ」

 言葉の前半を私に向かって、後半を未だに動かないもう一人の自分に向けて言い、前髪を上げていた手と私の手に添えていた手を離し、
再び眦に涙を溜める少女の頭を、何年か先に女性を象徴するようになるであろう、今はまだ薄い胸にかき抱くと、自分と同じ烏の濡れ羽色の髪を優しく慰撫するのだった。
幼子をあやすような少女と、その少女と全く同一の姿で表情を失い涙に濡れた瞳の少女の姿は、淡い月光の差し込む暗緑色の森の中で一層幻想的だった。

 その姿に私はフワフワとした酩酊にも似た心地よい浮遊感を感じていた。矢張りここは夢の世界なのではないかと、改めて考えていた。

「……ありがとう、姉さん。もう落ち着きましたわ。本当にありがとう」

 彼女たちは暫く抱き合ったままでいたが、やがて抱かれていた少女は自分を抱きしめる少女の腕にその小さな手を添えると、掠れてはいたがハッキリとした声で礼を言った。
そうして泣いていた少女は、自らの片割れをまるで割物を扱うように優しく抱きしめると、躊躇なく自分の唇をもう一人の自分の唇に重ねた。
そして桜貝のような可憐な唇でもって飢えた獣が獲物を貪るように、もう一人の自分の唇に喰らいついた。真白い小さな歯でお互いの唇を食み合った。
そこから時折絡み合う真っ赤な舌が覗いた。彼女たちの細く青白い首が唾液を嚥下する音を鳴らし、その度に喉が蠕動する様はひどく艶めいて見えた。

 そうして淫靡な儀式を終えた少女は私に目を向けた。涙で少し充血してはいたものの瞳の色には先程私が心配したような虚無的な色は見られなかった。
少女は口づけの残滓で濡れた唇を、小さな、妙に紅い舌で味わうようにゆっくりと舐めると、私を呼んで、そして照れ臭そうに笑った。

「ご心配をおかけしました。本当にごめんさない。何だか私、早とちりしちゃったみたいで、すっかり勘違いした挙句に、泣き出してしまうなんて、本当に情けないですね」

 その言葉に私は自分の非を詫びようと口を開こうとし、少女はそんな私を制するように再び私を呼ぶと、嬉しそうに眼を細めて続けた。

「そして、ありがとう。こんな欠片に過ぎない、出来損ないの私を受け止めてくれた貴方の真心に感謝を。そしてそれほどの寛容を秘めた貴方に祝福を」

 少女はその姿に似合わぬ大仰な言葉遣いをすると、態々椅子を引いて立ち上がり、薄手のミルクドレスの裾を摘んで優雅に一礼した。
洗練されてたその振る舞いは自然で、高貴な空気を纏う少女のイメージにピタリと嵌っていた。

「いや、そんな、そもそも、私があんな態度を取らなければ貴方は泣き出さなかったわけで、……ええと、つまり、この事態を招いたのは私の心ない態度なわけで、……
ああ、それに私は貴女の告白に答えただけだし、貴女のようなかたに好意を伝えられでもしたら、そりゃ悪い気はしないどころか、ほとんど二つ返事なわけで、
…… いや、だからと言って貴女に対しての気持ちが軽いものと言うわけではなく……」

 そんな少女に私は戸惑い、しどろもどろに自らの非礼を詫びた。今思い出していても、間の抜けた情けない態度であると思う。

 そんな私である。勿論目の前の彼女たちにその姿が滑稽に映らないはずがない。
始めは挙動不審な私の様子に、呆れたのかポカンと口を開けて声も出なかった彼女たちが、同じ造作をした顔を見合わせて同じように小さく息を噴き出した。
それがきっかけとなって彼女たちはクスクスと声を殺して笑い出し、それがじょじょに大きくなり、終には体を捩り、あるいはお腹を抱えての笑声になっていた。
彼女たちはどちらも笑い過ぎで眦に溜まった涙を拭いながら、そしてそんな彼女たちの様子にさらに困惑している私の顔を見て、またさらに笑い出すのだった。

「二人ともそんなに笑わなくてもいいじゃないですか。私はただ自分の思いをのべただけで
……そりゃちゃんと伝えられなかったとは思いますよ。 それでもそんなに笑われると、いくら私でもいささか傷つきます」

 そんな見世物染みた扱いに、流石に私も耐え切れず顔を顰めて不快感を表して彼女たちに言った。
それを聞いて彼女たちも表情は笑ったままだったが、荒い息をつきながらも一応謝ってくれた。私はもしかしたら単に笑うのに疲れただけかもしれないと思った。

「大丈夫です。貴方の言葉は私と姉さんにしっかりと届きました」

「姉さんの言うとおりです。貴方が思っている以上に、貴方の言葉は私と姉さんの心に強く響きましたわ」

 彼女たちは左右両方から私の首に細い腕を絡ませると、私の耳元に息がかかるほど瓜二つの顔を近づけて囁いた。

「私と姉さん、そして貴方の気持ちは同じです。愛しています。私と姉さんの身体を貴方に捧げます。だから貴方の身体を私と姉さんに捧げてください」

「私と姉さん、そして貴方の思いは一つです。愛しています。私と姉さんの魂を貴方に差し上げます。だから貴方の魂を私と、姉さんに差し出してください」

 彼女たちの囁き声が私の耳朶を満たし、微かに湿り気を帯びた吐息が私の神経を犯した。
そうして私が彼女たちの言葉に答える暇を与えないようにするように、彼女たちは彼女たちの唇をもって私の唇を塞いだのだった。

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